272 神秘的な泉
朝起きると、隣の布団で眠るアリスの寝顔があった。微かな寝息を立ててすやすやと深く眠っていた。俺よりも遅くまで寝ているアリスはかなり珍しい。よっぽど疲れていたのだろう、起き出す気配が微塵も感じられなかった。
頬を突っついてみる。アリスは眉間にしわを寄せて何かむにゃむにゃと寝言を呟いた。
どこにでもある日常の風景。だが、誰かがなんとかしないと滅び去ってしまう日常。俺は壁にかかる時計を見た。針は七時三十分を指していた。ルナから託された四十七日間はもう始まっている。
簡単な着替えを済ませ、和室を出てジャオン2Fに上がった。トイレまで歩いて洗面所で顔を洗い、歯を磨いた。それから北メインゲートまで行って、死ビトの様子を厚いガラス越しに確認した。10メートルほど離れた場所に四体。そこから東に少しずれた位置に三体。西側には四体。連なった岩の辺りに五体。遠くのほうには更に多くの死ビトの姿があった。ショッピングモールの中からここまで多くを目にしたのは初めてだ。
「ざっと五十体ってところか……」
円卓の夜はこの惑星ALICEに既に大量の死ビトを運び入れているようだった。円卓の夜、飛来種の襲来、ガーゴイルの起動、その他もろもろ……。死に物狂いでこの異世界に戻って来たはいいが、俺が背負い込める量には限界がある。そして、その限界量はおそらく人よりも少ない。中学の同級生三人から相談を立て続けに受け、熱をだして寝込んでしまったことがあるくらいだ。頼れる仲間を頼っていこう、と俺は考える。顔見知り程度の知人でも、遠慮なく無理難題をぶつけていこう。そして、この異世界をみんなの力で存続させよう。
ふと気づくと、ひらひらと蝶のように空を飛ぶチルフィーの姿があった。チルフィーは俺の存在をショッピングモールの中に認めると、とても驚いたような表情になってぴゅーっと一直線に向かってきた。
俺は両開きのガラスのゲートを開け、素早く外に出た。
「ウキキ!? ウキキでありますか!?」
「ああ、一週間ぶりだな」
「信じられないであります! 無事だったのでありますね!」
チルフィーは大袈裟に驚き、嬉しそうに俺のまわりをくるくると飛び回ってから空中でぴたっと静止した。
「で、どうしてゲートを閉めたでありますか? 招き入れるなら開けたままでもいいと思うのでありますが」
俺はチルフィーを左手で軽く掴んで、用心深く死ビトの群れを睨みながら外に向かって歩き出した。岩塊の辺りの一体が俺たちを察知し、携帯する剣を鞘から引き抜いて寄ってきた。
「出でよ――」
俺ははっとなり、幻獣の使役のために突き出した右腕を引っ込めた。そのコンマ何秒かを置いて、攻撃軌道の予兆どおりに直剣が振り抜かれた。
下手したら右腕が落とされていたかもしれない。死ビトの動きが思っていたよりも速い。速度を増しているだろうなと考えていたが、その予想以上に速い。予兆が視えるとはいえ、油断すると単調な動作からの一撃でも貰ってしまいかねない。
直後にやって来た縦一閃を躱し、俺は体勢を立て直して死ビトの頭部に触れる。レンガブロックの上に少量の砂が撒かれているような、乾いたざらざらとした感触を手のひらに感じる。
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
首がもげて身体を沈める死ビトを見て、俺は呟く。「円卓の夜……。こんな死ビトばかりなのか……かなりしんどそうだな……」
また注意深く歩を進めた俺の左手のなかで、チルフィーが声をあげる。「神妙な面持ちのなか悪いでありますが、あたしはどうしてウキキに捕まっているのでありますか?」
ちょっと確認したいことがある。それはここら辺にあるはずの三つの灯篭だ。でも一人じゃ寂しい。お前がいれば俺は寂しくない。というような旨をさっと述べた。チルフィーは身をよじらせて、必死に俺の手中から抜け出た。
「前にもこんなことがあったでありますね。それならそうと言ってくれれば、あたしは喜んでウキキにお供するであります!」
チルフィーは立ち止まった俺の顔の前までゆっくりと移動し、そっと俺の頬に口づけをした。
「お礼が遅れたのであります! あたしやスプナキンを助けてくれて、本当に本当にありがとうであります!」
チルフィーはアリスにも負けない太陽のような笑顔でそう言った。目からは精霊のみが汲むことを許される神秘的な泉のような、澄んだ透明の涙が溢れ出していた。
どうやら、俺がこの異世界から消えていた責任を感じているようだった。たしかに時の迷宮での一件の後に黒鎧のデュラハンにやられたので無関係とは言い難いが、チルフィーが気に病むことなんて何一つない。
「スプナキンはシルフの隠れ家で元気にしてるか?」と俺は尋ねた。
「はいであります! シルフ族のみんなのために頑張っているのであります!」、チルフィーは涙を小さな指先で拭って答えた。
「そっか。でも、俺はお前をスプナキンにやるつもりはないからな」と俺は真顔で断言した。「あと……あいつが言ってたんだ、『これからチルフィーの身に起こる運命』みたいなことを。あのときは詳しく聞く時間がなかったけど、どういう意味なんだ?」
死ビトがまた一体近づいてきた。俺はよりいっそう集中して鎌鼬を使役し、ハンチング帽のようなものを被っている頭を刎ね飛ばした。
*
思っていたとおり、ショッピングモールのまわりには三つの灯篭があった。北側の大狼の住処の近くに一つ、西側のシルフ族が育てている花畑のなかに一つ、そして、東側の鳥が多く生息する池にある確認済みのものが一つ。
それらを結べば逆三角形が浮かび上がる。三角形のショッピングモールとあわせて、立派な六芒星の出来上がりだ。しかしその意味性の追求はかなわない。正直、見当もつかない。それはリアに教えてもらうしかない。
俺とチルフィーは灯篭の確認を終えると、すぐさまショッピングモールの北メインゲートに戻った。途中で計四体の死ビトを相手にしたが、やはり円卓の夜は彼らに力を与えていて、何度かひやっとさせられる場面があった。かすり傷ではあるが、左腕にひとつやられてしまった。薄手のコートの袖がぱっくりと裂かれ、僅かに血に滲む肌がさらされている。
チルフィーはジャオンに向かって一目散に飛んでいった。なんでも、今日はアリスや子供たちとプリンを作る予定があるらしい。颯爽と走る馬の尻尾のような彼女の翡翠色のポニーテールを眺めながら、俺は先ほどの質問の答えをもう一度頭のなかに思い浮かべた。
『さあ、どういう意味でありますかね?』
とぼけているようには見えなかったし、何よりドン・キホーテの如く愚直なチルフィーに嘘なんてつけるはずもなかった。どうやら本当に知らないらしい。
まあいいか、と俺は思う。今日はあとでシルフ族の隠れ家に行くつもりなので、そこでルナの『四大精霊を訪ねなさい』というアドバイスとともにスプナキンや族長に訊けばいい。
ショッピングモールの中央広場では、何人かの老人たちが朝の陽の光を浴びて楽しそうに会話をしていた。その輪のなかにクワールさんも混ざっていた。彼は文烏(チャーチルかサッチャーか俺には見分けがつかない)を肩に乗せていた。それを見て、俺はハンマーヒルの領主代理の甥とのエロ本同盟を思い出した。そろそろ新しいエロ本をあいつに送ってやらなければならない。
挨拶をしてからクワールさんに訊くと、緊急時のために一羽は待機させておくが、もう一羽は好きに飛ばしてもらって構わない、と言ってくれた。北の大地の深部までは無理だろうが、北の国グロウナイまで届ければなんとかなるんじゃないか? とのことだった。
「それで、誰宛てなんだ? そんなところに知り合いがいるのか?」
「ええ、甥が自ら志願して最深部の開拓に携わることになったんですよ」
クワールさんはかなり驚いていた。事情を何も知らないみたいだった。
「まあ、腐った根性とたるみきった体を鍛え直すにはもってこいの場所かもしれんな。もっとも、生きて帰れる保証は最初から深い根雪の底に埋まって掘り出せんだろうが」
そういえば、クワールさんは甥のことが大嫌いだった。それは仕方のないことだが(俺も甥と深く関わっていなければ、馬鹿なボンボンとしか思わなかっただろう)、少し弁護してやりたくもなった。しかしやめておいた。過去のあいつが蒔いた自業自得の種なのだから、あいつ自身が変わって和解するしかない。
ということで、俺はそそくさとウェスト・ディビジョンの通路を歩いてツゲヤに向かった。急がなくてはならない理由があった。なぜなら、アリスはもう起きていると推測されるからだ。あいつにエロ本の件を嗅ぎつけられたら、ものすごくめんどくさいことになってしまう。
しかし、俺はツゲヤの一角で立ち尽くしてしまった。エロ本やエロDVDが纏めて陳列されているアダルト・コーナーに入る狭い入り口が、太いチェーンを何重にも巻かれて入れなくなっていたからだ。
まるで悪霊でも封じられているかのようだった。そうでなければ、有史以前に人類の数を半減させてしまった古代兵器でも眠っていそうだ。「出でよ鎌鼬」、俺はチェーンを切断してアダルト・コーナーに侵入した。なめるな、と俺は思った。
「アリスの仕業だな……。エロの排斥なんて、この異世界ライフをつまらなくさせてたまるかってんだ……」
俺はいつ後ろからアリスがチョップしてこないかドキドキしながら、甥が気に入りそうなエロ本を物色した。そしてあいつの三冊を選び抜き、それから俺用のお宝の探索に勤しんだ。とある一本のDVDが俺の目に飛び込む。
ファック・トゥ・ザ・ティーチャー?
何これすごく見たい。しかし、DVDはかなり難易度が高い。デッキは和室にあるのだ。アリスが寝ている夜中なら観賞できなくもないが、あいつの嗅覚はそれを見逃さないだろう。きっと起き出してくるに違いない。
いや、それなら秘密裏に俺だけのDVD観賞スペースを設ければいいのでは? 俺だって頑張っている。結構みんなから信頼もされているし、ショッピングモールは超広い。それぐらい許されるのでは?
いずれしにろ、と俺は考える。こんな魅力的なパッケージを開けないわけにはいかない。手に取ってみると、通常のものよりもだいぶ重かった。まさかの二枚組か!? 過去編と未来編があるのか!? わくわくしながらパッケージをぱかっと開く。
「っ……!」
しかし、その中にはピンク色の封筒が入っていた。とても厚く、手紙が何枚も収められていそうなものだった。
『親愛なる七年前のあなたへ 七年後のアリスより』
封筒の表側には、親密性のこもる綺麗で丁寧な字でそう書かれていた。




