番外編 色づく世界に side未来アリス
彼は私の手を強く握る。
「生きてるな!? 意識はしっかりしてるか!?」
たぶん私が問い掛けられているのだと思う。けれど、うまく言葉が出てこない。心の奥底からいろんな思いが溢れ出てくる。いろんなものがフラッシュ・バックする。その激流をひとつに結びあげることができそうにない。私は頷く。
「よし、じゃあなんの問題もないな! ちょっと揺れるけど我慢しろよ!」
彼は左手を振りかざす。
「出でよイペタム――並びにケサランパサラン!」
妖気のような紫色のオーラを纏う日本刀が顕現して、厚く張り巡らされた蛛の巣を精密に斬り進んでいく。捕らわれていたセイとセツとヒナが自然と落下して、ケサランパサラン(白い綿毛のようなものの塊で、ウサギの尻尾のようにも見える)の上に降ろされる。
私も彼に抱かれながら降下し、乾燥してひび割れた地面に足を着ける。しかし、すぐに膝が折れてしまう。
「念のために確認だけさせてもらうぞ」、彼は私をゆっくりとセイたちの隣に座らせ、それからさっと周りを見まわす。「大狼は味方で、蜘蛛は倒しちまっていいんだな?」
私は頷く。心がまだひどく震えていて、やっぱりうまく喋れない。彼はそんな私を見て不思議そうな顔をし、そしてまた微笑む。七年分の変化がきちんとその顔に現れている。前よりも男らしい顔つきになっており、頬にはナイフで斬られたような小さな傷の痕がある。無精ひげが少し生えている。二十八歳。それは私の想像していた彼の七年後よりも、もっとずっと大人になっているように感じられる。
「じゃあすぐに終わらすから、お前はそこで休んでろ」
私は頷く。彼は私たちに向けて手を構える。
その時を狙っていたのかもしれない。十体の中蜘蛛が示し合わせたように、一斉に飛びかかってくる。
「出でよライト・フェアリー――並びに鬼熊!」
光に包まれた小さな妖精が私たちの前に顕現し、周りをぷかぷかと浮遊しはじめる。それと同時にクマちゃんが宙に滞在する中蜘蛛を、まるでブルトーザーが違法駐車の山を根こそぎ刈り取っていくみたいに薙ぎ払う。
「中蜘蛛か……懐かしいな」と彼はなんでもなかったみたいに言う。「それに、あいつアラクネだろ? なんで復活してるんだ?」
彼はアラクネを見ながら私に問いかける。アラクネは頭胸部から伸びる老婆を一刀両断されたまま、巨大な躰を微かに震わせている。
私は頷く。いや、頷いちゃおかしいわね。私は大きく何度も首を横に振る。なんで復活したのかわからない、というアピールだ。
光の妖精ちゃんは傷を癒してくれる幻獣かしら? 肌に太陽の光のような暖かさを感じ、気づけばいくつかの傷が塞がっている。セイの穿たれたお腹も元に戻っている。私はまだしっかり動かない腕をなんとか持ち上げ、セイの身体に触れる。
ふいにアラクネが口を開く。「フフフ……コレハ良イ。貴様ハアノ時ノ人間ダナ?」
彼はアラクネと間合いを詰め、短い返事で肯定する。
「コウデナクテハナ。貴様ト猿ノ娘ト『魔狼フェンリル』ガ遺シタ薄汚レタ血ノ大狼。ソノ全テヲ屠ッテコソ、我ノ心ハ晴レルトイウモノ」
アラクネの口から鋭い糸が何本も発射される。彼はあらかじめ見えていたかのように――獣の眼で実際に見えているのだろう――短い刀のような剣を腰の鞘から抜き、そのすべてを打ち払う。そして、何かに気づいたように、表情をほころばせてふっと笑う。
「そっか、そりゃよかった」と彼は言う。そして優しい顔つきで空を見上げる。「けど――一番重要な奴を忘れてるぞ」
私もつられて同じ場所に視線を飛ばす。白い大きな塊が、隕石のように落ちてくる。
「クリス!」と私は叫ぶ。セイとセツとヒナがそれに気づき、耳をぴくっと動かしてから申し合わせたように一緒になって顔を向ける。
アラクネはただならぬ気配を感じ取ったように、八つの目を素早く空に向ける。しかし、そのときにはもうクリスの爪がアラクネの腹部を切り裂き、ごっそりとその一部を地面に落としている。
ギギギギギッッッ! という耳障りな声が響き渡る。アラクネは何歩も後退し、彼とクリスから距離をとる。
「クリス、お前でかくなったな。それに強くなったみたいだ」と彼はアラクネに目を据えたまま言う。「けどまだ殺すな、復活した理由がわからない。アリスも知らないみたいだ……それをさせないようにしないと」
クリスは彼に何かを言う。きっと言っているのだと思う。けれど私にはクリスの声は聞こえない。それは彼にだけ聞こえる特別な語りなのだ。
クリスが四つ足でしっかりと大地を踏みしめているのを見るのは、本当に久しぶりだ。病気を患い、クリスはずっと大狼の住処で身体を癒していた。先祖代々が暮らしてきた住処のほうが、母の身体にいい効果を及ぼしてくれるんだ、とセイは私に教えてくれた。元気なところを見ると、もう治ったのかしら?
彼とクリスが同時に飛び跳ねた。そこからはすべてが洗練されていた。まるで舞台か何かを見ているような気分だった。彼とクリスはそんな風にぴったりと呼吸を合わせ、アラクネを文字通り刻んでいった。足の数が減っていき、躰の孔はだんだんと増えていった。そのようにして、アラクネは終わりを迎えた。微かに口を開くのが精いっぱいといったところだった。
しかし、クリスがアラクネの口の部分を噛み千切ると、それすらできなくなった。クリスはそれをぺっと吐き出し、あとは任せたという感じで彼の隣に座り込んだ。
私はふと思い出した。七年前に、アラクネが黒い塊になって毒を放出しようとしたことを。
「油断しちゃだめよ!」と私は叫んだ。「また毒を――」
けれど、それは私の杞憂に終わった。何もかも彼とクリスのあいだで決まっていたようだった。巨大なアラクネの傍らには、彼の幻獣の狛犬ちゃんが二匹。阿形と吽形。いつの間に使役していたのかしら? 彼は短刀を鞘に納め、振り返って私の顔を見た。
「待たせたな、これで終わりだ」と彼は言った。その瞬間、狛犬ちゃんたちが光の弾丸となって飛び立ち、アラクネを阿吽の呼吸で空高くまで運んでいった。だんだんと光は小さくなり、やがて見えなくなる。
「奴はアラクネをどうしたんだ!?」とセイが起き上がって言った。その視線は悔しそうに、いつまでも消えた光を追い続けていた。
「きっと宇宙に棄てたのよ」と私は言った。セイは面白くなさそうに空から目を切り、ヒナを背中に乗せてクリスのところまで歩いていった。小蜘蛛の毒はもうだいぶ薄まっているようだ。
けれど私は動けなかった。筋委縮とかそういうことではない。まだあの人に対する態度を決めかねているからだ。
「どうしたんだーアリス?」とセツが私に訊いた。「あいつが、アリスがずっと探してたウキキとかいう人間なんだろー?」
私は何も言わずに頷いた。セツはセツなりに何かを察したのか、黙ってクリスの元まで駆けていった。
彼はクリスやヒナの頭を撫でてから、私に向かって真っ直ぐに歩いてくる。まるで神社の境内を歩くような、確信的な足の運び方だった。私とは対照的に、なんの混乱も迷いもない澄んだ瞳をしていた。
本当にあの人なの? 私の元に戻ってきてくれたの?
視野の中央にある信じられない奇跡を、私は素直にそのまま受け入れることができない。夢か幻か。それとも何かの罠なのか。その可能性を思索し、その可能性に身をすくませてしまう。
あるいは私が十一歳の少女のままだったなら、何も考えずに彼の胸に飛び込んでいたかもしれない。けれど、私はもう十八歳の大人の女なのだ。なんの確証もなしに、反射的な行動に身をゆだねるなんてことができるはずがない。
彼が私の前に立ち、私の頭に手を伸ばす。
大きくて、とても優しい手だった。この手にまた頭を撫でられたいと、この七年間何度も思った。触れてほしいとずっと強く願っていた。
私ははっとなり、躊躇なくやってくるそれを素早く振り払う。
「わかったわ! あなた飛来種ね!」
風の加護でふわりと後ろに飛び跳ね、手のひらで彼≒飛来種を狙う。
「飛来種のなかには、逢いたいと焦れる人の姿に化けて心に巣食う種類がいるそうよ! あなたそれね!?」
彼≒飛来種は一瞬困惑した表情を顔に浮かべる。しかし、すぐにそれを淡い笑みにかえて、まるで母親の影に隠れる人見知りの子供をあやすように、両手を小さく広げてまた私に歩み寄って来る。
彼との距離がまただんだんと縮まる。近づく。近づく。近づいてくる。
「ただいまアリス――」
私は彼に飛びつく。彼の腕に抱かれ、彼を力いっぱい抱きしめる。
紛れもない彼の臭いだった。間違えようのない胸の温かさだった。
私たちは長い時間抱きしめ合う。その一瞬一瞬が離れていた時間の上に穏やかに積み重なっていく。彼の温もりが縁側に落ちる木漏れ日のように、私のなかの大切な場所に降り注がれているのを感じる。
私は薄く目を開く。彼の肩越しに私たちの生きる世界が広がっている。
それは色褪せた灰色の世界のはずだった。少なくとも少し前までは荒廃した死んだ世界だった。
死んだ世界? どこにそんなものがあるのかしら?
世界は鮮やかに色づいていた。
雲間から差す幾筋もの光が大地を照らし、空をいろんな色の鳥たちが横切っていった。新緑が息吹き、ひまわりが太陽を追いかけるように背伸びし、桜の花びらが暖かい風に吹かれて自由な空を舞い上がっていた。
私はそんなカラフルな色紙で作ったちぎり絵のような情景を目にすることができる。もう一度瞳を閉じ、もう一度目の前の優しい希望をぎゅっと抱く。
「たまらなく寂しかったわ」
「ああ、俺もだ……」
「どうしようもないくらい不安で不安で仕方がなかったわ」
「ああ、俺もだ……」
世界が情緒豊かに微笑みかける。
私は世界に向かって頷く。私は頷いてばかりいる。




