番外編 命の炎を side未来アリス
タランチュラのような中蜘蛛が、ジョロウグモのようなアラクネの周りに集まり出す。その数は二十匹かそのあたり。普通に考えて、マナの尽き欠けた私と、手負いのセイとセツ、それにまだ赤ん坊のヒナにどうこうできるとは思えない。
アラクネは伝説の大召喚士アメリア・イザベイルと召喚獣フェンリルが、二百年も昔に封印した。そして七年前に復活を遂げ、それをフェンリルと私とあの人とチルフィーとアナとボルサでやっと倒した。しかし、そのどちらにも大いなる犠牲が伴ってしまった。それほど強大な相手なのだ。
私の頭が自然と退路を描き出す。すぐに私は首を振る。今は逃げることを考えてはいけない。その思考からは何も生み出せない。ここでアラクネを討ち滅ぼす。それだけが、私たち全員が無事ショッピングモールまで辿り着ける条件なのだから。
三匹の中蜘蛛が私たちに向かって飛び跳ねてくる。セイが何も言わずに空中で迎え撃つ。こぼれた一匹は私に処理させるつもりだ。ホントに生意気なんだから、と私は呟く。これがついこのあいだまでは(四年前かしら?)私の腕のなかで哺乳瓶に夢中になっていたのだから、本当に大狼の成長は早いものだ。
「アイス・ハンマー!」
私はマナの消費を抑えるために氷の槌を発現させて構え、降ってくる中蜘蛛の腹の横をフルスイングで打ち払う。かさかさとした岩肌に叩きつけられた中蜘蛛は、ヒナを背中に乗せたセツの強靭なあごによって頭部を噛み砕かれる。気味の悪い刺激毛が密集するたくさんの足がしわしわと縮れ、やがて動かなくなる。
「ナイスよセツ! けれど、あなたはヒナを護ることを優先してちょうだい!」
「わかってるぜアリスー! 妹はおいらが命懸けでおもりするぜー!」
任せたわ、と私は言う。今度は五匹の中蜘蛛が放たれる。まるで私たちと中蜘蛛の戦いを天上から観覧でもしているかのように、アラクネは無言で八つの目をこちらに向けている。
戦いながら私は考える。本当にそうかしら? アラクネはただ黙って自由に私たちを戦わせるような奴だったかしら? そこにはきっとドス黒いたくらみがある。虎視眈々と、テトリスで長い棒を待っているときのように、何か私たちを連鎖的に葬る機会を窺っている気がする。
私はセツに目配せをする。セツは私の目からメッセージを読み取る。きっと狙いはあなたよ! そして護り手を失ったヒナを狙って、そのときに庇いに走る私とセイを串刺しにするつもりよ! セツがにんまりと笑う。大丈夫かしら? けれど、今は信じるしかない。
五匹めにセイがとどめを刺すと、一匹の中蜘蛛を傍らに残して、他のすべてが投入される。十三匹。ここが正念場だ。
私たちは歯を食いしばって戦う。中蜘蛛はけして弱くなんかない。一対一だとしても、油断すれば致命傷をくらってしまう。命を簡単に持っていかれてしまう。私は三匹めのとどめを刺し、切れぎれになった白いジャージーを脱ぎ捨てる。セイは最前線で血に染まる真っ白い体毛を大きく上下させて呼吸し、乾いた色のない大地を踏みしめている。
ふいに、アイス・ハンマーが光の結晶となって消え去る。私のなかに流れるマナが朽ち果てたのだ。
そして、アラクネのドス黒いねばねばとした塊のようなたくらみが形を成す。アラクネのおぞましい口が開かれ、そこから鋭い糸が放出される。狙いはやっぱりセツだ。
「セツ!」と私は叫び声をあげる。
セツは私の声に反応し、「あいよ!」と律儀に返事をして、アラクネの糸をひらりと宙返りをして躱す。その瞬間、兄のセイが一直線に宙を駆ける。私も両手の手のひらでアラクネに狙いをつける。アラクネが攻撃に転じたこのときこそ、反撃の最大のチャンスだ。何があってもこれを逃すわけにはいかない。
私は命の炎をマナに変換し、最大限の魔法力を両方の手のひらにこめる。領主のお爺ちゃんの顔が、刹那の幻となって私の目の前に映し出される。
七年前、領主のお爺ちゃんは人生最後の旅を完遂させるために、マナを命に代えて寿命を少しだけ延ばした。そして最愛の娘と孫に抱かれてこの世を去っていった。
「アリス、もしお前がこの禁忌の術を必要とするときがあれば、真似ればいい。コツは簡単でい。アリスならおちゃのこさいさいだろうよ。けれどな、逆流だけはさせちゃならねぇ。命の炎をマナに変換しちゃならねえ。マナは休めば回復するが、命はそうはいかねえからな。それはとても危険なことなんだ。わかったか? わかったなら、俺の頬に誓いのキスをするんでい」
旅の途中、領主のお爺ちゃんは私にこう言った。私は頬っぺたにキスをして、そして揺れる馬車のなかでお爺ちゃんの温かい身体に寄り添った。
ごめんなさい領主のお爺ちゃん、と私は言う。私の手のひらが七色の光を帯びる。あのときの誓い、今ここで盛大に破ってしまうわ!
「アイス・アロー・トゥエルブ!」
十二本の巨大な氷の矢が、アラクネの周りに顕現する。それはまるであわてんぼうの時計ウサギがうっかり空で懐中時計を割ってしまったかのように、きっちりと十二の刻みになって、灰色の雲の下でサークルを描く。
「貫きなさい――」と私は明確なビジョンを持って声を張りあげる。そのとき、目の端が落下していくセイの姿を捉える。
「セイッ!」と私は彼の名前をこの世界に響き渡らせる。同時に、急に身体から力が抜け落ち、干上がった大地に膝をついてしまう。
アラクネの周りに浮かぶ十二の矢は発射されていない。すぐに光となって消え、また色褪せた世界を背景にしたアラクネだけが私の視野に収まる。
何が起きたのかわからない。禁忌の術はやっぱり発動させちゃだめだったの!? しかし、それだとセイの身に起きたことが説明できない。私の背中で何かがもそもそと蠢く。
「流石ハ『アメリア・イザベイル』ノ縁者ト言ッタトコロカ。猿ニアレ程ノ魔法ガ放テルトハ、正直少シダケ肝ガ冷エタ」
何を言っているのか私にはわからない。けれど、私とセイがどうして動けなくなってしまったのかは理解できた。私は背中の不愉快な気配に触れ、払い落す。中蜘蛛が産んだ小蜘蛛――このサッカーボールほどの蜘蛛が私たちの身体を刺したのだ。そして、筋萎縮という致命的な結果をもたらした。
「アリスーなんだよこれー」と後ろのほうでセツが言う。
「動けないのじゃい」と続けてヒナが言う。
セイは落下したまま、何も口走らない。身動きひとつしない。
しばらく間があってから、アラクネの頭胸部を突き破って人の形をしたものが現れる。アメリア・イザベイルではなかった。それは真っ黒いヘドロのようなものを頭から被った老婆だった。アラクネの傍らにいた中蜘蛛(これが小蜘蛛を産んでいたのだろう)と残りがわさわさと動き、セイとセツとヒナを私の近くまで運ぶ。そして取り囲む。
老婆が満足そうに微笑み、口を開く。「七年前、我ハ貴様ヲ――大召喚士ト成リ得ル躰ヲ取リ込モウトシ、失敗ニオワッタ」
アラクネの長い銛のような足の先が宙に浮き、セイの身体に向かって無感情に落とされる。
「犬ッコロニ邪魔ダテヲサレテナ」
セイの横腹部が穿たれ、血が噴き出す。それでもセイは呻き声ひとつあげない。いや、それすらできないのかもしれない。
「セイ!」と私は叫ぶ。ついた膝をどうにか元に戻そうと身体に力を入れる。けれど立ち上がれない。脳からの命令が身体に伝わっていない。私は視線だけを老婆に飛ばす。
「やめなさい! アメリア・イザベイルのように私を取り込みたいのなら、取り込めばいいわ! けれどみんなを傷つけるのは私が許さない!」
中蜘蛛が一斉に人の悲鳴を真似る。耳を覆いたくなる断末魔が悪夢の一幕のように、私の耳にまとわりつく。老婆がさも愉快そうに笑う。ひとしきり醜悪な声を響かせてから、すっと思い出したように口を閉じる。
「許サナイナラドウスルノダ猿ノ娘」と老婆は言う。
どうするもこうするもない。私は私の大切な家族を護るだけだ。そして、いなくなってしまったみんなの思い出とともに強く生きていく。しわくちゃのおばあちゃんになるまで私は生き続ける。
もし一つだけ願いが叶っているとしたら、その隣にはしわくちゃのお爺ちゃんになったあの人の姿がある。日がな一日、私たちは二人で縁側に座って、鮮やかに色づく私たちの世界を眺めて過ごす。オレンジジュースを飲もう。プリンを三つ食べよう。私はそんな素晴らしい未来を想像する。そして、アラクネの上空を睨みつける。
そこに氷の塊をイメージする。氷河期の氷山から切り取ってきたような、真っ白い冷気がとめどなく立ち昇る塊だ。大きいほうがいい。大きければ大きいほどいい。マンモスを百体ほど閉じ込めてもまだ余りあるくらい。イメージするだけでいいのだ。魔法の発動に手なんかいらない。動かないのなら動かないままでいればいい。私はそう自分に言い聞かせる。イメージをより鮮明なものに昇華させていく。
巨大な氷の塊が灰色の空に生み出される。本当に別の空間からやってきたみたいに、前触れもなくぽんっと。
けれど、アラクネの糸が私の肩を刺し貫くと、空気中に消え入るみたいに細やかな光となってなくなってしまう。私は顔を歪める。痛みにというよりは、私の脳波のようなものを乱れさせられたことに対して。
「猿ノ娘ニハ誠ニ驚カサレル。或イハ『アメリア・イザベイル』ノ上ヲ行ク器ナノカモシレナイ」と老婆が言う。「ダカラコソ余計ナ孔ヲ入レサセルナ。直ニ我ノ躰トナルノダ」
アラクネの口から扇状に糸が放射される。それは私の足を捕らえ、動かないセイとセツとヒナを呑み込む。そしてあっという間に広範な蜘蛛の巣が完成する。私たちは抽象的な蝶となり、具象的なハンターがその獲物に音もなく忍び寄る。
「犬共ニ見守ラレナガラ我ト一ツニナルガ良イ」
老婆の手のひらが私の頬に触れる。私はその湿りっけを感じながら、また氷の塊をイメージする。しかし、それはもうこっち側の世界には降りてこない。命を変換したマナがまた底をついたのか、私のイメージに問題があるのか。あるいはさっきのがたまたま起こった奇跡に過ぎないのか……。
気づいたとき、真っ黒い老婆の乾いた唇が私の唇にあてられている。そして長く細い舌が私の中に入ってくる。私は必死に顔を振ってそれから逃れようとする。しかし、それは私の舌に執拗に絡みつき、蛇のように巻きついて根元から締め上げる。
息苦しくなってくる。脳が酸素を求めている。けれどうまく呼吸ができない。生命の源のようなものが吸い取られているのを感じる。もうここまでなのかしら……。私はお父様とお母さまとあの人の顔を頭のなかに思い浮かべる。
けれど、突然強い風が吹いて、その想像をどこかに吹き飛ばす。私は目を開く。セイがうわ言のように私の名前を呼び、セツとヒナが必死にきゃんきゃん鳴いて私のために涙を流してくれている。
風はまだそこにある。すごく強くて、そして優しく暖かい風。それは私の脇の下を通り抜ける。私のお腹をくすぐる。私の耳の辺りで一瞬立ち止まる。
諦めちゃだめなのであります!
風は正しい意味での風に戻り、過ぎ去っていく。私は風が残した懐かしい香りを身体いっぱいに吸い込み、目の前の老婆を睥睨する。
「ほうよねフィルフィー! はひはめるはんてははひはひふなひは!」
ある種の決意と覚悟が私のなかに生まれる。あがこう。必死に必死に必死になってあがこう。それができて初めて何かの可能性が花開くはずだから。あるいは花開こうとするはずだから。
私は歯を立てて老婆の舌にあてた。噛み千切ろうと、必死にめり込ませた。まるで硬いゴムのようだった。力をこめて断ち切ろうと、私はもっともっと必死になってあがいた。
それとほぼ同時だった。
「出でよ鎌鼬!」
老婆の舌がするするとほどかれ、私の舌が自由になった。そして老婆の胸の辺りに鋭利な横線が入り、冷凍庫から出した氷がステンレスの上を滑っていくように、そこから上がずり落ちていった。
その向こう側にはあの人がいた。グロテスクな断面のすぐ向こうで、彼は一瞬優しく微笑み、すぐに油断のない厳しい顔つきになって私の手を握りしめた。




