267 特権階級の高貴な小学五年生とリア
月の神殿の内部は思っていたよりもこじんまりとしていた。一般的な教会の礼拝堂と同程度かもしれない。しかし、礼拝堂と違って部屋にはほとんど何もなかった。会衆席もないし、パイプオルガンもないし、仰々しい偶像もなかった。いくつかの丸い石柱が部屋の四隅と真ん中に建っており、その円柱の周りに銀の燭台がいくつか打ち付けられ、そこに短いロウソクが刺さっているだけだった。火がついているのもあれば、ついていないのもあった。
灯りはその点在する火だけだったが、それでも双子の女神の妹に目を止めるのにたいした苦労はなかった。リアは神殿の一番奥の壁に背中を預け、体育座りで頭を垂れて泣いていた。しくしく、しくしくと、親の帰りを待つ薄暗闇に包まれた子供のように。
「リア! 助けに来たわよ!」とアリスはいの一番で声をあげた。そしてリアに駆け寄った。俺も周りに気を配りながら歩き、泣いているリアに声をかけた。
「俺たちはきみのお姉さん――ルナからお願いされて、きみをここから連れ出しに来たんだ」
リアはゆっくりと顔を上げて、俺とアリスのことを順番に見た。緋色の瞳で、銀髪ショートヘアーの美しい少女だった。いや、幼女といったほうが正しいかもしれない。しかしいずれにせよ、その見た目の幼さに反して既に顔立ちは完成されているような印象を受けた。どこにも途上点はないし、どこにも保留点を見つけ出すこともできなかった。
アリスは中腰になり、静かにルナの口が開くのを待っていた。こういう時、どう接するのが相手を不安にさせないかをよく心得ているようだった。
「あなたたちはだれ」、やがてリアは不思議そうな顔をしてそう訊いた。抑揚のない、平板の上を小さなボールがゆっくりと転がっていくような声だった。
「俺は三井ユウキ、こっちは園城寺アリスっていうんだ。リアがこの異世界に呼び寄せたオウティスと同じ星から来た人間だよ」
「オウティス」
「そう、オウティスだ。眉毛が細いラップ・ミュージシャンだ。あいつはリアが転移させたんだろ?」
「わたしがテンイさせた」とリアはか細い声で言った。「いなくなってしまったほかのヨニンも」
そして、リアはまた体育座りの膝に額をつけて静かに泣いた。アリスがその震える頭を優しく撫でた。
「いなくなったみんなのことを想って泣いているのね? 私たちの前の転移者に何かがあったのは聞いているわ。けれど、リアがそのことでずっと悲しみ続ける必要はないのよ」
アリスはそう言ってから膝を床につけ、そのままリアを抱擁した。止まっていた歯車が、あるいはそれに近い何かが動き出したような気がした。アリスにはそういう力が具わっていた。人の心を解きほぐす、優しい力だ。
長い時間リアを抱きしめ、やがてアリスは立ち上がって真っ直ぐに手を差し伸べた。「アリス」とリアは流れる涙を手でごしごしと拭きながら言った。
「そうよ! 園城寺アリス、特権階級の高貴な小学五年生よ! さあ、戻ってみんなでおいしいお菓子を食べましょ!」
二人の小さな手が薄明りのなかで結ばれた。リアの手にはまだ戸惑いが見え隠れしていたが、アリスはそれごと力強く包み込み、リアを立たせてほこりを叩くみたいにお尻のあたりを手で払った。
そして並んで一緒に歩きだす。ロウソクの火が、夢のなかの若葉のように微かに揺れる。
どうやら俺の出る幕はなかったみたいだ。俺は二人を追い、月の神殿を後にする。
*
出る幕どころか、キャストにさえ入っていなかったようだった。俺は光のない舞台袖からアリスとリアの後ろ姿を眺めながら、長い階段を上っていく。
リアは夏の日差しがよく似合いそうな真っ白いワンピースを着ていた。襟もとで青く細いリボンが蝶々結びに結ばれている。銀色の緻密な後ろ髪が、階段を上るたびに肩口で揺れ動いていた。ときどき見えるうなじは雪のように白く、そして儚い。
「みんなにリアのことを紹介するわ!」とアリスは繋いだ手を盛大に振りながら言った。
「みんな」とリアは言った。
「移住してきた人たちよ! リアと同じくらいの歳の子も三人いるから、みんな纏めて私が面倒を見てあげるわ! お姉ちゃんですもの!」
「どこからイジュウしてきたヒトたち」とアリスの横顔を見ながらリアは言った。
「森の村よ!」とアリスは言った。
二人の話を聞いていて、リアの話し方には疑問符が存在しないことに俺は気がついた。言葉のイントネーションもどことなく不思議な響き方をしていた。はっきりと的確に相手に意志を伝える双子の姉のルナとは随分と違っている。外見はどうだろう、と俺は思った。ルナもたしかに美しい幼女だったが、細部までは思い出せない。感情のないビー玉のような一対の目が、どうしても表立って俺の頭のなかに顕在してしまう。
俺はルナから一方的に突き付けられた取引のことを考えた。俺たちはこうやって、やっとの思いで月の神殿から泣いているリアを助け出すことができた。円卓の夜までにという条件があり、その条件を破ればこの異世界に住む命を根絶やしにすると彼女は言っていた。とりあえずそんなことにはならないで済みそうだ。
俺とアリスは世界を救えたと考えていいのだろうか? その答えは、地上に戻ると明瞭なかたちで現れていた。
*
「みんなが倒れているわよ!」とアリスはその光景を前にして大きな声をあげた。
クワールさんや村の老人たち、それにアリスの弟分や妹分。ショッピングモールの中央広場に集まっている限りの人々が、芝生の上や石畳の上で力なく横たわっていた。
アリスはすぐに子供たちや老人に走り寄り、声掛けをした。俺は反射的に厚いガラスの天井に目をやった。俺たちがリアを月の神殿から連れ出す前に、円卓の夜が始まってしまったのか? しかし、俺の視野の真ん中にはまだ真紅を少しも取り戻せていない、暫定的な白濁を宿す四の月があった。円卓の夜はまだ始まっていない。
「大丈夫、みんな息があるわ! 眠っているだけみたい!」
俺は胸をなで下ろし、ほっと一息ついた。気配を察知したのはそれからだった。
「ル……ルナ!」
噴水の縁にルナが立っていた。つま先まである長い銀色の髪が風になびき、彼女の顔のおおかたを覆い隠していた。しかし、緋色の目だけは俺の瞳にしっかりと映っていた。風は吹いていない。すくなくとも、俺が知覚することができる風は。
「リア、久しぶりね。元気そうで安心したわ」とルナはリアを見ながら言った。リアはアリスの横で真っ直ぐに立ち、同じようにルナのことを熟視していた。
「ルナ。ここのひとたちをどうした」とリアはアクセントと疑問符を欠いた声で言った。
「眠ってもらっただけ。ここは神が姿を現すには人が大勢いすぎる」
ルナはふわっと浮かび上がり、空中を枚数が極端に少ないアニメーションのように断続的に移動して、俺の三歩手前にすっと降りた。
「三井ユウキ。それと園城寺アリス」とルナは言った。「あなたたちには感謝しているわ。月の神殿からリアを助け出してくれたおかげで、私はこうしてリアの前に姿を現すことができた」
「感謝のしるしに握手でもしてくれるのか?」と俺は訊いた。汗が鼻筋を通って真っ直ぐ落ちていくのが見えた。言うまでもなく、それは俺の感じている恐怖がかたちとなって額に滲んでいたものだった。
ルナ何も答えなかった。俺の記憶のなかとは違い、その緋色の瞳はとても澄んだ清らかな光を浮かべていた。たしかに双子だな、と俺は思った。こうして見ると、ルナとリアは髪型や恰好を別にすれば、鏡合わせの存在みたいにそっくりだ。
「とにかく、これでルナはおかしな真似をしないで済む」と俺はやっとの思いで言った。喉が大量の砂を呑み込んだ直後のように乾いていた。
「おかしな真似?」
「この異世界の命を滅ぼさないで済む、ってことだよ」
「ああ、そのことね。でもそれはどうかしら? リアの返答次第ね」
声がていを成さずに、俺の口からただこぼれ落ちた。吐く息は白かった。まるで発言権を封じられたみたいに、発声という機能が俺の身体から一瞬にして消え失せてしまった。
ふわっと浮かんで180度足元を回転させ、浮遊したままルナはリアに言った。「リア、四の月に一緒に帰るわよ。円卓の夜がこの惑星に訪れる前に。私が自我を保っていられるうちに」
「かえらない」とリアはきっぱりと言った。「わたしはヒトといっしょにいたい。ここでヒトをすくいたい」
「救えない」とルナは決定事項を告示するように言った。「円卓の夜のあとには飛来種の襲来がある。それがこの惑星に終わらない冬をもたらす。それは最後の飛来種にして絶大な力を持つ飛来種。どうあれ人は滅ぶ運命なのよ」
リアの唇が微笑みに似た色を帯びた。「だからそのまえにわたしだけをスクイたい」とリアは『?』を切り捨てた質問を口にした。
「あなただけ救えれば私は構わない。あなたは神が死ぬということの意味を理解できていない」
リアの穏やかな瞳がアリスの顔を見た。それから視線がゆっくりと俺に移り、そして倒れ込んでいる大勢の人々に向かった。
「たたかう」とリアは無表情のまま言った。「ヒトといっしょにわたしはたたかう」
綿々とした静けさがショッピングモールの中央広場に垂れこめた。ルナは操り手を失った操り人形のように、がくっと下を向いた。次にその瞳が世界に向けられたとき、もう既に澄んだ光はそこから逃げ出していた。
「リア。あなたは何もわかっていない。ヒトは飛来種と戦うことすらできない」
俺の身体が小刻みに震えていた。その緋色の瞳を前にして、震えないでいることは不可能だった。ルナの目は悪魔に憑りつかれた子供がクレヨンで一心不乱に描いた螺旋のようになっていた。幾重もの不揃いな円がそこで一つひとつ蠢くように廻り、どこか暗い海に突如現れた渦のようにあらゆる光と感情を呑み込んでいた。
「ヒトはヒライシュとたたかうことすらできない。どういういみ」
「そのままの意味。多義的な言葉なんて必要とされていない」
「タギテキ」
「多くの意味を含む、ということよ。ヒトは飛来種と戦うことすらできない。それは最後の飛来種がこの惑星に降り立てばガーゴイルが起動するから」
ガーゴイル。俺は瞬間的に、前に屍教が一時的なアジトに使っていた遺跡を訪れたことを思い出した。その地下で佇んでいた月の迷宮のものとよく似た扉に、ガーゴイルの彫刻が施されていた。そして、それは頑なに開錠を拒んでいた。
『必要な時がくれば、それは自ずと開かれる』
あの時、ガーゴイルの彫刻は俺にこう語りかけていた。あるいは語りかけてきたような気がした。俺とアリスの歩んだ複数の道が、いま一つの紐の束に纏まろうとしている。
「ガーゴイルがキドウしたらどうなる」とリアは訊いた。
「ガーゴイルは言わばこの惑星の自浄機能。起動すれば、地表ごと最後の飛来種を焼き尽くす。もちろん、いまある生命の群は終わりを迎える。そうして惑星は飛来種から自らを護るの。防衛反応と言い換えてもいいわね。いずれにしても、そうなればリアだって生きてはいられない」
リアはルナが言ったことの意味を深く考えていた。そこに、この惑星ALICEの人々を重ね合わせて。少なくとも、俺はリアの乏しい表情からでもそう感じ取ることができた。
ルナは続けた。「もちろん私にはリアが死ぬなんて許すことはできない。だから、もしリアがこの惑星を離れて私と一緒に四の月に帰ると結論付けないのであれば、私はこの世界の命を一つ残らず狩り尽くす。円卓の夜が始まる前に。私の自我が残されているうちに」
「どうして」とリアは言った。どうしてリアがここに残ると、ルナは世界を滅亡させなきゃならないのか? 俺はリアの足りない言葉と疑問符を頭のなかで補った。答えは当然ルナしか持ち合わせていない。
「簡単なことよ」とルナは言った。「ガーゴイルの起動には大量のマナが必要とされる。生命がなくなればその供給は絶たれる。ガーゴイルが起動しなければリアは問題なく生きられる。そうなれば、最後の飛来種の襲来なんて私にとっては一つの宇宙的事象でしかなくなる。
リア――私のかけがえのない大切な妹。あなたは人にとって代わってこの惑星を支配する飛来種と生き続けることになる。嫌という顔をしているわね。なぜかしら? 私たち月の女神にとって、人も飛来種もそれほど変わりはないでしょう?」
少しだけ間があった。その空白を埋めたのはアリスの声だった。
「リア! 嫌ならちゃんと嫌って言ってあげなさい!」、アリスは型から抜け出るように激しく身をよじり、そして自由になった身体を駆使してルナの前に立ちはだかった。あれ、そういえば俺の体もいつからか動かない。
ルナは緋色の螺旋の向かう先をゆっくりと移し、そしてその感情の伴わない一対の目でアリスを見つめた。
「人に身動きを許していない。それどころか発言さえ許可を出したつもりはない。それなのに、なぜあなたは私の前に立てたの? 園城寺アリス、あなたは何者なの?」
「とっけんかいきゅうのこうきなしょうがくごねんせい」とリアは言った。
「そのとおりよ!」とアリスは腰に両手をあてて偉そうに言った。




