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263 アダムとイブ

 十層に下りる。何もないだだっ広い空間。真新しい蛍光灯を一万個ほど取り付けた直後のように、妙に明るい。

 見える範囲に壁はない。ただ白い床が、湖面のように時折揺らめいて見えるだけだ。光の屈折による目の錯覚かもしれない。そうじゃないかもしれない。

 天井はない。俺たちの頭上には白い光がただ終わりなく広がり続けている。イメージだけで言うと、ここは月の迷宮というより、死者が最初に訪れる場所といった感じがする。つまり、天国の――あるいは地獄の――一歩手前。そのうち誰かが迎えに来るのかもしれない。来ないのかもしれない。


 アリスは眉をハの字に曲げて辺りを眺めていた。「なんだか、八層や九層以上に思っていたのと違うわね」とアリスは言った。その左手には、軽く握られているアリューシャちゃん人形の姿がある。


「とりあえずアリューシャ様はリュックにしまっとけ。何がやって来るかわからない、両手をフリーにしろ」

「そうね!」と言い、アリスは赤いリュックを床に置いて開閉部をぺたんと開けた。それからおもむろにアリューシャちゃん人形の漆黒のローブの裾を捲り、その中を覗いた。


「お人形だけれどちゃんと下着を着けているのね!」

「お前な……アリューシャ様が知ったら怒られるぞ……」


 リュックを背負い、アリスはとことこと何もない白い空間を歩きだす。例によって進む方角に根拠なんてない。ただあっちを向いていたから、そのまま前に足を進めただけだろう。しかし俺は何も言わない。正解か不正解か、進んでみなくちゃわからないことだってあるのだ。


「で……何色だった?」

「白と黄色の縞々だったわ!」


 ほう、大魔導士様が縞々パンツを穿くかよ。


 先行きは明るそうだ。





 全然明るくなかった。十層の攻略をスタートしてから三十分ほど経ったが、俺たちは未だ何も発見できずに、ただ白光の空間を歩きまわっていた。


「何もないわね……」

「ああ、なんにもないな……」


 景色のない空間をただ歩むのはひどく疲れるものだった。それに光が強すぎるのも目の疲労を増加させていた。何より、その光源がどこにあるのか見当もつかないのがかなりのストレスだった。朝は太陽が出ているからこそ明るい。焚火をおこせば夜の洞窟の中でも明るい。その普遍性が現在進行形で奪われている。明るければいいというものでもないのだ。


 拳を突きながら歩行するゴリラの魔法人形が、「ウホッ」と鳴いて右側を指差したのはそれからまた三十分後だった。遠くに何かを発見したようだった。立ち止まって目を凝らしたが、ここからではまだそれが何かは判別できなかった。


「何かがあるな……」

「ずばっと一気に近づいてみるわよ!」


 ずばっと一気に近づいてみる。そこには扉があった。扉しかなかった。

 本当にただぽつんと、まるでそれを残して他はすべて綺麗に吹き飛んでしまったかのように、扉だけがそこに根を張るようにして配されていた。

 それは月の迷宮の入り口の扉とよく似ていた。古風だけどがっしりとした造りで、やはり両開きのものだった。真ん中には月の(太古の月だろう)彫刻が施されている。


 俺とアリスは瞬間的にお互いの腕を掴んだ。俺は左手でアリスの右腕を。アリスは左手で俺の右腕を。そして輪っかのようになり、俺たちは無言で握る力と逃れようとする力を少しずつ強めていった。


「なあアリス……なんでお前は俺の腕を掴むんだ?」

「あなたが迂闊に扉を開けようとしないためよ! あなたこそどうしてなのよ!」

「お前がアホみたいにほいほい開けないためだ!」


 睨み合いと押し問答が続き、やがて俺たちはまた同時にお互いの腕を放した。


「ま、まあ開けるしかないよな……」

「そうよね……。開けるわよ!」


 アリスは勢いよくドアノブに手を伸ばし、そのまま力強く引っ張った。開けた扉の先は――しかし、やはりうんざりするほど何もない白光の空間が広がっているだけだった。


「あれ、別のどこかに繋がってるんじゃないのか……」


 扉の裏側にまわってみる。しかしアリスの姿は見えない。と言うか、ここ数百年は開けようとした者すらいなかったんじゃないかと思うぐらい、扉は固く閉ざされている。


「な、ならやっぱり別の空間に繋がってるってことかな……」


 また表側に戻ってみる。アリスと四体の魔法人形がいなくなっており、扉もぴったりと閉まっていた。黙って向こう側に足を踏み入れてしまったのだろうか? 焦燥感が俺の手を素早く扉まで誘導した。引き開ける。嫌な予感しかしなかった。


「っ……!」


 予感は的中していた。扉の向こう側、見飽きた白光の何も面白くない空間。そのどこにもアリスの姿はなかった。





「おいアリスどこだ!」


 声を限りに叫びをあげる。扉を目にすることができるまでの範囲を駆けまわり、アリスの姿を探し求める。しかし、それは叶わなかった。不気味なほど明るい空間には、俺の荒い呼吸音や鼓動を強める心臓の音ぐらいしか存在しなかった。他には一切なにもない。


「くそっ……もう一度八咫烏を!」


 八咫烏を使役して辺りの気配を探る。可能な限り察知範囲を広げていくが、やはり小さな気配の一つすら見つからない。もしかしたら、アリスは扉のこっち側には来ていないのかもしれない。戻って向こう側を探そうと、俺は振り返って扉を視野の中心にもってくる。


「っ……!」


 扉が閉まっていた。そして、その隣には見たことのない男がいた。

 俺の脳は一瞬にしてそれを敵だと見なす。心臓の鼓動がより早くなり、熱い血液を一気に身体の節々にまで送り込む。


「アリスをどこにやった!?」


 左手でヴァングレイト鋼の短刀――鬼姫・陰を逆手にして軽く握り、その手を構えた右腕に添える。

 男が無言で何かを投げつける。カードのようなものだった。俺はその短辺に鬼姫・陰の刃を重ねて真っ二つにし、同時に幻獣を使役する。


「出でよ雷獣――」


ビリビリビリッ!


 しかし、狙った先にはもう男はいない。神がかり的な速さで俺の真後ろに移動している。驚くべき点が一つ。その神がかり的な速さを、俺はしっかりとこの目で捉えることができていた。雷獣を使役する刹那、男のそのスタートをはっきりと見て取れた。


 間髪を入れずに後ろを振り向く。「並びに――鎌鼬!」


ザシュザシュッ!


 男の右肩から胸にかけての位置を鎌鼬が斬り込んだ。血がマグマのように勢いよく噴出し、右腕が切断寸前の状態で柳のようにゆらゆらと揺れる。

 俺は目を閉じない。まばたきもしない。返り血がべっとりと俺の顔に付着し、赤い雫が眼前でいくつも垂れ落ちていた。それでも片膝をついて俯いた男から目を逸らさない。右手で男の後頭部に触れる。


「どんな怪我でも治る包帯がある。それはアリスが持っている。……あいつはどこだ? 答えによっては――」

「心配はいらない」、男は俺の話を遮るようにしてそう言った。「園城寺アリスはもう別の空間で我々との対話を始めている」


 男の後頭部に触れている俺の手がそっと掴まれた。右側の腕によってだった。そして男はゆっくりと立ち上がる。俺はそれに抗うことができない。力が強いとかそういうことではなく、ただ抵抗することができない。

 二つめの驚くべき点が浮かび上がった。鎌鼬で斬り刻んだはずの男の身体が何もかも元に戻っていることだった。これ以上ないぐらい俺の身体が浴びた返り血も消えていた。俺たちがいる空間は、穢れのない純真な白で充たされていた。


「さあ――」と男は言った。俺は間近でその顔を見て言葉を失った。驚くべき点の三つめ――男には顔がなかった。


「我々も対話を始めよう。相互理解を深めるために」





 どこからともなく、二つのこぶが床をすぅーっと滑ってやってきた。成長しきったラクダのものと同じぐらいの高さで、やはり真っ白だった。男は黙ってそれを指差した。ちょうどETが『トモダチ』と発声しながら指を伸ばしたときと同じ角度だった。そこに座れ、ということだろう。


 座り心地は悪くなかった。良くもなかった。しかし扉が後ろにあるというのが落ち着かないし、それが俺の心の不安を掻き立てた。体ごと後ろを向いて扉に目をやる。アリスはあの扉の向こうにちゃんといるのだろうか?


「我々はときに慎重だ」と顔のない男は言った。「故に、まず個々との対話が必要になってくる。それだけのことだ。もう一度言うが園城寺アリスは心配いらない。リラックスして会話に臨んでもらいたい」


 俺は前を向きなおして男の顔を見た。いや、一般的に顔とされる部分を見た。目も鼻も口もなく、当然表情だってない。それなのに声ははっきりと聞こえる。そしてきちんと衣服も纏っている。そのちぐはぐさが、余計不気味な印象を見る者に与えていた。いっそマネキンのように裸でいてくれたらと思わずにはいられなかった。

 恰好は裾の長い黒のレザージャケットと、黒のレザーパンツといったものだった。ジャケットには拘束具のようなベルトが何本もついているが、どれも絞められていない。まるでロックバンドのボーカルのような恰好だ。もしサングラスでもかけて、その眼球のない異様な眼窩を隠せていようものなら、本当にいつ演奏が始まってもおかしくない気がする。しかし演奏は始まらない。サングラスをかけていないから。


「アリスはあの扉の向こうに本当にいるのか? そこであんたみたいなのと話をしてるのか?」


 顔のない男は俺の真正面のこぶに腰を下ろし、はっきりとした動きで頷いた。「イヴは園城寺アリスとの対話をだいぶ進めている」


「イブ?」

「便宜的なものだ。我々は月の民の意思として造られた。それがきみたちに合わせ、いまは二つの形をとっている。それでアダムとイブというだけのことだ。もし三つならアトス、ポルトス、アラミス。四つならそこにダルタニャンでも加えればいい」

「じゃあ、一つなら?」と俺は訊いた。顔のない男――アダムは何も答えなかった。


 アダムは足を組み、あごをすっと上げた。


「我々は月の迷宮を通じて、きみたちについての理解を深めた。今度は我々のことを知ってもらいたい」

「いいよ、なんでも話してくれ」と俺は言った。「ただし、できるだけ短く頼む。あと三時間程度の時間しか俺たちにも異世界にも残されてないし、アリスの無事を早く確かめたいんだ」


 にやっと笑うぐらいの間を置いてから、「我々はときに臆病だ」と男は秘密を打ち明けるように言った。それから話が始まった。


 銀河の端に未知の存在を発見したとき、月の民は狼の群れに睨まれた臆病な羊のように(実際にアダムはそう比喩表現をした)恐れおののいた。月の民は神に祈る。すると神は彼らに英知を授け、月の迷宮を創らせた。未知の存在がいずれ――月の民には未知の存在がやって来ることがわかっていた――訪れてきたとき、彼らは月の迷宮を通して未知の存在と相互理解を深める。羊はそうでもしないと、狼と対面することができなかったのだ。


「月の迷宮は、臆病な心が生み出した相互理解のための施設――ってことか」

「そして月の民の意思として創り出されたのが私だ。私は未知の存在を理解し、未知の存在は私を理解する。そうすることで月世界への道が開かれる。逆説的に言えば、それができなければ月世界は扉を開かない。相互理解を得られない存在は危険因子でしかない」


 俺はこれまでのことを考える。月の迷宮を一層から攻略してきて、月の民について理解を得る機会なんてそうはなかった。せいぜい七層で血塗られた悪魔の話から推測したことや、ペリヌン・パリンムーン13世が改ざんを加えて造った八、九層の月世界の虚像を垣間見た程度だ。

 そのことをアダムに言うと、彼は薄っすらと笑った。あるいは明確に怒った。


「改ざんや書き換えはこちらでも確認している」と顔のないアダムは言った。

「書き換え?」と俺は尋ねるようにして反復する。改ざんはわかるが、書き換えはなんのことだかわからない。


「この惑星に落下した、月の迷宮を含む月世界の残骸。その上に三角形の建造物が転移してやって来た。どうやらその時に月の迷宮への書き換えが行われ、変容がもたらされたらしい。具体的には人を訓練するための施設になった――と言ったところか」


 三角形の建造物。もちろんショッピングモールのことだろう。それはリアによってこの異世界への転移が成された。一度消滅し、今度は姉のルナがもう一度呼び寄せた。話の順序からいうと、書き換えをしたのはリアということになる。


「なるほど、よくわかったよ」と俺は言った。「それで、あんたたちが言う『神』っていうのは双子の月の女神――ルナとリアのことか?」

「そうではない」とアダムは言った。「もちろん双子の女神も敬愛すべき存在だ。しかし、我々の神はルナとリアではない。その双子を生み出したとされる――ティアという女神だ」


 話がこんがらがってきた。双子の月の女神を生んだ女神? メモが凄くとりたい。冒険手帳に定規を使って、ちゃんと相関図として残しておきたい。さもなくばティアなんて女神のことは忘れたい。ややこしいだけだ。


「オッケー、話は終わりか? あんたたちのことはだいたい理解できたよ」と俺は立ち上がりながら言った。少なくとも理解できたつもりにはなれた。「じゃあ相互理解を深めたってことで、俺はアリスのところに行くぞ。いいんだろ?」


 アダムは座ったまま顔を振った。そしてまた告白をするように、静かに声をあげた。


「我々はときに残酷だ」とアダムは言った。俺は腰を下ろすのをやめた。黙って彼の話の続きを待った。


「あの扉は『想い合わせの扉』という。ひとたびあれをくぐれば、その名のとおり想いが合致していない相手とは永遠に再会することができない」

「な、なにを言ってるんだあんた……」

「それはとても難しいことだ。想いの熱量も同じでなければならない。とてもとても難しいことだ。我々は再会が不可能だと知った時のきみたちが知りたい。そして、そんなことを科す我々を知ってもらいたい」


 俺は右腕を突き出す。顔のない顔に明確な狙いをつける。


「あんたアリスは心配ないって言ってただろ! 嘘だったのかよ!」

「園城寺アリスは心配いらない。きみが永遠に辿り着くことのできない――かもしれないと付け加えるべきか――空間でイヴと話をしている。今のところ五体満足でな」


 アダムは立ち上がる。眼窩が微かに風に揺られるカーテンのように動いて見えた。眼がないので殺意を視ることはできない。しかし、この顔のない男が新たに纏わせた気配は、紛れもない殺意だった。俺はそれを嫌というほど感じ取らないわけにはいかなかった。俺は一度飛び退く。脳がそうしろと身体に強く訴えかけている。


「我々はときに凶暴だ」とアダムは言った。もう静けさも謙虚さもどこにも残っていなかった。「我々の強さをその身をもって知ってもらいたい」


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