261 双竜と星唄
突き破られた扉が見るみるうちに遠ざかっていく。アリューシャちゃん人形は脇目も振らずに、月の迷宮八層の長い通路を猛スピードで飛行していく。
「アリューシャ様、これはどういうことですか!」
アリューシャちゃん人形が左手に握り込む小さなカプセル。その球体の内部から、俺は叫び声をあげる。
「儂は今アリューシャちゃん人形じゃ。アリューシャちゃんでよい」
「呼び方なんてどうでもいいですよ! それよりカプセルに封じ込めてアリスのマナを拝借って……ちゃんと元に戻れるんでしょうね!? 俺たちはさっき石像にされたばかりで――」
「時間がない、飛ばすぞ」
通路の奥に正方形に区切られた光が見えてくる。それは段々と大きくなり、やがて通路の終わりが招き入れる外の陽の光なのだと俺は気がつく。
次に見えた光景は果てしなく広がる砂漠だった。砂漠? しかし、果ては意外にも早くに訪れた。と言うよりは、俺の想像以上に速い飛行速度のようだった。
砂漠を越え、乾燥したオレンジ色の岩盤地帯を越え、沼地を越え、遠くにそびえる山々の稜線をあっという間に飛び越え、それでも緩めることなくアリューシャちゃん人形は飛び続けた。
「月の迷宮の内部なのに、どうしてこんなに世界が広がっているの?」とアリスが尋ねる。逆側の手のカプセルの中にいるので姿は見えないが、声の震えから動揺は認められない。環境に適合し、適度にリラックスしているみたいだ。アリスの言葉に同意するような鳴き声も聞こえた。四体の魔法人形のようだった。どうやら一緒に閉じ込められているらしい。
「これは限りなく実像に近い虚像じゃ。月の民が住んでいた世界を再現しておるだけじゃ。とはいえ、小僧と嬢だけでは攻略に相当な時間を要してしまったじゃろう。喜べ嬢、それに小僧。アリューシャちゃん人形が八層で目覚めたことはとてつもない幸運じゃぞ」
「八層だけに末広がりということね!」
話が噛みあっているのだろうか? いや、しかしそれよりも、重要な質問の返答をまだもらっていない。
俺はカプセルの内側を叩いて音を立て、それから叫びをあげる。
「アリューシャ様! 俺たちは元に戻れるんでしょうね!?」
「安心せい。捨て石とはいえ、小僧と嬢にはまだまだ奮起してもらわねばならぬ。今のうちに身体を休めておけ。十層まで小僧に出番はないじゃろう」
アリューシャちゃん人形の顔が右側を向く。アリスのカプセルを握る手の方向だ。
「嬢はそこでアリューシャちゃん人形の一挙手一投足を見ておれ。すべてが目に追えるとは思うとらん。じゃが、全神経を集中してとくと見ておれ。その膨大な量のマナの活かし方を儂が教示してやる」
大魔導士のお眼鏡にかなったということだろうか? アリスは二つ返事で承知し、それから口をきかずにアリューシャちゃん人形の注視に努めたようだった。
白浜が見えてくる。高度が大きく下がり、次の瞬間には海面を突破して俺たちは海の中にいた。超スピードでの潜行が続く。海溝を深くまで潜り、また急激に浮上して照りつける陽光の下に出る。九層に下りる階段を探しているようだった。
海の向こう側には中世ヨーロッパのような都市部があり、アリューシャちゃん人形は大きく旋回してその一角の上空でぴたりと静止した。
「あそこじゃな」とアリューシャちゃん人形は言った。その美しい幼顔は都市の中央にある塔を見ていた。ピサの斜塔をもっと高くまで築いたような塔だが、傾いてはいなかった。その中腹あたりから入り込み、アリューシャちゃん人形は静かに床の上に降り立つ。
「九層に下る階段の位置がわかるんですか?」と俺は尋ねる。
「と言うよりは強い気配を探っておる」とアリューシャちゃん人形は歩を進めながら言う。「小僧にわかりやすい言葉をとると、ボスの気配じゃな。八層はそやつと階段がセットになっておるはずじゃ」
俺は確信めいたことをアリューシャちゃん人形に訊く。「大魔導士アリューシャ様は……月の民なんですね?」
長い沈黙が塔内部に降りた。赤い絨毯の上を漆黒のローブが通る衣擦れの音だけが世界に響き渡っていた。
「正確に言えば、この星に逃げ込んだ月の民の末裔じゃ。祖先の遺した書物に月の迷宮についての記述があり、儂はそれを頼りに彷徨しておるのじゃ。今はこれしか言えぬ――言いたくないのじゃ。九層の確認物を儂が見定めるまではな」
色々とあるみたいだった。そりゃ月の迷宮を創った月の民の末裔ともなれば、この虚像の世界の光景だけでも感慨深いものなのだろう。誰にだって色々とある。俺もアリスも様々な事柄が胸の奥で渦巻いている。だから俺は、アリューシャちゃん人形が語ろうとするまでは何も訊かないことにした。
しばらく歩行が続いた。転換期を見つけ出すことはできなかったが、またアリューシャちゃん人形は宙に浮き、飛行を始めた。どうやら廊下は螺旋状になっているようで、俺たちは塔を下に向かって進んでいるみたいだった。カプセルの中だと、それすら認識しづらい。
やがて塔の最深部に辿り着き、煌びやかな装飾が施された扉の前でアリューシャちゃん人形は止まった。時間にすると塔に入ってから十分程度だろうか? 扉を突き破ると、八層のボスが俺たちの前に現れた。
それは巨大な双頭の竜だった。
*
巨大な双頭の竜が撃退された。撃退された? あまりにも速くて何が起こったかよくわからなかったが、アリューシャちゃん人形の口が開かれ、そこからギャリック砲のような光弾が飛んでいったのはわかった。それから数十秒の攻防が続き、気づけば竜は横たえていた。眩い光がその全身を包み込み、どこかに消し去っていく。
「りゅ、竜なんて本当にいるんですね……」と俺は言った。それは本当に頭部が二つあり、西洋のドラゴンのイメージにだいぶ近い生物だった。体長は50メートルぐらいはあった気がする。
「おるよ。当たり前におる。じゃが、今のは虚像じゃ。際限なく実像に近い虚像じゃ。その強大さは比べるまでもなかろうて。双竜――聞いたことぐらいあるのではないか?」
俺は頷く。「はい、たしか暦の呼称にもなってる六竜のうちの一体……一頭? でしたよね?」
アリューシャちゃん人形は微かにあごを引き、にやりと笑った。「嬢は双竜の虚像を見てどう感じた? 何を思った?」
含みのある問いのように俺は感じた。アリスがグスターヴ皇国の皇室の血を引いていることが念頭に置かれていると見て間違いなさそうだった。しかし、アリューシャちゃん人形はその事実をアリスに伝えようとはしなかった。彼女がそうしないのなら、それはまだ言うべき時ではないのだろう。あるいは、やはりその役割を担っているのは俺ということなのかもしれない。
俺もアリューシャちゃん人形も辛抱強くアリスの言葉を待ったが、しかしアリスの声が空気を震わすことはなかった。アリューシャちゃん人形が呆れた顔でまた口を開く。
「傾注しておれとは言うたが、喋るなとは言うておらぬ」
「――喋っていいの!?」とアリスは急に呼吸をするように言った。
「いや、やはりよい。嬢は引き続き儂の動きだけを見ておれ。儂のマナの使い方を見ておれ」
「了解よ! じゃあまた集中してアリューシャちゃんを見ておくわ!」
アリスはまた黙りこくり、魔法人形の応援するような鳴き声だけが俺の耳にまで届いていた。俺もそれに倣い、心の中で激励する。
「さて、では九層に参ろうぞ」
そして、俺たちは末広がりの世界を後にした。
*
九層はどうやら八層とは違い、建物内部だけで完結しているようだった。と言っても、その様子は月の迷宮七層までとはやはりだいぶ異なっている。眩しくなるほどに白を基調とした造りの、煌びやかな宮殿。とでも言えばいいのだろうか? 調和を司る神の住居のようにも見えるし、とても邪悪な者が棲む不吉な場所のようにも感じられた。
長い一直線の廊下を進み、アリューシャちゃん人形は大きな抽象画の掛っている突き当りを右に曲がる。飛ぶスピードがゆっくりなので、俺も色々と目にすることができた。
「ここは……なんなんですか?」
「ムーン・パレスじゃ」とアリューシャちゃん人形は思考の片隅で呟くように言う。
それから壁に飾られている絵(黄金のリンゴをかじる老婆のようだった)や、天井の明かりを強く反射するほど磨き込まれている彫像(片翼をもがれた首のない天使のようだった)についていくつか質問を重ねたが、どれも返事は返ってこなかった。そして無言のうちにスピードが速まり、しばらく進んでから「敵じゃ」とアリューシャちゃん人形は平坦な声をあげた。
カプセルの中で身をよじって後方に目をやる。黒い人型の物体が三体、浮遊して俺たちを追いかけていた。
「あれは……影……?」
目を凝らしてその姿をよく見てみる。やはり人の影のようだった。中央の一体が手を水平に持ち上げ、火球が発射される。
「アリューシャ様! 撃たれてますよ!」
炎は俺のすぐそばを飛び抜け、前方の華やかな壁にありありとした焦げ目を入れた。それを皮切りに、また次々と火球や氷の礫が撃ち出される。
「わかっておるわ。喚くでない愚か者」
空中を選り分けて進み、アリューシャちゃん人形は鮮やかな回避行動をとった。しかし攻撃の手は止まない。今度はきりもみ回転で大きく左に流れ、僅かに右に流れ、後方から撃ち放たれるものを紙一重で何度もかわしていく。
「八層と違い、やり過ごせそうにはないのう」
アリューシャちゃん人形が顔を後ろに傾ける。そして、口をぐわっと大きく開いて光弾を発射する。
二発、三発と続き、そのすべてが命中すると、またアリューシャちゃん人形はさっと前を向いた。影は落下して身をくねらせ、それからすぐに風に吹かれるひと塊の煙のようにして消えていった。
「あいつらは……なんなんですか?」
アリューシャちゃん人形は質問には答えない。廊下を猛スピードで飛び、地下に下りる階段を見つけて進んでいく。俺は気長に返答を待った。また現れた影を四体倒したところで、一つに結ばれたアリューシャちゃん人形の口が開かれた。
「ここにいた者たちじゃ。皮肉なもんじゃな、世界を形成するすべての事物が虚像じゃというのに、影だけが紛れもない実像だというのも」
「ここにいた者たち……このムーン・パレスを守ってた兵士とかですか?」
「じゃろうな。王なき後も愚直にその任務を遂行しようとする悲しき者たちじゃろう」
アリューシャちゃん人形はゆっくりと首を振った。影に対して憐れみや同情を抱いているようだったが、その後も現れる彼らに遠慮と手加減はしてみせなかった。炎の魔法、氷の魔法、雷の魔法、風の魔法……。まるでアリスへのお手本のようにそれらを発動し、あるいは遠慮や手加減をしていたとしても撃ち漏らすことなく影の軍団を撃墜していった。
「近い――あそこじゃな」、影の名残りを悲しそうな目で追いながら、アリューシャちゃん人形はまた飛行スピードをあげていく。そして宮殿の一室の前で静止し、扉を睨みつけた。
「この中にアリューシャ様が確認したいものが?」
「うむ」
カーペットの上に着地し、アリューシャちゃん人形は扉を押し込む。僅かにできた隙間から入り、その薄暗い部屋を一望する。
「こ、これは……」
俺は中央で天井から垂れ下がっている薄いカーテンのようなものを見て、思わず声を漏らした。光のカーテン。時の迷宮で目にしたものと同じようだった。
「なんで時の迷宮にあったものが月の迷宮にも……」
「何も不思議なことはなかろう。時の迷宮は月から逃げ出した者たちが創り、月の迷宮は月に残った者たちが創った。礎をともにしておるのじゃ」
話しながら部屋の中央まで歩き、アリューシャちゃん人形は光のカーテンの正面に立った。そして俺が閉じ込められているカプセルを床にそっと置き、空いた小さな手のひらを光のカーテンに伸ばした。
触れた部分がほのかな歪みを見せ、すぐに緩やかな波のようになって全体に広がっていく。
右端に文字が現れる。ゆっくりと左に流れていき、電光掲示板のように見る者にメッセージを伝える。
『私はペリヌン・パリンムーン13世。月は間もなく穿たれ、消滅するだろう。残された時間は短い。可能な限りの星唄をここに記そうと思う』
波紋が四隅にまで到達し、光のカーテンを密やかにうねらせる。




