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255 バケツの底で喋っているようなくぐもった声をしていた

「アリス! 今だぶっ放せ!」

「了解よ! アイス・アロー!」


ズシャーー!!


 広々とした空間の先で、アリスの氷の矢が目に見えない何者かに深く突き刺さった。氷の矢が宙をふらふらと漂い、やがて金属製の鎧が倒れ込む音とともに大理石の床に叩きつけられた。


「右側の扉からもう二体入ってくるぞ!」と俺は八咫烏が視せる気配を注視しながら、どなり声をあげた。緊張感が月の迷宮六層の空気をぴんと張りつめ、しばらくしてからアリスの少し舌っ足らずな声が響き渡った。


「見えたわ! 食人花よ!」


 遠くに俺たちの存在を認めた二体の食人花の眼が、だんだんと赤に染まっていく。


「アイス・ニードル・ツヴァイ!」


 しかし、殺意の赤い光が実を結ぶことはなかった。十本の氷の針がアリスの両手から射出され、黒い薔薇の至るところに刺さり、いくつもの波紋が水面を広がっていくようにして少しずつ氷が覆っていった。


「おお、氷の針でこんな風に凍らせられたのか……」と俺は氷の彫刻みたいになった二体の食人花に近寄り、手の甲でこつんと叩きながら言った。その瞬間、綺麗な縦線がすっと入った。


「ちょっと! 危ないわよ!」とアリスが叫んだ。ちょっとじゃなくてすごく危なかったし、そしてだいぶ遅かった。魔法人形のゴリラがミニチュアのような剣で氷結した食人花を一刀両断したわけだが、剣筋は咄嗟に引いた俺の左手の甲にも走っていて、縦5センチほどの裂傷をありありと刻んだ。


「い……いってぇ……!」


 血が滴り、月の迷宮の床を鮮やかな色に染めた。ゴリラがすまなそうな表情で「ウホッ」と言い、次の瞬間にはもう一体の氷の彫刻にドリルのような突きを放っていた。

 氷片が派手に舞い散り、細やかな氷の結晶がダイヤモンドダストのようにキラキラと輝く。アリスはその下を走り抜け、俺の隣で膝をついて赤いリュックをまさぐった。


「包帯を巻くわ! 手を見せてちょうだい!」


 噴水の水に浸した包帯のようだった。アリスはそれを俺の左手にするすると巻き、端っこを噛んで裂いて、綺麗に蝶々結びで結んだ。


「噴水の水の包帯、作っといてくれたんだな」と俺は言った。アリスは頷き、処置を終えた俺の左手を両手でそっと包み込んだ。


「今更だけれど、やっぱり合体していたのね」

「が、合体?」

「切断されたあなたの左手よ。クリスがずっと咥えていたのに、突然消えたの。だから私、あなたはどこかで生きているのだと確信したわ。まさか元の世界にいたとは思いもしなかったけれど」

「そっか……それで未来アリスは俺が生きてるってずっと信じて異世界を探しまわってるんだな……」


 アリスの眉が大袈裟な傾斜を浮かべる。「未来アリス? 何よそれ、未来の私ってこと?」


「あっ……えっと……」


 しまった、つい口が滑ってしまった。

 未来アリスのマシュマロのような唇の感触が、ふと俺の唇に蘇る。しっかりとした弾力だけど、ちょっと乱暴にしたらすぐに壊れてしまいそうな柔らかで瑞々しい唇だ。あのキスをアリスに知られるわけにはいかない。何を言われるかわかったものじゃない。


「……いや、ミラ・イアーリスって言ったんだ。知らないか? あのハリウッド女優」と俺は慌ててお茶を濁した。

「ミラ・イアーリス? それは誰なの?」

「あの……あれだ、バイオハザードの人だ。……おお、あれの役名もアリスだな」

「あのとても綺麗な女の人? そんな名前だったかしら?」


 アリスは納得いかない様子で腕を組み、ブリッジの寸前まで体を反って考え込んでしまった。


「と、とにかくお前の聞き間違いだ。それよりこんなところで油を売ってないで早く先に進むぞ」


 俺はアリスの額に包帯を巻かれたばかりの左手でチョップを落とし、そのままアリスの手を引っ張って薄暗い通路へと歩いた。ブタ侍がアリスの頭に飛び乗り、四体の魔法人形が黙って俺たちの後に続いた。

 もう八咫烏を使役する必要はなかった。六層に点在していた多くの気配は先ほどのものが最後で、既に見えない敵の脅威は過ぎ去っていた。

 俺はいまだに「うーん」と唸っているアリスの手を取ったまま歩を運び、いくつかのフロアで何体かの死ビトを倒して、やがて俺たちは六層の階段部屋に辿り着いた。


「アリス大丈夫か? 少し休憩するか?」と俺は知恵熱で顔を赤らめているアリスに訊いてみた。

「いま話しかけないでちょうだい! せっかくこの辺まで出て来ていたのにまた引っ込んじゃったじゃない!」


 アリスは例によっておでこに水平の手をあてていた。普通なら喉元を差すが、記憶は脳から降りてくるものなのでそれが正しいらしい。


「いや、もうさっきの話は忘れろよ……。それより七層だ。お前七層に何があるのかあとでちゃんと説明するって言ってただろ?」


 深いため息の塊を吐き、アリスは俺の顔をじっと見つめた。「そうだったわね……。ちゃんとあなたに七層の悪魔について教えておかなくちゃならないわね……」


 声のトーンが六段階ばかり下がったようだった。七層の悪魔? そういえばクリスも気になることを言っていた。『今ここには悪魔が住み着いておるのじゃ』


 眉が並行になり、アリスはそれからすぐに自虐的ともとれる微笑みの影を口元に落とした。小さな、痛みを何も知らないうぶな口が、誰もいない真夜中の教室で黒板に残された文字を読み上げようとするみたいに静かに開かれた。


「七層には――血塗られた悪魔がいるのよ」とアリスは言った。こいつにしては本当に珍しく、バケツの底で喋っているようなくぐもった声をしていた。


 血塗られた悪魔……? と俺は反射的に頭の中で繰り返す。アリスは月の迷宮の壁にもたれて座り、膝を折ってそこに手をまわした。そして何もない空間をしばらく黙って見ていた。


「お、おいどうしたんだよ……? 血塗られた悪魔ってなんだ……?」


 アリスは思い出したように俺の顔を見た。無表情だった。何かに怯えるようにそわそわとしていて、しかし話を始めたらすぐにまた虚空の一点を見つめた。


「昨日――村のみんなのお引っ越しでショッピングモールに向かう途中、ひとりの女の子と出会ったの。森を抜けてすぐに奥歯みたいな岩山が連なっている場所があるでしょ? そこの窪みで岩肌に背をあてて倒れ込んでいたわ。歳は私より少し幼いわね、九歳か十歳ぐらいじゃないかしら。褐色肌のとても可愛い子だったわ。

 私は駆け寄って体を揺らしたの。『大丈夫? どうして子供がこんな場所に一人でいるの!?』。女の子はすぐに目を開いたわ。そして真っ赤な瞳で真っ直ぐに私の目を見たの。まるで溶岩の底から私のすべてをあばこうとするような視線だったわね。

 『お腹すいていない?』、女の子は横たわったまま黙って頷いたわ。板チョコを小さく割って食べさせてあげると、もっと欲しいという風に口をパクパクとさせたの。私はまたチョコを口元にもっていき、女の子はそれを特に感想も漏らさずに食べたわ」


 アリスはそこで一度言葉を切り、体育座りの膝の上に両手を重ねた。そして天井を見上げながら息をついた。ゆっくりとした時間が流れていく。濃密な闇が七層に下りる階段の先で手をこまねいていた。やがて、アリスは意を決したようにまた口を開いた。


「チョコを全部食べても女の子は横たわったままだったわ。起き上がろうと体に力をこめているのだけれど、それがうまく伝わっていないようだった。『怪我をしているの?』と私は訊いたわ。女の子は黙って首を横に振った。よく見ていないと見落としてしまうぐらい微かによ。『ショッピングモールにもっとおかしがあるから一緒に行くわよ!』、サインを見逃さないように、私はじっと女の子の顔を見つめていたわ。そうしていると、そこで私は初めて気がついたの。女の子の頭から二本の角が生えていることにね」


 こめかみの少し上のあたりを人差し指で押し込み、アリスは続けた。


「この辺によ。15センチ程度だったと思うわ。紐をねじったみたいな形で、どちらも斜め上に突き出していたわね。クワールおじさんが私の隣で中腰になり、その角をよく観察したの。『角が生えた人間なんて初めて見たな』と彼は言ったわ。『亜人なの?』『いや、亜人にしては人に寄りすぎてるな。少なくとも衣服を着てる限り、アリス嬢ちゃんとなんら変わらんように見えるがね』。結局、その女の子は私の問いには答えなかったわ。だけれど放っておけないでしょ? 私は村のお爺ちゃんにお願いして、荷車に彼女を乗せてもらったの。そうして――あの女の子はこのショッピングモールにやって来た」


 俺は黙って話の続きを待った。アリスは下唇を噛み、体を小刻みに左右に振っていた。


「……私はジャオンの1Fであの子にビスケットとポテトチップスとポップコーンとふ菓子を食べさせたわ。それでようやく自分で起き上がれるようになって、それからは村のおばあちゃんたちが調理したタラコパスタやお茶漬けやレトルトのカレーライスをパクパクと無心で口に運んでいたわね。

 食べ終わってから、『とってもお腹がすいていたのね?』と私が言うと、あの子は唇の端で恥ずかしそうに笑ったわ。そして『ありがとう』と私に言ったの。『どういたしまして。あなたお名前は?』、少ししてからあの子は言ったわ。『サラ』、と一言だけね。『じゃあサラ! あなたは今日から私のことをお姉ちゃんと呼ぶのよ!』。サラは可愛らしく首を傾げたわ。私が言ったことを頑張って理解しようとするみたいにね。心なしか、角も最初より潤っているように見えたわ。

 だけれど――それが私の見たサラの最後の姿だったわ。私がオレンジジュースを持って戻ると、そこにはもうサラはいなかったの」


 俺は話の要点を頭の中で纏め、それから肩をすぼめて地面をじっと眺めているアリスに目を向けた。お尻がくねくねとせっかちな波のように揺れていた。


 俺は言った。できるだけアリスを傷つけないよう、声のトーンを限界まで抑えた。「そのサラが――七層の血塗られた悪魔だったのか……」


 アリスは顔をしかめる。「サラが血塗られた悪魔? あなた何を言っているの?」、真っ白なキャンバスに次々と絵の具を載せていくように、アリスは色とりどりの表情を取り戻していった。


「えっ……いや、そういう話だったんだろ? それから七層に行ったら、変わり果てたサラの姿が……っていうことじゃないのか?」

「どうしてサラが月の迷宮にいるのよ。それに、サラに出会ったのは昨日だと言ったでしょ? 七層で血塗られた悪魔を見たのは一昨日よ? 時間軸がえらいこっちゃじゃない!」


 俺はアリスが言ったことについて考えた。しかし、いくら考えてもわからなかった。


「じゃ、じゃあサラの話はなんだったんだ?」

「思い出話よ!」


 そうか、思い出話か、と俺は思った。


「いや、なんで思い出話を急に始めたんだよ! なら七層の話はどこに消えたんだ!」

「消えてなんかいないわ!『七層には血塗られた悪魔がいるのよ』って私最初に教えたじゃない!」

「それで終わりだったのかよ!」

「終わりよ! もうこれ以上何もないわ!」


 アリスはまた表情をどこかに追いやり、真顔になって虚無を見つめた。折り込んだ足がまたそわそわと動き出した。


「ってか、七層の悪魔の話でないなら、なんでお前はそんなに不安そうなんだ? なんか怯えてるみたいにそわそわしてるぞ?」と俺は訊いた。青白い顔でゆっくりと立ち上がり、アリスは慎重に歩いて俺のシャツの裾を弱々しく握りしめた。


「膀胱が我慢の限界を迎えているのよ」とアリスは言った。

「えっ……? なんだって?」

「膀胱が我慢の限界を迎えているって言ったのよ!」

「じゃあ早くその辺でしてこいよアホ!」


 裾から手を放し、アリスはふわっとジャンプをして俺の脳天にチョップを入れた。「嫌よ! あなた覗く気でしょ!」


 鉄棒の選手のようにすたっと着地をすると、アリスの表情がだんだんと青ざめていった。


「お、おい……お前まさか……」

「違うわ! きゅっと我慢をして引っ込めたわ!」

「引っ込めないでいいからさっさとしてこい!」


 アリスは渋々フロアの隅っこまで移動をしてしゃがみ込んだ。「見ちゃ駄目よ! ブタ侍ちゃん、その変態を見張っていてちょうだい!」


「見ねえよバカ! ってか、役割が逆だっていい加減気づけ!」


 俺はアリスについて行こうとしたブタ侍を踏みつけ、アリスから目を背けて思いきりどなった。

 しかし、不幸なことに月の迷宮は海の底のように静かだった。ジョボジョボジョボという音が俺の耳に届けられるのを誰にも止めることなんてできなかった。音はいつまでも鳴りやまない。本当に相当我慢をしていたみたいだ。


 やがて嵐が去っていくようにまた静寂が空間を支配し、それからすぐにポケットティッシュを何枚か引き抜く音とタイツをたくし上げる音が順番に聞こえてきた。「ふう……危なかったわね」とほっとして気を緩める声も聞こえた。

 次に聞こえたのはアリスが駆けてくる音だった。後ろを振り返ると、アリスが勝ち誇ったような顔で何かを言おうとしていた。


「思い出したわ! ミラ・ジョボヴィッチよ!」とアリスは俺の手を掴み取り、嬉しそうに言った。しかし、なぜその名を思い出そうとしていたのかは思い出せないようだった。


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