253 階段が音もなく消え去り、近未来的な月の迷宮の壁にすっとすり替わった
月の迷宮は新しく入るたびにその構造が変わる。小部屋や大部屋や通路の構成や配置が、クラスで席替えをした後のように大きく様変わりする。
しかし、基本的なところは変わらない。例えば三層はスイッチを押して隠されたフロアを明かさなければ階段に到達できないが、そのスイッチは必ずどこかのフロアの壁にある。床でも天井でもなく、壁を走る無数の直線が偶発的に――あるいは意図的に――形作る四角形がスイッチとなっている。つまり、その層の攻略法がわかっていれば、次からはそう苦労しないということだ。
俺はアリスの頭の上であぐらをかいているブタ侍とそのあたりのことを再確認しながら、月の迷宮の一層の通路をアリスと並んで歩いていた。アリスは俺とブタ侍の会話を腕を組んで聞き、所々でうんうんと偉そうに頷いている。
「死ビトやモンスターはまた現れるでござるが、ボスは一度倒せば再出現しないでござる。ウキキは久しぶりだが、覚えているでござるか?」
「ああそうだったな。大丈夫、おおかた覚えてるよ。……ってか、一昨日アリスとブタ侍で攻略したって言ってたけど、どこまでクリアしたんだ? 六層からスタートだったから、七層ぐらいは越えたのか?」
アリスは俺の顔をじーっと見てから大きなため息をついた。「七層未到達のあなたはお気軽でいいわね……。私も七層を知らなかった無邪気なあの頃に戻りたいわ……」とアリスは言った。
「いや、それどういう意味だよ。七層に何かあるのか? ってか、じゃあ七層はまだクリアしてないのか?」
「していないわ! 七層のことは六層の階段を下りたら教えてあげるから、あなたは余計なことを考えずに集中してちょうだい!」
俺は足早に先を急ぐアリスの背中を眺めながら、心の中で呟く。
たしかにそうだ、今は攻略だけに集中しよう。タイムリミットはあと――二十時間!
大きなフロアが見えてきた。中には虚ろな目であてもなく歩行する死ビトが七体いた。俺は狙いをつけようとするアリスの左手を上から押さえつけて下げさせ、代わりに俺の右腕を突き出した。
「出でよ朱雀!」
トリィィィィィッ!
朱色の炎を纏う羽根の一本いっぽんが鋭い軌跡を描き、月の迷宮の重たい空気を切り進んでいった。死ビトの首を捉える。チーズをスライスするようにそこを通過し、朱雀が俺の身体に還って、あとには切り離された首と胴体が七体分だけ残った。
「時間が惜しい、ちゃっちゃと倒してずんずん進もう」と俺は言った。
アリスは無言でふわっと飛び跳ね、降り際に雷のようなチョップを俺の脳天に叩き込んだ。「なんなのよそのドヤ顔は! あなたいま私の邪魔をしたでしょ!」
朱雀の羽根が消え入り、かすかに燃えている死ビトの首から炎が去って、そしてアリスは俺の腕をがぶっと噛んだ。
*
一層の階段を下りて二層に足を踏み入れると、たった今下ってきた階段が音もなく消え去り、近未来的な月の迷宮の壁にすっとすり替わった。毎度のことながら、俺はこの現象が不思議でならなかった。じゃあもし俺があいだにいたとしたら、壁の中に埋め込まれてしまうのだろうか? 疑問がふつふつと湧き上がるが、俺と違ってアリスはやはり気にもかからない様子だった。こいつにとっては、ただ単に後戻りができないという命題を掲げた壁でしかないようだった。
「じゃあ、朱雀ちゃんはあなたのお姉様と結婚していた金獅子のカイルから貰ったということね?」とアリスは俺に確認するように訊いた。一層を攻略しながら、俺は朱雀とカイルと姉貴についてアリスに話していたのだ。
「ああ……。マジでびっくりしたよ」と俺は言った。「この異世界の最強の幻獣使いの騎士が、元の世界で俺の義理の兄になってたんだからな……」
言葉にしてみると、余計にその事実が不可思議に感じられた。どんな奇跡的な巡り合わせなのだろうか。地球が三回は誕生してしまうぐらいの天文学的確率のように俺は思った。
しかし、あるいは大魔導士アリューシャに言わせれば奇跡なんかじゃないのかもしれない。彼女はこう言っていた。『偶然は必然が皮をかぶって成りすましている獣に過ぎん』
そこそこの数の死ビトや、ひさかたぶりに目にした食人花を討伐して進んで行くと、とくに迷うこともなく二層の階段部屋を発見することができた。
アリスは俺がいないあいだに起きた出来事を、ここに辿り着くまでにいろいろと話してくれた。
チルフィーやアナやセリカが一昨日まで一緒にいてくれたこと。みんな一旦それぞれがいるべき場所に戻ったが、またすぐに来てくれると言っていたこと。屍教から救い出したソフィエさんが、アリスのプレゼントしたふわふわな枕で熟睡できたこと。ユイリはソフィエさんにつき添っていて、医術師のお墨つきが貰え次第ショッピングモールに二人でやって来るということ。
みんながみんな、アリスのことを心から心配してくれているようだった。俺が帰ってくるまでのこいつのことを、これ以上ないぐらい考えてくれていたようだった。
「ボルサも、あなたが帰ってくるまでショッピングモールに住むって言っていたわよ?」と一段飛ばしで階段を駆け下りてから振り返り、アリスは言った。「ファングネイ王国から戻る前にミサのお墓参りをさせてもらったわ!」
「そっか……」と俺は言った。俺やアリスよりも十年も前に異世界転移に遭い、ボルサとともに暮らしていた女性。原因はわからないが、かなり前に亡くなってしまったとボルサは言っていた。
「俺のボディバッグの中にお線香が入ってたはずだけど、わかったか?」
「もちろんよ! あなたの分もあげておいたわよ!」
サンキューと言いながら、俺はアリスの頭をわしゃわしゃと撫でた。細い黒髪が指に絡み、持ち上げると砂のようにさらさらとこぼれ落ちていった。
アリスはそれから、母親の留守中にいくつも家事をこなした子供みたいに得意気な顔で口を開いた。
「ショッピングモールのHPも、あなたがいなくてもちゃんと回復しておいたわ!」
よしよしと言って、俺はまた頭を撫でてやった。アリスはとても満足げに微笑んだ。俺がこいつの頭を撫でている限り、世界は平和的で優しい光に包み込まれるのだ。
「よし……先を急ごう」と俺は言った。現実的な脅威がこの異世界を闇に閉ざそうとしていた。それを取り除いて、本当に平穏なる悠久の時にみんなを導かなくてはならない。円卓の夜や飛来種はどうにもならなくても、少なくともルナの一方的な条件だけはなんとかクリアしなければならない。
小さなフロアにフルプレートアーマーを装着する死ビトがいた。巨躯を誇り、馬鹿でかい剣を振り回して素早く距離を縮めてきた。
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
俺は鈍く光る装飾ごと板金を斬り刻み、首を刎ね落として、アリスと足早にフロアから抜け出た。
*
五層の階段部屋に入ると、俺たちは中の安全を確かめてから大理石の床に座り込み、壁にもたれかかって休憩をした。仕掛けの答えがわかっていて、それにボスもいないというのに、五層までの攻略に六時間ほどかかってしまった。
「階段部屋を探して下りて行くだけなのに、すごく疲れたわね……」
「ああ……。死ビトや食人花やミノタウロスがうろついてるうえに広いからな……」
アリスは赤いリュックを背負っていた。それは俺が園城寺譲二の車の中に置き去りにしてしまったリュックとまったく同じものだった。よほどデザインが気に入っているのだろうか? ジャオン2Fの商品棚から同一のものを選んだみたいだ。
そのリュックを床に置き、アリスは目を細めながら俺の顔を覗き込んだ。
「セーブの大切さがわかったかしら?」
「いや、それはお前だろ……」
俺は呆れながらそう言い、体育座りをするアリスの足元で屈伸を繰り返しているブタ侍に視線を向けた。「おいブタ侍。アリスから帰還魔法を命じられたとき、階段部屋じゃないと次また一層からだってお前まで気づかなかったのか?」
「もちろん承知していたでござる」とブタ侍は七人の侍の島田勘兵衛みたいな表情で顔を傾けながら言った。「しかし、命令は黙って遂行するのが武士であり魔法人形である拙者の務め」
ブタ侍はそれ以上は何も言わなかった。批判も糾弾も甘んじて受け入れようという気概が見て取れた。そして厳しい顔つきのまま、腕を組んでまた頭を深く垂らした。今度はとても長い時間そのままの体勢でいた。
「あっ……! てめえ!」と俺はどなった。「考え込むふりして後ろのアリスのスカートの中を覗いていやがるな!」
油断も隙もない奴だ。俺は顔面が紅潮しているブタ侍にフグ・トルネードをぶち込み、アリスの黒タイツ越しのおパンツ様をエロブタから護った。
「ええい貴様! 乱心したでござるか!」とブタ侍は起き上がってから吼えるように言った。「拙者にもし何かあれば、帰還魔法で脱出することも宝箱を開けることもできなくなるのでござるぞ!」
腰の竹刀を抜いて構え、ブタ侍は高く跳躍をして俺の頭に降り立った。執拗な頭皮への攻撃が始まる。
「やめろ、地味に痛い! ハゲたらどうしてくれるんだ!」
「ハゲろでござる! 拙者への侮辱を悔いて土下座をすれば許してやるでござる!」
「するかアホ! 完全に覗いてただろ!」
まるでノミが跳ね回っているようだった。ブタ侍は捕らえようとする俺の手を掻い潜り、何度も何度も俺の頭皮を竹刀で突いた。
「二人ともいいかげんにしてちょうだい!」と堪りかねた様子のアリスが声を上げた。「私たちは何層がゴールかもわからない迷宮を下って早くリアを助けなくちゃならないのよ! 仲間で争っている場合ではないわ!」
俺はアリスの発言のなかでつっこむべき点を探した。しかしどこにもなかった。アリスは至極まともなことを言ったようだった。
「そうだな……悪かったよ、ブタ侍」と俺はブタ侍に言った。アリスのおパンツ様を覗いていた事実は許し難いが、俺はアリスの覚悟や決意に水を差したくなかった。
「俺とアリスとブタ侍。三人で一丸となって、この月の迷宮をクリア――」
「悪かったと思うなら尻を舐めるでござる!」
タイツを脱ぎ捨て、ブタ侍は尻を突き出して俺に向けた。ぷるんぷるんな尻が薄い照明の光を受け、艶やかで悩ましげな輝きをそこに浮かべた。
俺はブタにアケボノ・ボンバーを鮮やかに決めた。それからすぐに、アリスが両手から放った『アイス・キューブ・ツヴァイ』によってブタ侍もろとも脳天に氷の塊の直撃を受けた。
『女児一晩会わざれば刮目して見よ、よ!』。やれやれ、アリスも俺がいないあいだに精霊術を磨いていたようだ。




