251 幻の類なんかじゃなく
ショッピングモールの北メインゲートから中を覗いてみたが、気配らしい気配は何もなかった。
明かりは灯っている。ショッピングモールのソードスキル1による効果で、淡い光ではあるがしんとしたエントランスホールが照らされていた。
「くそ、鍵がないと入れないの忘れてた……」
厚いガラスの両開きのドアを叩いたり揺すったりしてみたが、びくともしなければ音も立てられなかった。シールドスキル1の効果でショッピングモールは完璧に護られているのだ。
「おーいアリス!」と何度も大きな声で呼びかけてみたが、反応はなかった。電気の供給が絶たれたままの自動販売機や、色褪せた観葉植物や、さっきまで幽霊が座っていたかのように不気味なベンチが静かに佇んでいるだけだった。
「ってか、アリスがショッピングモールに戻ってるとは限らないのか……」
もしかしたらハンマーヒルの領主の館で世話になっているのかもしれない。なんせ一週間近くあいつは俺と離れていたのだ。寂しくて、心細くて、涙が枯れ果てるまで泣いて、それでソフィエさんやアナやユイリが自分たちのところへ引っ張っていったのかもしれない。
それは仕方のないことだった。みんなだってアリスを放ってはおけないだろう。
だが、俺は叫ばずにはいられなかった。暗闇に染まる天を睨みつけ、声を限りに感情を吐き出す。
「降りて来い、神! ここまで来ておあずけとかふざけんな! 早くアリスに逢わせろ!」
一目でいいからアリスの姿が見たかった。無事を確認して、そして俺が傷つけてしまった世界一可愛いおでこを撫でてやりたかった。
未来アリスのように、十一歳のアリスがあのおでこの傷をあえて治さないでいると思うと、心が張り裂けてしまいそうだった。
『あなたを見つけ出すまではこのままでいたいの』。未来アリスはあの時、濡れた唇と強情な眼差しでこう言っていた。未来アリスは俺の存在をそこに感じるために噴水の水を飲まないでいるのだ。その道をあいつも歩もうとしている。
「アリス……!」
あいつとの再会で泣かないでいられるかの予行練習どころか、既に目からありったけの涙が流れ出てしまっていた。せき止めることなんてとてもできそうになかった。
俺は北メインゲートの前で膝から崩れ落ちて両手をついた。しばらく動けそうにない。アリスと逢えると思っていた矢先での神の裏切り行為に――
「あら、あなた帰ったの? おかえりなさい」
ドアが開かれる音と同時に、俺の頭の少し上から声が聞こえた。聞き間違えるはずもない、アリスの少し下っ足らずな声だった。
おそるおそる顔を上げてみる。気のせいだとか、幻だったとしたら本当にもう立ち直れそうにない。
「ちょっとあなた! どうして泣いているのよ!」
俺は心配そうな表情に変わったアリスを膝をついたまま抱きしめた。あるいはアリスの幻を抱きしめた。
腰に回した手からアリスの体温を感じ取ることができた。顔をうずめたへその辺りからは確かにアリスの匂いがした。俺の鼻はどんどんその懐かしい匂いを運び入れていた。これ以上ないぐらい晴れた日に干した布団の匂いだった。
しかしまだ安心はできない。幻のなかには感触も匂いも存在する夢のようなタイプもあるのだ。俺は顔を放し、目の前にある黒いミニスカートを見据えた。『いざっ』という気持ちだった。いざっ、尋常に! と心の中で助走のようなものをしてから、豪快にスカートを捲り上げた。黒いスカートの内側と肌色のふともものあいだを取り持つように、真っ白いブタのおパンツ様がそこに浮かんでいた。
だが、まだ油断はできない。できないのである。念のために、俺は素早く後ろに回り込んで後ろからもおパンツ様を覗いてみた。可愛らしい尻尾がくるっと一回転しながら、ちゃんとアリスのお尻の割れたラインに沿って伸びていた。
念には念を重ねて最後にもう一度、前に移動してスカートを捲る。やっぱり幻の類なんかじゃなく、挑発的なしわと薄っすらとした陰影を浮かべたブタのおパンツ様がそこにあった。
「ただいまアリス!」と俺はスカートをつまみ上げたままありったけの想いをこめた『ただいま』をした。
変えがたい運命を変えたという実感がやっと持てた。俺は未来の自分と未来のアリスから運命を切り替えるヒントを受け取り、必死に不可逆的なものに抗って、ついに十一歳のアリスと再会できたのだ。
「パンツにただいましてどうするのよ!」
氷の塊が脳天に直撃した。おパンツ様を覗いた罰か、と俺は思った。オッケー、いいだろう受け入れよう。運命をひっくり返すほどのことをやってしまったのだ。これから先、どんな未来に向かってレールが伸びていこうが俺は受け入れよう。アリスからのお仕置きも、アリスのおパンツ様も、アリスの客観的に見て可愛い顔も、アリスのバカなところも、アリスが俺を大好きなことも、すべて笑顔で迎い入れようじゃないか。
「この変態! ステファニーの餌にするわよ!」
だが、ひとつだけどうしても受容できないものがあった。俺は必死に俺から逃れようとしているアリスを全力ホールドしたまま立ち上がった。そしてぱっつん前髪に触れる。未来アリスと同じ箇所の傷のことを思うとまた胸が強く締めつけられた。
俺はアリスのぱっつん前髪を上げながらどなり声をあげる。「俺を想うあまりにおでこの傷を残そうなんて考えるなよバカ! 今すぐ噴水の水を飲んで治せ、俺はもうずっとお前と一緒に――」
…………あれ? ない?
そこには傷なんてものはなかった。きれいなおでこが小さなしわをいぶかしげに刻んでいるだけだった。
「放してちょうだい!」
アリスはふわっと風の加護でジャンプをして飛び退いた。着地から一瞬遅れてぱっつん前髪がかぶさったが、その刹那に目にしたおでこにはやっぱり俺が斬りつけた傷は見当たらなかった。
俺は瞬間的に悟り、ダッシュで近づいてアリスの両肩を掴み必死の説得を試みた。
「わかったぞ、化粧で隠してるんだな! もうそんな必要はないんだアリス、早く噴水の水を飲みに行くぞ!」
「もうとっくに飲んだわよ!」
もうとっくに飲んだわよ?
俺はアリスの言ったことについて考えた。マジかおい。いやいやそんな馬鹿な。十八歳のアリスのおでこにあったなら、十一歳のアリスのおでこにも傷がなければおかしいだろ、と俺は思った。
しかし、アリス自ら上げたぱっつん前髪の向こう側を大胆にぺたぺたと触ってみたが、本当に化粧なんてしていなかった。傷もやはりなかった。
変えがたい運命。そして、それをやっとの思いで書き換えた俺の約一週間の巡礼の旅。
あるいは運命なんてそんなものなのかもしれない、と俺は考えた。変更がきかないなんて思っているのは当の本人だけで、本当は粘土のようなものなのかもしれない。ぐりぐりこねくり回して好きに形を変えられる。あるいは好きな形を目指して辿っていける。運命なんてそんな可塑性に満ち溢れたものなのかもしれない。
「私のパンツを覗いたのだから、私にもあなたの臭いを思う存分嗅がせなさい!」
アリスのような、無限の可能性を秘める子供にとってはとくに。
*
「も、もういいだろ?」
アリスの香道のようなものが始まり、ニ十分近くが経過していた。
自分の臭いを幸せそうに嗅がれるのは嫌な気分ではないが、こうも夢中でくんかくんかと鼻をぴくぴくさせながら嗅がれると、なんだか少し緊張して発汗し臭くなってしまうのではないかと心配だった。
「もう少しよ。だんだん臭いがマイルドになってきたわ!」
汗は臭いをマイルドなものに変えるらしい。アリスは貴婦人がワインの香りを楽しむように俺のあごの臭いを鼻で吸い込み、それから結局十分ほど経ってやっと満足したようだった。
「それで、あなたいったい今までどこで何をしていたの?」と目を恍惚としたままアリスは訊いた。
「元の世界だよ。それでやっと帰ってこれたんだ」と俺は言った。
俺の顔をじーっと見ながら「あらそう」と言い、アリスは寒いからとショッピングモールの中にそそくさと入った。それからすぐに、ものすごい勢いで振り返って俺の顔を覗き込む。「元の世界!? あなた私を置いて一人で元の世界に遊びに行っていたの!?」
「遊びなわけねえだろ……。長い話なんだ、そこに座って話そう」と俺は言った。
ふたりで並んでエントランスホールのベンチに腰かけると、とても安らいだ気分になった。やっぱりアリスの隣が俺の居場所なんだなと俺は思った。
アリスは俺の手を取り、その上に自分の手を重ねた。小さくて温かい手だった。俺のふとももとアリスのふとももの間にあるつがいの手は、アリスも俺と同じことを考えている証のようなものだった。そしてアリスは声も出さずに急に涙を流した。
「どうしてかしら? あなたが帰ってきてすごく嬉しいのに涙が止まらないわ……」とアリスは言った。そういう種類の涙もあるんだと俺は言い、ゆっくりとアリスの肩を抱き寄せた。
黒鎧のデュラハンにやられ、死ビトに喰われて死亡し、それで領主のひし形の刻印が発動して元の世界に帰ったのだと俺は言った。アリスは珍しく黙ったまま俺の話を聞いていた。あらゆる種類の涙を経験して、子供は大人に成長するのだ。
「それでさ……高峰先輩にあったんだ。詰んでたゲームをクリアしてくれて、いろんな話を聞かせてくれて、それで俺に立ち上がれと言ってくれた。いい先輩だよ、すごく。あの人が上にあがれない組織に未来があるなんて思えないぐらいにな」
アリスは小さな声で会ってみたいわと言った。「あなたの先輩なら、ちゃんと主人である私が挨拶をしておかないといけないわね」
「そうだな」と俺は言った。いつか本当にアリスを高峰先輩に紹介してみたかった。二人にレースゲームで対決させたら面白いかもしれない。二人とも相当な腕なので、ゲームセンターにギャラリーができてしまうだろう。
「朝になると高峰先輩は帰って、それから姉貴とカイルが――まあこの二人の話は最後でいいか。……んで、サワヤちゃんに会いに行ったんだ。お前の赤いリュックとネギを背負ってさ」
俺の手のひらの上にあるアリスの手が、ふいにぴくっと動いた。「サワヤちゃん? サワヤちゃんて誰よ?」とアリスは言った。眉がハの字になっており、声もなんだか疑念に充ちている。
「七歳の少女だよ。前にもちらっと話しただろ?」
「聞いていないわよ? 七歳の少女? あなた、私がいないのをいいことに七歳の女の子と遊んでいたの?」
アリスの肩がすぅーっと俺から離れていった。眉をひそめたアリスはそれでも客観的に見ておそろしく可愛かった。しかし、無表情になったアリスの顔はおそろしく恐ろしかった。
「あなた、私がいないのをいいことに、そのサワヤちゃんって女の子と仲良く遊んでいたのね?」
「いや……別に遊んでたわけじゃないって……」
アリスはベンチから立ち上がり、腰に手をあてて勝気な表情で俺を見下ろした。
「あなた酷いわ! 私はあなたを心配してずっと帰りを待っていたというのに、あなたは私以外の女の子とよろしくやっていたのね!」
「よろしくってなんだよ……。ってか、なんでサワヤちゃんにそんなに嫉妬するんだよ……」
「嫉妬!? 嫉妬なんかじゃないわ! ただその女の子が私の大切なものを奪い去りそうな予感があって妬ましいだけよ!」
「それを嫉妬って言うんだよアホ!」
「じゃあ手土産を持ってないのにがっかりしているこの気持ちはなんなのよ!」
「それは物欲だ!」
アリスはくるりと背中を向け、すたすたと歩いていってしまった。俺は小走りでアリスを追いかけてエントランスホールから抜け出る。
「おいアリス、待てって! つまらない嫉妬するなよ!」
声をかけた瞬間、俺の両足に氷の鎖がぐるぐると巻かれた。アリスのアイス・チェーンだった。
「近寄らないでちょうだい、この変態。あなたはそのサワヤちゃんという女の子と楽しく遊んでるといいわ」
そう言い残し、アリスは角を曲がって俺の視界から外れていった。俺は狐火を使役してアリスの氷の鎖を少しずつ溶かしていく。
「くそっ……なんであいつ、ソフィエさんやアナやユイリやセリカやガルヴィンにはなんでもないのに、サワヤちゃんにだけ異常に嫉妬するんだ……。大切なものを奪い去りそうな予感? もう会えないかもしれないのに、そんなわけあるかってんだ……」
――帰ってきて早々に痴話げんかとは、うぬもまことに女心のわからん奴じゃな。
久々の感覚だった。クリスの声が俺の脳に直接響き、若干の酔いのような症状を俺の三半規管にもたらした。
クリスの存在をすっかり忘れていた。最初からこいつに語りかけていれば、ショッピングモールにアリスがいるかどうか簡単にわかったのだ。
――よいかうぬ。わらわとてうぬに存在を忘れられると少なからずショックなのじゃぞ。わらわの耳に届く距離でそんな思考するでない。
「いや、わるい。単に頭の中から抜け落ちてただけだよ。……そうか、お前がアリスを北メインゲートに寄こしてくれたのか」
――うぬのうるさい声が聞こえたのでな。
「いや、じゃあお前も来いよ……」
――それは嫌じゃ。わらわはとても眠いし、それにここには悪魔が住み着いてしまったのじゃ。わらわは和室から一生外に出ないことに決めた。
「悪魔……?」
アリスの氷の鎖から逃れて歩き出そうとすると、突然うしろから声が聞こえた。
「おおウキキじゃないか! どうしたんだお前、帰ってきたのか! みんな心配してたんだぞ!」
振り返ると、そこにはくわを肩に乗っけて歩いてくる老人――クワールさんの姿があった。




