246 大魔導士の館
眠り薬が混入していたワインを呑まされ、俺は無理やり眠らされた。
そしてソリに載せられ、おそらくは罪人の誰かがそれを引いて、俺はこの街――サンクチュアルというらしい――に連行された。
「まあ、そんなところかな……」
俺は細長い牢屋の中で目覚めてから、藁のような薄い敷物の上で仰向けになったまま自分に起こった出来事を確認した。それが済めば、あとは行動あるのみだ。俺は起き上がり、鉄格子までの数歩をゆっくりと移動する。そしてその手触りを確かめる。鋼鉄製のもののようだった。ヴァングレイト鋼でないのなら、こんなものは今の俺にとってなんの障害にもならない。
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
鉄格子を切断し、俺は牢屋から注意深く抜け出る。
細長い牢屋の外も、やはり細長い通路が真横になって伸びていた。煉瓦の壁の隙間から外の光が漏れている。昼間――なんだろうか? 一方的な眠りに落ちてしまったからか、時間の感覚がひどく鈍っていた。一時間眠っていたかもしれないし、二十四時間眠っていたかもしれなかった。うまく時間の波に乗れずに、ぽつんと一人だけで取り残されてしまったような気分だった。
とにかくこの建物から脱出しようと、俺は勘を頼りに移動を開始した。すぐに声が聞こえてくる。
「まあ、そうするわなぁ……」
俺の行動を読み切っていたかのような物言いだった。鉤爪のリーダーの男の声だが、どこから聞こえたかはいまいちわからなかった。音の波の流れを掴む感覚も鈍っているのかもしれない。
「わかってて俺を閉じ込めてたのか?」と俺は言った。あてずっぽで後ろを向いてみた。笑い声が聞こえた。それはどうやら牢屋の中からのもののようだった。鉤爪のリーダーは俺が入っていた牢屋の隣に最初からいたのだ。
けらけらと笑う声がぴたっとやんだ。まるでオーケストラコンサートの合間あいまで聴こえるシンバルの音色のようだった。ジャーンと鳴り、演奏者がしかるべきタイミングでシンバルの端の辺りを手で押さえて振動を止め、音を断ち切る。そんな、楽譜にきちんと沿った笑い声だったように俺は感じた。
「幻獣使いだったとはな……。まあ、素直に受け入れることはできないかもしれないが、あの戦いの礼は言っておこう」
「感謝の言葉ならいつでも受け取るよ。睡眠薬入りのワインを呑まされるのはもうごめんだけどな」
「あの時にも言っただろ? 悪く思わないでくれ、八つ死湖を生きて越えてきたお前は怪しすぎるんだよ。『鉤爪』は国の防衛機関でもあるんだ。そこの頭であるオレがお前を見逃したら、クビになっちまっておまんまにありつけなくなる」
男のあごに生えていた短いヒゲはきれいになくなっていた。俺が牢屋の中で眠っているあいだに剃ったのだろう。無精ヒゲがないと、鉤爪のリーダーは少し若く見えた。だが、それでも『チョイ悪親父』という印象は拭えない。
「ここは北の国グロウナイの王都……サンクチュアルってところなのか?」と俺は訊いた。男は頷き、手を腰の辺りにまわして手錠を取り出した。俺は一歩下がり、構える。
「おいおい……やめとくれよ幻獣使い。オレは剣術はピカイチだが、それでもグラディエーターとやり合おうなんて思っちゃいねえよ」
「だったら、そんなものはしまって俺を解放しろ」と俺は言った。こんな所でこんなことをしている暇は俺にはない。早くショッピングモールに戻る方法を甥に訊いて、それを実践しなければならない。ん? 甥?
「そう言えば甥はどうした? まさかもう北の大地の深部に連れていかれたってことはないよな?」
「甥? ……ああ、サルマリン家のあいつか。あいつに会いたいのか? それなら一石二鳥ってやつだ。あいつはとっくに目覚めてお前を連れていく予定の場所にいる。だからおとなしくお縄につけ、悪いようにはしないからよ」
俺は少し考えてから、掌底をくっつけて両手を前に伸ばした。もし男の言葉に偽りがあれば、鉄格子と同じように手錠を切断して逃げればいい。今の俺の鎌鼬ならそんな繊細な狙いだってつけることができる。甥がどこにいるのかは知らないが、連れていってくれるのなら乗っておいて損はないだろう。
両手首に黒い手錠がはまった。きつく絞められ、荒く磨かれた金属が皮膚にめり込んで少し痛かった。そう考えると、元の世界の手錠はうまいこと怪我をさせないように工夫されているんだなと俺は思った。俺の知らないところで、人々は日々努力していたのだ。
警官を志していた頃の俺が今の俺を見たら、なんて思うだろうか? そんなことを考えたら暗い気分になってしまったが、気がついたころには俺は牢屋のある建物から出ていた。
雪が降る街は静かだった。
雪を踏みしめて歩く自分たちの音や、鉤爪のリーダーの腰からぶら下がっている鋼鉄製の剣が歩く振動を拾って立てる音ぐらいしか聞こえてこなかった。
吐く息は白く、雪が舞い降りる街はそんな俺の吐息すら風景の一部として取り込んでいた。どこか懐かしい風景だったが、どれだけ考えてもこんな雪国で暮らした経験には思い当たらなかった。雪の街並みというのは、そういう陰影のはっきりとしない曖昧な懐かしさをどこからか引っ張り出してしまうものなのかもしれない。
手錠から伸びるチェーンを引く男の後をついていくと、白い大きな建物の中に通された。もしかしたら黒い建物を雪が厚く覆っているだけなのかもしれないが、少なくとも俺の目には白い建物として映った。
長い廊下の先に礼拝堂のような部屋があり、その奥に白髭を生やした耳の長い老人がいた。エルフのようだった。俺たちに気がつくと、エルフの老人は監視カメラのようにゆっくりと首を回して俺たちの姿を捉えた。監視カメラはリーダーの男がいる場所を向いて、まるで通電が途絶えたかのように停止した。
「そいつが例の小僧か」とエルフの老人は言った。鉤爪のリーダーが一歩前に出る。
「ああ、八つ死湖の向こう側からやってきた奇跡の男だ」
ふむ、と言って老人は白髭をさすった。形式的な問いで、答えなんて最初からなんでもよかったみたいだった。白髭から指を離し、老人は書簡のようなものをリーダーの男に手渡した。たったそれだけで用事は済んだらしく、エルフの老人もリーダーの男も磁力をなくした磁石のように相手への興味を失い、それぞれ部屋の中を逆の方向に向かって歩き出した。そして俺たちは礼拝堂を後にした。
「それはなんだ?」と俺は男の手の中の書簡を見ながら訊いた。これがないと、大魔導士の館に入れないんだ、と男は答えた。どうやら甥はそこにいて、俺はこれからそこに連れていかれるようだった。
大魔導士の館と言えば、ハンマーヒルの領主ダスディー・トールマンが若き日に修行をしていた場所だ。怠惰が生み出した手錠は重くて相変わらず手首も痛かったが、そんな場所に行けることを俺は嬉しく思った。差し引きプラスとしてもいいかもしれない。
大きな門を抜けて王都から少し歩いたところに、黒い建物があった。ここが大魔導士の館だ、とリーダーの男は言った。札幌の時計台に少し似ているが、時計の部分には時計ではなくて大きな黄色い丸型のオブジェがはめ込まれていた。
「太古の月らしい。かつてこの丸大地には月は一つしかなかったそうだ。まっ……オレは信じちゃいないがな。二の月も三の月も四の月もない侘しい夜空なんて、オレには想像もできんよ」
俺の視線に基づき、男はそう言った。俺はとくに何も言わなかった。俺は前に、この惑星の月の誕生と、その太古の月が爆発して3つの月が生まれていく光景をルナに見せられた。しかし、それを説明してこの男を納得させてもなんの意味もないだろう。「へえ」と俺は言っておいた。
扉の前には長身の男がいた。黒いローブで頭から足のつま先までを覆っていた。いかにも大魔導士の館にいそうな男だったが、口調は意外なものだった。
「ふむ、本物だすな」、長身の男は鉤爪のリーダーから書簡を受け取り、それを広げてまじまじと眺めながらそう呟いた。「入るだす。お師匠様は奥の部屋にいるだすよ」
しかし、大理石のような床を歩いて一番奥の広々とした部屋に足を踏み入れても、そこにお師匠様と呼ばれそうな人物は見当たらなかった。剣を携える鉤爪の男が二名と、甥を含んで罪人が五名と、それと不相応に背の高い椅子にちょこんと座る女の子がいるだけだった。
「イワン大佐か、近こうよるがよい」と女の子が言った。透き通った泉の中から聞こえてきそうなきれいな声だった。鉤爪のリーダー(イワン大佐というらしい)はフランクな挨拶を口にしてから女の子に近寄る。
「久しぶりだな、大魔導士アリューシャ」
「うむ。それで、そこの間抜け面が例の小僧か?」
どうやら俺はいま北の国グロウナイの王都で『例の小僧』として名を馳せているらしい。いや、しかしそれよりも、大魔導士アリューシャ? まさかこの八歳ていどに見える女の子がお師匠様なのだろうか?
ぴょんと飛び跳ねるようにして、女の子は椅子から立ち上がった。そして鉤爪の男や罪人の合間を縫ってゆっくりと俺の元までやってくる。その歩き方には確かに威厳のようなものが感じられた。この子がお師匠様と見て間違いなさそうだ。
「馬鹿弟子の魔力の波動をかすかにじゃが感じる」と大魔導士アリューシャは言った。「八つ死湖を越えてきたとは言え、アンサーズ・ロックや原初の飛来種とは無関係なのじゃろう。話せ、詳しくじゃ」
やれやれ、のじゃロリか。と俺は思った。




