244 フグだったり 薄い本だったり
「おいっ! どういうつもりだ!」、俺は背後から俺を殺そうとしたいかつい中年男の目を見て、怒鳴り声を上げた。男は振り抜いた剣を素早く頭上に持っていき、そこで構えて動きをぴたっと止めた。舞い落ちる雪がその姿をどこか幻想的なものに仕立て上げていた。言うまでもなく、男の目には殺意の赤が宿っている。
剣戟が直線的に落ちる。俺は前もって視えていた青い軌道を頼りにそれを躱す。
「答えろ、どういうつもりだ! 俺は敵じゃない!」
口を開いたのはそのいかつい中年男ではなかった。「さっきの素人みたいな太刀筋を見たろ。……そいつはアンサーズ・ロックの手の者ではない、そんな奴に構ってないで死ビトに集中しろ」、一目でこの黒衣の一団のリーダーだとわかる、眼光の鋭い細身の男だった。さっきの素人みたいな太刀筋? 俺の剣の腕のことを言っているのだと理解するのに、少しだけ時間を要した。
リーダーのような男の言葉を皮切りに、黒衣の一団と死ビトとの戦いがますます激化していった。死ビトの首が刎ね飛ばされ、そして人から流れる赤い血が雪の風景に一方的な色彩を加えていった。
確かに、俺の剣の腕は素人同然だった。青い軌道を視て死ビトの攻撃を躱すのに精一杯で、的確に首を狙えずにいた。剣一本で死ビトの相手をするのは、思っていたよりずっと難しかった。
気がつけば、ずっと俺を追って来ていた二体の死ビトも群に混ざっていた。動きがその二体だけ全然違い、水を得た魚のように黒衣の一団の相手をしていた。
死ビトが減り、立っている人の数も減っていった。それでも、このまま順当に減り合わせていけばいずれ人が勝利するだろう、きっと誰もがそう思っていた。俺もそう考えた矢先、無器用な手つきで剣を握りしめる甥が注意深く俺に近寄ってきた。甥は言う。
「おいウキキ! なんで幻獣でやっつけないんだ!」
「わけあって今は使役できないんだよ!」
俺の言葉がどう作用したのかはわからないが、近くで死ビトと剣を打ち合っているリーダーの男が素早く周りを見回した。そして大声で叫ぶ。
「撤退だ! てめえら今すぐここから逃げろ!」
撤退? 俺は自分の耳を疑った。しかし、すぐにそう指示を出した理由が明らかになった。
「おい嘘だろ!?」と甥は言った。大量の死ビトが森の中から姿を現し、俺たちを囲もうとしていた。
撤退指示が出されてからの行動は誰も彼も素早かった。荷物があるものはそれを放り投げ、身軽になって雪の上を真っ直ぐに走った。ソリのようなものも放置されていた。載せられている樽やら大きな麻袋やらが、国道に棄てられた軍手の片方みたいな哀愁を帯びていた。そして、棄てられたのは物品だけではなかった。
「おい! 生きてる奴も置いていくのか!?」と俺は白い森に消えていく者たちの背中を見ながら叫んだ。誰一人として振り返らなかった。
死ビトが空高くから流星のように落ちてきた。攻撃の予兆が俺の肩の辺りまで伸びている。「甥! あのソリの荷物をどけろ!」、俺は甥の着ている衣服のくたびれた後襟を掴み、指示を出す。そして死ビトの両手斧による一撃を躱し、思いきり背中を蹴飛ばして転ばす。
「なにを言ってるんだ! ボクたちも――」
「いいから早くしろ! 息がある奴を見捨てられるかよ!」
甥の言葉を制し、俺は倒れている者に目を向ける。明らかに息をしていない者が二名、絶望を顔に浮かべている者が一名、そして絶望を呑み込もうと必死にこらえている者が一名。
しぶしぶながらも甥は俺の望む行動に移り、ソリの上の荷物をせっせとどかす。樽を蹴り、樽にはね飛ばされ、それから道端に落ちている丸太でバコーンと叩き出す。
俺はその間、剣閃を放って生きている二名から死ビトを引き剥がす。背中に薄い線が入り、死ビトは俺に明確な殺意を向けて目を赤く光らせる。
「よしウキキ、載せるぞ!」と甥は言う。俺は頷き、斜め下に構えた剣を死ビトの首に向けて全力で振り上げる。しかし刃が死ビトに到達することはなかった。白樺のような色合いの腕が俊敏に動き、指先が俺の剣の腹をつまんだ。つまんだ? それは本当にただつまんだだけのような行為だった。俺は目を見開いて死ビトの目を見る。濁りきった白い目と視線が交錯する。
「っ……!」
一瞬、死ビトがにやっと笑ったような気がした。次の瞬間、甥が丸太で思いきり死ビトの後頭部を殴打した。甥の勇気ある行動が俺の身体を硬直から解き放つ。
「よしっ……ずらかるぞ!」
俺は体勢を崩した死ビトを蹴り上げ、そのままくるっと回転して駆け出す。甥と二人でソリから伸びるロープを握りしめ、死ビトの合間を縫って全力で引っ張りながら包囲網から抜け出す。ソリに載せられた二人の男が何か呻き声を上げている。しかし言葉にはなっていない。
「お前らを助けたのはこのボクとウキキだからな!」と前を向きながら甥が強調して言う。
*
森の中は外よりも雪が深く積もっていて歩きにくかったが、それでもスノウホワイトに導かれながら辿った道よりはずいぶんとましだった。それにソリも思ったよりよく滑ってくれるので、俺たちはそれほど苦労せずに森の中を進んでいけた。
「よし、追ってこないみたいだな」と甥が言った。「あの木の下で少し休憩しよう」
俺と甥はソリを木の下まで引っ張り、そこで身を投げるようにして座り込んだ。甥はもちろん、俺も疲れ果てていた。誰も口をきかなかった。水でもあればいいのだが、誰も持っていないようだった。俺は諦め、雪をすくって片手でお手玉のようにしてもてあそんだ。雪は何度か俺の手のひらの上を跳ね、やがてそのほとんどがなくなっていった。
何かが視界の中で動いた。白い藪ががさがさと身をよじるようにして、のしかかる雪を落としていた。そこから、分け入るようにして黒衣の男が姿を見せた。リーダーの細身の男だった。
「まさか無事だったとはな」と男は言った。軽く握る剣を乱暴に鞘に収め、皮張りの丸い水筒を俺に向かって投げた。「一応礼を言っておこう。そいつらを連れてきてくれたんだな」
俺はごくごくと水筒の中身を飲み、それから甥に渡した。胃の奥に流し込んでから、それがワインだったことに気がついた。身体がぽわっと暖かくなった。
「礼なんかいいけど……死んだ奴はどうするんだ? 三送りしないとだろ? 送り人はいるのか?」
「なかなか面白いことを言う奴だな」
面白いことを俺は言ったらしい。しかし男は笑ってはいなかった。唇を少し開き、白い歯を覗かせながら俺の全身を隈なくチェックしていた。歳は四十やそこらだろうか? 背が高くすらっとしていて、元の世界のチョイ悪親父的な雑誌のモデルをやっていそうな男だった。チョイ悪親父的な雑誌が元の世界に本当にあるのかは、俺にはわからない。
「どういう意味だ?」と俺は訊いた。男はあごのラインに薄っすらと生えるひげを撫でてから言った。
「罪人を三送りしてやるような馬鹿な送り人がどこにいるんだ?」
「罪人?」
「なんだお前、知らないで助けたのか。間抜けな奴だな」
今度はけらけらとすごくおかしそうに笑った。雪を踏む音がいくつも聞こえ、一団が俺たちの前に姿を現した。リーダーの男はひとしきり笑ってから、ずらっと並んだ男たちを端から見ていった。
「黒衣を纏う者が北の国『グロウナイ』の戦士、『鉤爪』の一員だ」と男は言って、くたびれた毛皮のコートのような黒い衣服の裾を揺らした。「それ以外はファングネイ王国から連行中の罪人さ。まあ、少し減っちまったがな」
まるで運搬中にトラックから荷物を少し落としてしまったかのように男は言った。少しも悪意を感じさせない声の響きだった。
男の言葉を聞いて、俺はいい気分にはなれなかった。それどころか怒りさえ覚えた。罪人とはいえ、三送りされずに死ビトと化してしまっていいはずがない。しかし、俺にはどうすることもできなかった。アリスならなんて言うだろうか? 俺はあいつの顔を思い浮かべた。少し体が温かくなったような気がした。
「ボクは罪人なんかじゃない!」と甥が突然立ち上がって言った。「おいウキキ! お前が代わりに弁明しろ!」
「弁明?」と俺は言った。「てか……お前罪人なのかよ! 何やったんだよお前、四十二歳でもてない寂しい奴だけど、悪いことはしない奴だって思ってたのに!」
甥は顔を真っ赤にして、頬をぷくーっと膨らませた。なんかフグに似ていて少し可愛い。
「おいウキキ……本当にお前は何も覚えていないのか……?」、何かを俺に悟らせようとするような声の震えだった。胸に手をあてて考えてみろ、と言われているようだった。胸に手をあてて考えてみる。まさか、文烏で甥に届けてもらった二冊の薄い本に違法的な要素が含まれていたのか!?
「違う、それじゃない! あれは素晴らしかった。ありがとう!」と甥は言った。やれやれ、どいつもこいつも俺の心の中を読みやがる。じゃあなんだよ? と俺は訊いた。甥は怒りを通り越して泣き出しそうな表情になっている。
「……ゴブリン討伐の地で、お前がソフィエさんを救出しに行けるようにボクが代わりに人質になったじゃん?」。じゃん? 甥は続ける。「お前がファングネイ王都の裁判所に五日以内に出頭しないと、ボクが北の大地に連れていかれるって取引だったじゃん?」
すべてを思い出した。まるで空の厚い雲が二つに割れ、そこから太陽が顔を覗かせたような晴れやかな気分になった。
「……でも、しょうがないじゃん? だって俺、色々とあったし」と俺は弁明をした。間もなく甥の拳が俺の顔面目がけて飛んできたが、俺はそれを華麗に躱して人生で最高の笑顔を浮かべながら謝った。




