243 横切ったり 追い越したり
樹氷は高く、そして威圧的だった。腰の高さまで積もった雪をかきわけるようにして、俺はそんなものが両側に立ち並ぶ道なき道を進んでいた。
天候は多少回復したようだが、それでもまだ吹雪いている。形のはっきりとした雪が目の前を横切ったり、俺を追い越したりしていた。まるで大量の雪と一緒に、目まぐるしく回る洗濯機の中に放り込まれた気分だった。
そのまま進みなさい。と声は言った。北の大地を監視するスノウホワイトと俺に名乗った声だった。落ち着いた老婆を思わせる声で、それはどんな悪天候の中でも真っ直ぐ飛び続ける紫色の紙飛行機を俺に想像させた。声が一方通行だというのも、そんな想像が頭の中に膨らんだ理由だった。
――雪はあなたに味方しない。回復を待とうなんて思ってはだめ。進めるうちに進みなさい。そうすれば、いずれ北の大地の深部から抜けられるでしょう。
北の大地の深部……なんですか、ここは? と尋ねたが、やはり返事は返ってこなかった。俺の語りはゆくあてもなく凍結し、白い空が静かに吸い込んでいった。
しばらく歩いていると、樹氷に終わりが見えてきた。もし雪がなかったら、ここは桜並木のような風景だったのかなと俺は考えた。しかし、これほど意味のない思考は他に類を見ないかもしれない。北の大地で雪が積もっていないなんてことは多分あり得ないのだ。砂のない砂漠が存在しないのと同じように。
最後の樹氷を越えると、そこでまたスノウホワイトの声が頭の中に響いた。私が導けるのはここまでです。ここから真っ直ぐ進むと、凍った湖が見えてくる。それを越えれば北の国の領土に入ります。
紫色の紙飛行機が空中で静止したのを感じた。そこで留まり、俺の背中を黙って見ていた。俺は雪をかきわけるのをやめて、立ち止まった。意味もなく振り返った。声がまだ何かを伝えたがっている気がした。
――ひとつお願いがあります。いつか、ここに園城寺アリスを連れてきてくれないでしょうか?
予想もしていなかったスノウホワイトの語りに、俺はどう反応すればいいのかわからなくなってしまった。アリスをここに? 長い時間が経ってから、俺はようやく届かない返事を送ることができた。
――いつになっても構いません。私はいつまでも待ち続けることができます。けれど、待つことしかできない。お願いです、園城寺アリスをいつかここに連れてきて。
*
それがスノウホワイトの最後の語りとなった。彼女の導きがなければ、俺は吹雪のなかをあてもなく彷徨い、いずれ動けなくなって雪の中に埋もれていただろう。「ありがとう」と俺は声が聞こえなくなった辺りを見ながらお礼を言った。そして必ずその願いを叶えると意味もなく約束し、また深い雪のなかを歩いていった。
遠くに凍った湖が姿を現した。太陽のような恒星の光を反射して、きらきらと輝いていた。俺は黙々と雪を分断するように少しずつ進み、やがてそこまで辿り着いた。
湖の上はコンクリートのように硬かった。俺はしっかりと雪が薄く積もる湖上を踏みしめ、慎重に歩いた。途中で後ろを振り向くと、凍った湖とそこまでの深い雪の境界が、ドーナツのようにくっきりと実像と虚像の関係性になって隔てられているのが見えた。雪の実像はなんだか懐かしく、そして凍った湖の虚像は冷徹なもののように感じられた。俺は前を向きなおし、冷徹な氷の上を黙って進んだ。
いつしか、俺は雪の進軍という軍歌を口ずさんでいた。それだけ心に余裕が出てきたということかもしれない。どこまで歌ったのかわからなくなり、また俺は最初から歌い出した。歌声にはかなり自信がある。
雪の進軍 氷を踏んで どこが河やら 道さえ知れず
馬は倒れる 捨ててもおけず ここはいずこぞ 皆敵の国
ちょうどそこまで歌った瞬間、黒いもやもやがいくつも前方に浮かんでいることに気がついた。
もやもやはすぐに人の形になり、そこに死ビトが鮮やかに生まれた。俺は身をかがめ、数を素早くかぞえる。1、2……7体湧いている。
「くそ……まだ使役できないってのに……」
やり過ごせるだろうか? 無理だった。七体の死ビトは俺の姿を遠くに認め、一斉に目を赤く光らせた。『いわざる』の影響で幻獣が使役できないうえに、武器なんてものも持ち合わせていない。ここは逃げるしかない。
俺は何度かつま先で凍った湖を叩く。「走ったら氷が割れるなんてありがちなことはやめてくれよ……!」、そして一気に駆け出す。
金獅子のカイルから貰ったヴァングレイト鋼の短刀――二本の鬼姫を大蝦蟇に呑み込ませて預けてしまったことを後悔した。あれがあればなんとかなったかもしれない。
しかし当然、大蝦蟇を使役して吐き出してもらうことはできない。この異世界に還ってきてからの初戦ぐらいは無双したいが、仕方がない。俺は無我夢中で走る。
かなり離したと思い後ろを見ると、七体のうちの二体がしっかりとついてきていた。上物な直剣と、真っ直ぐな槍を構える二体だった。元スプリンターなのか、円卓の夜の影響を早いうちから受けることができるのか、それは俺には判断できなかった。俺はまた前を向いて、緩めることなく足を速めた。
凍った湖の端が見えてきた。湖は直線距離で5キロメートルぐらいはあっただろうか? 俺は虚像を抜け、また雪の上の実像に足を踏み入れた。逆側と違い、雪の深さはブーツが埋まるていどで、緑を目にすることもできた。深い森の入り口のような場所だった。
「っ……!」
白化粧が厚く施された森に少し入った場所に、大勢の人がいた。それと大勢の死ビトがいた。両者は入り乱れ、そこで殺し合っていた。赤い血が雪の地面に、この上なく目立つ存在として浮かび上がっている。
どうするか迷ったが、俺は落ちた剣を見つけ、それを拾って加勢することにした。俺を追ってくる死ビトもここで片付けられればそうしたかった。剣を右手に握りしめると、そのリアルな重さが俺の右足を雪に沈めた。半身が鉛のように重たくなった。自分でも気づかなかったが、俺の体力はそうとう消費されているようだった。ここまでのことを考えれば、それも当然かもしれない。
「誰だ貴様!」と黒衣を纏う男が言った。似たような恰好の男が他に三名と、見慣れた衣服の男が八名の一団だった。それに対し、死ビトは十を超えているようだった。俺は剣を掲げ、助太刀致すという意味合いをそこに込めた。通じたかどうかはわからない。
俺は剣をしっかりと両手で構え、近づいてきた死ビトの首に向けて剣先を走らせた。だが、アナがオウス・キーパーを振るうようにはいかなかった。切っ先が白くただれた首元を少しだけえぐっただけだった。青い軌道が俺の胸まで伸び、俺はその槍による突きを躱した。
「ウキキ!? ウキキじゃないか!」と誰かが言った。聞き覚えのある声だった。「なんでこんなところにいるんだ!?」、本当に俺がここにいることを不思議がっているような声の震えだった。俺はその声の主に目を向ける。小太りで背が小さい男がそこにいた。
「お、甥!?」と俺は言った。そこにいるのはハンマーヒルの領主代理の甥だった。「えっ……お前こそなんで北の大地にいるんだ!?」
刺突の予兆が、青い一本の線となって俺の胸の辺りを通り抜けていった。俺は身を反らしてそれを避け、もう一度首元を狙って剣を振るった。そして落下する首を見て、俺は甥に言った。「話はあとだ、今はこいつらを片付けるぞ!」
甥は納得しかねる様子だったが、僅かにぷっくりとしたあごを引いた。暫定的な頷きのように見えた。なんか俺に対して激しい怒りを覚えているようにも見えたが、俺はとりあえず周りの死ビトの動きに集中した――瞬間、青い軌道の先が俺の顔面から突き出るような形で目の前を横切っていった。背後から俺の頭部を輪切りにしようとする予兆だった。俺はしゃがみ込んでそれを躱し、体勢を整えながら一気に振り返った。視線の先には死ビトではなく、剣を躱されたことに驚くいかつい中年男がいた。
「っ……!」
細かい雪が灰のように空を舞い、男の黒衣に哲学的な模様を形作っていた。
ここはいずこぞ 皆敵の国
そんなフレーズがまた俺の脳裏をよぎった。




