番外編 あの人が消えた日 sideアリス
きっかけは、どちらかと言えば些細なことだった。
ソフィエを屍教の魔の手から救い出し、私たちはあの人やチルフィーと別れて、ファングネイ王国への道を辿る馬車の中にいた。
突然弾けるように、ブーツの靴紐が切れた。何かしるしのようなものが、千切れた紐と紐のあいだで私に強く訴えかけていた。
私はそれを合図に、座席から勢い良く立ち上がった。隣のアナが驚いた様子で私の顔を覗き込んだ。
「急にどうしたのだアリス殿?」、私はどんどん溢れてくる感情をとりとめもなく同席するみんなに話した。
「たしかにウキキたちのことは心配です。今すぐ引き返したいというアリスさんの気持ちもわかります」とボルサは言った。本当に心の底から私の気持ちに同調している表情と口調だった。
「しかしアリス殿、救出したソフィエ様をまずは安全な場所まで連れて行かなくてわ。屍教の残党だっているかもしれないし、死ビトだって襲ってくるかもしれない。我々の任務はまだ続いているのだ」
ヴァングレイト鋼の剣――オウス・キーパーの柄の部分を強く握り、アナは語尾を強めた。一番引き返したいと思っているのはきっとアナなのかもしれない。噛みしめられた唇がそれを密やかに私に告げていた。
「私のせいでごめんね、みんな」とソフィエが言った。ふんわりとした赤い髪の毛先が揺れ動いた。それはどことなく申し訳なさそうな控えめな揺れのように私は感じた。
私は言った。「ソフィエのせいじゃないわ――」そのとき、激しい轟音とともに馬車が大きく揺れた。全員が目を見合わせ、それからアナが素早く御者の席に通じる小窓を開けた。
「セリカ、何があった!?」
馬車が予告なく停まり、客室の扉が開いた。顔を覗かせたセリカが視線をどこか遠くの空に向けた。「見て」
私たちの後ろにつくチームノットアリスの馬車も、同じように停車していた。やはりガルヴィンや副兵団長も、地響きが続く外に出て、空を神妙な面持ちで眺めていた。
それは暁の長城の辺りの空だった。白煙が渦巻いて、まるで新しく作り出された雲のように、空の一角を我が物顔で占拠していた。
地面を揺るがす強い地響きはまだ続いている。どこかで底が抜けて、その衝撃を大地が意思を持って伝えているみたいに。
「きっと時の迷宮で何かあったんだわ!」
私は駆け出す。あの人とチルフィーとオウティスが心配だ。けれど、すぐに進める足を静止させる。まるでここで停車したのが巧妙に仕組まれた罠だったかのように、死ビトの群れが私たちを取り囲もうとしている。
「死ビトだ、剣を抜け!」とファングネイ副兵団長が叫ぶ。三人の兵士が馬車から降り、剣や槍を構える。
ひときわ心地の良い抜剣の音が響き渡る。それだけでフィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに指名されてしまうような、人の心と耳を惹きつける不思議な音だった。
アナがオウス・キーパーの剣先を死ビトに向けた。剣身が宙を走り、二体の死ビトの頭部が落下して、地面の上でピタッと動きを止めた。もう地のうねりは収まっているようだった。
「アリス殿、あまりわたしから離れずに死ビトを狙えるか?」とアナは言った。唇の端が小さく歪んでいた。必死で私に悟られないようにしているけれど、全身全霊で剣を振り絞ったせいで、あの砦で負った傷がまた開いたのだ。その激痛をどこか地平の彼方に投げ捨て、知覚しないようにしている。
私は頷き、風の加護で飛び跳ねてアナの隣に着地した。いま、私たちのなかで万全な状態なのは私だけ。あの人たちのことはとても心配だけれど、まずはここにいるみんなを私が護らなくてはいけない。いつもあの人がそうしているように。
*
ボルサが十字槍を真っ直ぐ突き出し、セリカの円月輪が空を横切っていった。
死ビトの頭部に突き刺した剣を副兵団長が引き抜き、大盾の兵士がその巨大な盾で頭蓋骨を粉砕してとどめを刺した。
ガルヴィンは精霊術も精霊魔法も使用できない状態だった。なんていったかしら? ガルヴィンの師匠のオパルツァーなんたらという人に、精霊魔法で挑んでしまったからだとガルヴィンは言っていた。理屈はわからないが、妹分がそう言うのなら納得するしかない。魔法の代わりに、ガルヴィンはどこからか手に入れた剣を持ってソフィエのいる馬車を守っていた。身のこなしは様になっているように見受けられる。
クリスはソフィエと一緒に馬車の中で待機していた。というか、ぐっすり眠っているようだった。口の中にはあの人の切断された左手が咥え込まれていた。お腹を壊さないか心配だわ。
私はアイス・キューヴを落として数体の死ビトをまとめて倒した。それから弓を軋ませる死ビトの頭部をアイス・アローで狙い撃った。
慎重かつ大胆に、次々と狙いを定めていく。たくさんの死ビトが土嚢のように、私たちを中心にして倒れ込んでいった。
「アイス・アロー・ツヴァイ!」、私は二体を狙って両手からアイス・アローを発射させる。しかし、一体がまるで体操選手のように高くジャンプして、空からガルヴィンに襲いかかる。
円月輪がシュルルルッと投擲され、その死ビトを追うように空を飛んでいく。ボロボロの槍がそれを打ち弾く。ガルヴィンはまだ自分が狙われていることに気づいていない。
私は大きな声で呼びかけ、同時にアイス・アローを宙に向けて放つ。死ビトは空中でまた槍を構え、その穂先をアイス・アローに向ける。また弾かれてしまう――けれど、槍が予備動作で後ろに引かれた瞬間、まるでその意思を誰かに乗っ取られたかのように、死ビトは動きを完全に止めた。アイス・アローが胸の辺りを貫き、それからすぐに円月輪の二投めが首をきれいに刎ね飛ばした。
私はセリカと目を合わせる。なにが起こったのかしら? さあ、アリスちゃんがやったんじゃないの?
死霊使いが死ビトを操ったみたいな現象だったように思える。誰かがどこからか私たちを見ていて、助けようとしてくれたのかしら?
アナが最後に残った死ビトを縦に斬り裂く。「終わったな」とアナは言う。
「ああ、小規模だが死霊の澱みだったようだ。準備がで出来次第、すぐに再出発するぞ」と副兵団長はアナに言う。それから私の顔を見て、剣を腰の鞘に収めながら歩み寄ってくる。
「召喚士の娘、さきほどどこかに走り去ろうとしていたな」
あの人たちを助けに戻ろうと思ったの。と私は言う。
「今でもそうしようと考えているのか?」
私は首を振る。それから腹部を手で押さえているアナや、死ビトにやられて傷ついた兵士たちの姿を見る。
「無傷なのは私だけよ。まずはファングネイ王国までみんなを送り届けるわ」
「そうか、ならワタシがとやかく言う必要はないな。早く馬車に……どこに行く? ワタシの話を聞いているのか?」
私は馬車のサイドステップに腰を下ろしているガルヴィンの前に立つ。
「一緒にチームアリスの馬車に乗りなさいよ。絵本はないから読んであげられないけれど、魔法少女サッキュンの話を聞かせてあげるわ!」
「いや、ボクはこっちでいいよ。と言うか、ボクは屍教の残党だからね。兵士たちに囚われている身なんだよ」
私はまた近づいてきた副兵団長に、そうなの? と尋ねる。彼はあごを少しだけ引いて返事をした。
「しかし、これから帰路のあいだ、あの空に立ち昇る白い煙について会議を行わなくてはならない。屍教の娘、貴様は向こうの馬車に移動しろ。聞かれるわけにはいかんからな」
「それなら私も会議に参加するわ!」、私はチームアリスの馬車からあの人のボディバッグを持ってきて、中に入っている冒険手帳と筆記用具を取り出す――と、ボディバッグの底のほうにトランプとUNOがあるのに気がつく。
私は愕然とする。どちらもしっかりと封がされている。未開封だということ。そして、あの人はこれをいつもボディバッグに入れて持ち歩いていたということ。
あの人は私たちと遊びたかったのだ。領主の館や、宿の部屋や、馬車の中。チャンスはいくらでもあった。けれど、あの人は言い出せなかった。「トランプかUNOやろうぜ」の一言が。
「アリス、どうかしたの?」とガルヴィンが言った。私は悲しみの権化をまた一番底にしまい込み、ガルヴィンの顔をじっと見つめる。
「私、もっとあの人に構ってあげることにするわ」
未開封のトランプとUNOは見なかったことにしてあげよう。ホント、私は気苦労が絶えることがない。
*
結局、私はガルヴィンとチームアリスの馬車に乗り込んだ。「せっかくワタシが配慮してやったんだ、貴様がこっちの馬車に乗ったらそれが無為に終わるだろう」と副兵団長は言っていた。気持ちはわかるけれど、それを言ったら台無しじゃないかしら? セリカがまた御者の席に着き、馬車が走り出した。
「アリスも無傷なんかじゃないんだよ?」とソフィエが私のおでこのタオルを縛り直しながら言った。あの人が操られて斬りつけた傷が少しだけ痛んだ。私はソフィエの心配そうな表情を見つめる。全然へっちゃらよ! と私は言う。
ガルヴィンに魔法少女サッキュン二期の終わりまでを話し、劇場版へと繋げようとした頃、馬車がファングネイ王国の王都に辿り着いた。王都の門を抜けていく。スノウホワイト・ゲートと言ったかしら? 商工街に面した大きな門。たしか、空想上の精霊の名を冠したとあの人がドヤ顔で私に言っていた。冒険手帳にも汚い字で記されているはずだ。
「アリス・ゲートも必要ね!」と私は言った。私の名を冠したファビュラスなゲートの建造が望まれる。いつしか、その門は王都の名所となり、多くの観光客がそこを訪れることだろう。人々は私の歴史が記された石碑を熱心に読み耽ることになる。『世界一可愛い園城寺アリスはこうして生まれ、偉大なる大魔導士精霊術師召喚士罠師として美しく可憐に成長したのであった。惑星ALICEという名も、園城寺アリスからとったものである』。あの人のことも少しだけ書いてあげてもいいかもしれない。うふふ、あの人嬉しすぎて私の計算ドリルを代わりに全部やってしまうわね。
馬車から降りると、ばたばたと慌ただしく走る音が聞こえた。音が近づき、その発生元から「アリスちゃん!」と私を呼ぶ声が響いた。私は後ろを振り向く。ユイリが前のめりに思いきり転ぶ。長いスカートのような行灯袴が捲れ、豪快にパンツが街灯の光を浴びる。水色のレース着きのパンツ。あの人は知らないけれど、ユイリは十七歳という年齢の割に大人びたパンツを好む。私は風の加護で飛びつき、行灯袴の裾を素早く下ろす。
ユイリは私に抱きついてから、ソフィエの姿を見つけて馬車の中に飛び込む。薄紫色のサイドテールを激しく揺らしてソフィエの胸の中でわんわん泣き、その無事を喜ぶ。ぴんと伸びた長い耳はそれに比べると冷静で落ち着いているように見えるけれど、真っ赤なのは隠せていない。
きっとあの人は気づいていないと思うけれど、領主のお爺ちゃんとの旅のあと、ユイリはこうして前よりも感情を表に出せるようになっていた。自分が落とし子の子供である『裏姫』なのを気にしてはいるけれど、それでも明るく笑えるようにもなった。心の奥に押しとどめていた出生の秘密を領主のお爺ちゃんに打ち明け、最期は孫とお爺ちゃんという形でちゃんとお別れすることができたからだと思う。
死が静かに二人を分かつことは、実はとても幸せなことなのだと私は思う。お父さまとお母さま。そして出会うことができなかった妹。三人のことを想うと私はそう考えずにはいられない。それを私は享受できなかった。死が降りかかるその時に、私はそばにいてあげることができなかったのだ。
私は不幸なのかしら?
「恨んでないし、会ってくれるよ」とあの人は言った。私は幸せだと天国の三人に胸を張って言える。ふんぞり返ってしわくちゃの可愛いおばあちゃんになるまで、私は生き続ける。そしていつか天国に旅立ったら、フェンリルの背に乗って三人に会いに行こう。私はお父さまとお母さまよりも歳をとっちゃっているけれど、気にする必要なんてない。だってみんなの胸の中に飛び込めば、そこには私が夢見た家族の暖かい風景があるのだから。
「では、くれぐれも頼んだぞ」とアナが馬車の中の従者を見て言った。間に合わなかったけれど、ユイリだけではなくアナの従者もソフィエ救出作戦に馳せ参じたのだ。あの人やチルフィーを迎えに戻ると知ると、アナに少し厳しいことを言ってから代わりに自分がと馬車に乗り込んだ。「アナ様は自分の怪我の具合がわかっていない。それでは足手まといになるだけです」、アナは悔しさに打ち震えながら唇を噛んでいた。
ソフィエも戻ると言い出したが、ファングネイ副兵団長が呆れた顔で言って制した。「貴様らは馬鹿なのか? それではなんの意味もないではないか」
翔馬が踵を返して、馬車がファングネイ王都を起った。そういうわけで、いまここには私とクリスとボルサとユイリとアナの従者と大盾の兵士がいる。セリカは相変わらず翔馬を駆っている。疲れていないかと訊いたら、「疲れてるけど、何も考えずに馬で走ってたい気分なの」と言っていた。ガルヴィンとのことで気持ちを整理するのにそういう時間が必要なのだろう。
食料も多く積んであった。クリスはどこからか見つけてきた大きな一本のハムを、座席で横になって抱きかかえながら貪っていた。あら? あの人の左手は?
私は馬車内に落ちていないか探した。どこにもなかった。だいたい、クリスがあの人の大事な左手をどこかに落とすなんてことはあり得ないのだ。二人の絆は(二匹かしら?)、二人が気づいていないだけでとても強いものなのだから。
「クリス、あの人の手はどうしたの?」と私は尋ねた。クリスはしばらく私の目を見てから、またハムに意識の100パーセントを戻した。クリスの言葉はわからないけれど、紫陽花の葉が朝露を集めて一つの雫を生み出すように、私は少しずつ何が起こったのか読み解いた。あの人の身に何かがあって、それで左手が消えたのだわ。
あの人の異変を感じ取ったきっかけは、どちらかと言えばそんな些細なことだった。あの人の左手が消え、そして時の迷宮があった場所にあの人の姿はなかった。




