241 大蝦蟇だったり 飛来種だったり
空の中心にはスーパームーンがあった。そしてその下にはショッピングモールの大型立体駐車場の屋上があり、その大きな四角形の闇のなかに俺たちはいた。
時刻は……何時だろう? 姉貴に訊けばわかるが、もうあまりこの世界の時間に興味はなかった。俺の心は既にあの異世界にあった。まあたぶん、そろそろ子供は寝なさいと親が言うぐらいの時間だろう。
「では義弟、そろそろ始めまショウか」とカイルは言った。俺は頷き、もたせかけていた背中を壁から放してカイルの元に歩いた。死までの道のりは意外と短かった。
「で、どうやってこの命を絶てばいいんだ?」と俺は尋ねた。答えは返ってこなかった。
「おっと、ワタシとしたことが大事なことを忘れていマシタ」、大袈裟に顔を手のひらで覆い、カイルは流れるようにそれを俺から少し離れた場所に向けた。「カモーン大蝦蟇!」
そこに蛙が現れる。こげ茶色で目つきが悪く、いかにも忍者が呼び出しそうな大きな蛙だ。なんだこれはと訊くと、あらゆるものを呑み込んで体内で預かってくれる幻獣だとカイルは説明した。
大蝦蟇が空に向かって何かを二つ吐き出した。月明かりを浴びて、それは漆黒の中できらりと輝いた。白銀の刀身――ヴァングレイト鋼の短刀のように見えた。カイルは風車のようにぐるぐると回りながら落下するその二本をそれぞれの手で掴み取り、剣先でXを作り出して俺の顔を差した。大蝦蟇はいつの間にか消えていた。
「ヴァングレイト鋼デース。ご存知デスカ?」
知っていると俺は答えた。
「今となってはとても希少なものデス。あの世界に数えるぐらいしか存在しないうちの、貴重な一振りデシタ」
俺は向けられた剣先をじっと眺めた。片刃で、美しく刀のように反っていた。どちらも鍔はなく、一本の握りは白かった。そしてもう一本は黒かった。刀身の長さは25センチくらいだろうか――ん、貴重な一振りデシタ?
「に、二本あるぞ……?」と俺は言った。カイルは元々は一本デシタとなんでもないようなことを言うみたく、さらっと答えた。
「あの世界の東方の国で首領と飲み比べをし、それに勝利して頂いたものデス。義弟用に、ワタシがヴァングレイト鋼を溶かして型に流し込み、再び鍛えたのデス。元々は太刀だったので、二本作れたうえに刃厚も増しておりマス」
「おお、すごいな最強の幻獣使いの騎士は。そんなこともできるのか。ってか、よく俺がナイフとか短剣を使うってわかったな」
「義理の兄はすべからく義理の弟のすべてがわかるのデス。ワタシからのプレゼント、受け取ってくれマスカ?」
カイルは短刀をくるっと回転させて、柄の部分を俺に差し出した。左右の手でそれぞれを握る。まるで俺の手の形に合わせて造ったかのように、どちらもぴったりと手の中に納まった。
「ありがとう。……でも二本もいいのか? 二刀流のようなことはできないぞ? 俺無器用だから、幻獣を使役するときは左手で逆手に持って防御に使うぐらいしか……」
「それが義弟の戦闘スタイルなら、それでいいのデス。イルカもそう言っていマス。防御に使う、おおいに結構。ヴァングレイト鋼は決して折れマセン。義弟の腕次第で、それはミスリルの大盾にも勝るものになるデショウ。一本は予備として持っておくといいデス」
俺はもう一度お礼を言う。「本当にありがとう」
するとカイルはわくわくとした表情で俺に尋ねた。「優れた武器には名が必要デス。何かありマスか?」
「鬼姫」と俺はすぐに答えた。姉貴の目を真っ直ぐに見ながら。
姉貴ははっきりとした形のため息を吐いた。「魔法少女サッキュン三期に未練たらたらじゃない。『魔法少女サッキュン 鬼姫覚醒への序章』。でも、ヴァングレイト鋼の短刀は二本あるわよ?」
「お、鬼姫・陽と鬼姫・陰!」と俺は咄嗟に返した。握りの部分が白と黒なので、適当につけた名にしてはぴったりだろう。
カイルはその名に納得してくれたようだった。「良い名デスね」と彼は言った。それから二本の鬼姫を姉貴に預けさせ、俺の手を強く握りしめた。握手ではないようだった。
「さきほどの大蝦蟇も差し上げマス。運搬系の幻獣がいないのは何かと不便デショウ。幻魂の儀を執り行いマス。受け取る側の幻獣使いがやるべきコトは?」
「受け取る意思を強く持つ」と俺は言った。
「オーケーデース。もう幻獣使いとして教えることは何もありマセンね」、カイルは優しく笑い、その陰影を口元に浮かべたまま大蝦蟇を使役した。
*
「では義弟、そろそろ始めまショウか」
本日二度目のそのカイルの言葉は、俺の身体をずいぶんと緊張させた。俺はこれからリングに向かうボクシング選手のように肩をぐるぐると回す。「ああ」と返事をする。
「まだ幻獣の封印の封印は効いているようデスが、それもじきに効力を失うデショウ。そうしたら、義弟は半日ほど幻獣の使役が行えなくなりマス。あの世界に還ってから十分注意してクダサイ」
「そっか……。まあ仕方ないよな、オッケーわかった」
カイルは姉貴と並んで黙って屋上を歩き出した。俺は二人についていく。
その後ろ姿を見て、たくさんあった質問のほとんどが訊けなかったなと思った。俺があの異世界でどこで何をしていたのかも、話す時間がなかった。俺は歩きながら考える。やはり、この二人にアリスのことだけは聞いてもらいたい。それに、どうしても質問したいこともある。
二人はしばらく歩いて立ち止まり、俺も連結する電車のように停止した。それからアリスのことを俺は話した。ショッピングモールごと異世界転移して、俺をすぐに召喚の能力で無意識に呼び寄せた小学五年生の少女。前髪ぱっつんで長い黒髪。プリンが好き。客観的に見て可愛い。泣き虫。わがまま。自信家。世界は自分を中心にして回っていると本気で思っているバカ。俺のにおいに目がない。
あいつとあの異世界で何をしたかというよりも、あいつがどんな奴かというのを立て続けに話してしまった。「相変わらずお前は説明が下手だな」と高峰先輩は言った。彼の言うことはいつでも正しい。
「園城寺家を調べてどんな子かはおおよそ知っているけれど……そうね、会ってみたいわ。あんたがどうしても護りたいというアリスちゃんと」と姉貴は言った。珍しく嫌な響きが少しもなかった。
「義弟の嫁になる娘デスネ? それならワタシの義妹ということになりマス」とカイルは言った。俺も姉貴も何も言わなかった。
カイルはそれから俺の腰に手をあてて、屋上のへりに導いて立たせた。すぐ下を覗くと、夜の海のように目印のない闇が無機的に広がっていた。ここは大型立体駐車場の屋上。うん、ここから飛び降りれば話は早そうだ。
「っておい! まじかお前ら!?」
「地面に激突するまでに少し時間があるでしょう。その時間が刻印の発動には都合がいいのよ」
「そうなのデース」
俺はもう一度、遥か下にあるアスファルトを目を細めて見下ろす。街灯が淡い光で俺の落下予想地点を照らしている。俺の目は自然と、そこに白いチョークで人の輪郭を描き出す。なんか変な方向に脚が曲がっている。
「嫌だ! もっとほかに方法があるだろ!」
「10……9……8――」
「やめろ馬鹿姉貴! カウントダウンするんじゃねえ!」
震える足をへりから屋上の地面に降ろす。たしかな死への恐怖が、俺の全身を石のように硬くする。
「一度は死んだでしょうに、なんでそんなにビビるのよ」
「あれは突然だったし朦朧としてたから! こんな100から0みたいな方法じゃ怖いに決まってるだろ!」
「10……9……8――」
「だからカウントダウンはやめろ! お前どうせ0になる前に突き落とす気だろ!」
俺は胸に手をあてて心を鎮めようと努める。死はあの異世界に還るためにどうしても必要なことなのだ、と自分に言い聞かせる。
「正確に言えば、移し死紋は死に足を踏み入れた瞬間に義弟をあるべき世界に飛ばして、完全なる死を回避させマース」とカイルは言う。俺はそれについて考える。よくわからないが、怖いことには変わりなさそうだ。
深呼吸をする。もう一度する。最後にもう一回だけやっておく。
「……ふう、わかったよ」と俺は言う。「でもカイル、その前に少しだけ質問させてくれ。どうしてもこれだけは聞いておきたいんだ」
「はい、なんでも訊いてくだサイ。ただし時間はあまりありマセン。手短にお願いしマス」
俺は手短になるよう努力した。「オパルツァー帝国継承者は白にかぎる……。あんたは金髪だ、継承権はないのか?」
「よく知っていマスね。そのとおりデース。ワタシは幼少の頃に継承権を放棄させられていマース」
カイルはプラスチックのゴミの日を俺に教えるようにそう言った。必要以上に声の響きが落ち着いていたように思える。彼にとってそれは、本当になんでもないことなのかもしれない。俺は少し間をあけてから本題を切り出す。
「……オパルツァー帝国の白髪の男二人に出会った。一人とは最悪な形で……。第一継承者のザイル・ミリオンハート・オパルツァー。こいつは帝国は世界を支配するって言ってた。何か知ってることはあるか?」
表情が少しだけ曇る。「ザイル・ミリオンハート・オパルツァーは弟デス」とカイルは言った。
突風が吹いた。宿命的な風が金色の髪を舞い上がらせた。長い前髪が金獅子のカイルの表情を隠し、しかし青い二つの目だけが意志を持った別の生き物のようにそこに浮かび上がっていた。ザイル・ミリオンハート・オパルツァーと同じ冷たさを持つ目だった。
「義弟が会ったというザイルはザイルではありません。あれは飛来種に取り憑かれた偽りの弟です」
スーパームーンの位置が僅かに変わっていた。だけど、それでも夜空の中心にはスーパームーンがあった。




