240 偉大なる一本
「使えない弟ね。あんたにはがっかりしたわ」と姉貴は言った。仰向けで大きな満月を視界に収めている俺を、本当にがっかりしたような表情で見下ろしている。
「華香、あまり義弟を責めないでやってくれ。彼はこの私相手に本当によく戦ったよ」
「それは私のサポートがあったからこそよ。私が呆れているのは、この馬鹿な弟の計画性のなさ。幻獣の無理な使役で動けなくなるなんて、そんなのいくら私が神ヒーラーでもどうしようもないわ」
返す言葉もない。MAX鎌鼬、玄武、MAX雷獣、朱雀、朱雀と使役したところで、俺の体力は完全に終わりを迎え、こうしてガス欠のような状態で華香と書いてカカと読む姉貴に好きなように言われているわけだ。
金獅子のカイルはちらりと俺を見る。「最強の幻獣使いの騎士であるこの私と、きみたち三井姉弟の対決。中途半端な幕引きではあるが、まあ引き分けといったところだね」
俺は上半身をなんとか起こして、口からできるだけ空気を多く取り込み、体内に十分酸素が行き渡ったのを確認してから静かに口を開く。「……いや、いくら俺が自分に甘い判定を下す人間でも、いまのは引き分けなんてとても言えないよ」
俺は死ぬ気で立ち上がる。金獅子のカイルの前で、俺はなんとしてでも立ち上がらなくてはならない。
「……でも、あんたの足元ぐらいには行き着いたと自信を持って言える。朱雀……もっと使いこなせれば、『最強の幻獣使いの騎士』との距離はだいぶ縮まると思う」
嬉しそうに金獅子のカイルは笑う。最強とは意外と孤独なもので、追いついてくれる者がいるのならそれは何よりも喜ばしいことだ、と言わんばかりの笑顔だ。
「ともあれ、義弟は私からしっかりと一本取りマシタ。ダメージがあると言えば嘘になってしまう一本ではありマスガ、それはとても偉大なことデス。史上三人目の快挙デス。だから自信を持って、これからもあなたという器を大事に磨き上げてくだサイ」
偉大なる一本。涼しげな顔で直後にしばかれたが、金獅子のカイルの手首に薄っすらとヒットした鎌鼬のことを言っているのだろう。「ありがとう」と俺は言った。この男がそう言うのなら、素直に『金獅子のカイルから一本取った』という確かな形をした自信を心の一番奥深くにしまっておくとしよう。
「でも……あんたはいったいどれだけの幻獣を身体に住まわせてるんだ? 見たことないのばっかりだったぞ?」
「そうデスネ……。千までは数えていたのデスガ、それからはワタシ自身ちゃんと把握できておりマセン」
「千……まじか……」
「金獅子と人はワタシのことを呼びました。それはあの世界で龍にも並ぶ神獣である『獅子』が百獣の王と神話に記されているからです。つまり、百の幻獣を従えた金色の髪のワタシと獅子をかけたのデスね。それなら、千を超えた今、ワタシは人になんと呼ばれればいいのデショウ?」
千獣のカイル? 万獣ならおいしそうだが、それはさすがに盛り過ぎかもしれない。と頭を捻って考えていると、姉貴がカイルの手首を取り、自分の胸元まですっと引っ張った。
「カイル・セブンハート・三井でいいじゃない。それより血が出ているわよ、治癒するからじっとしてて」
カイルは一週間前に食べた朝食を思い出したような表情で、そこを見た。「ああ、義弟の鎌鼬がかすったのデシタね。こんなもの舐めておけば治りマスヨ」
「だめよ」と姉貴は言う。そして流れるような横髪を指先に絡ませて耳にかけ、銀河の端と端で交わした約束を果たすような運命的な口づけをカイルの手首にした。ちゅうちゅうと音を立てて消毒のようなことをしている。
「はい、これでいいわ。治癒性のマナを舌から傷口に流し込んでおいたから」
言葉というものは必要なかった。カイルは姉貴の顔を何も言わずに胸の中に抱き入れ、かけがえのない大切な宝物をしまい込むみたいに抱擁した。二人が属する世界の時間軸がゆっくりとしたものに置き換わり、世界がピンク色に包まれていく。
「ありがとうデス」、長い時間が経過してからカイルはそう言って姉貴の顔を放し、すぐに追いかけるようにして自分の口許を近づけていく。彦星と織姫はそこで出会い、スーパームーンが照らす天の川で舌と舌を濃厚に絡ませる。
「うわあああああああああああ!」と俺は叫ぶ。「だから弟にそういうの見せるな馬鹿夫婦! 鳥肌が立つ! 今すぐ離れろ!」
いつこいつらが仲直りしたのかは知らないが、本当に心の底から気持ちが悪い。俺は二人を引き離して中央に立ち、そしてこの時を境に半径1メートル以内に馬鹿二人を近づけさせないよう、細心の注意を払うのだった。
*
無駄だった。二人は俺の努力の甲斐もなく、屋上の隅っこで手と手を貝のように重ね合わせてイチャイチャとしている。俺はもはや諦め、事務的にカイルに尋ねる。
「ひし形の刻印のタイムリミットはあとどれくらいなんだ?」
カイルは姉貴から目を離して俺を見る。「もうじきデース。なので、ワタシがいいと言うまで集中していてクダサイ。あまり、この世界に未練が生じてしまうようなことを考えてはいけマセンヨ?」
それは致命的なものになりかねマセン。とカイルは続けた。未練が俺をこの世界に縛りつけ、あの異世界での蘇りを阻害してしまうのだ。
未練と蘇りというキーワードは、俺に死ビトのことを連想させた。三送りされずに四併せに遭ってしまった人の魂は、死ビトになってあの異世界の地を彷徨い続けることになる。枯渇したマナを求めて人を襲う怪物に成り果てる。その魂を救うには――あくまで生者としての意見ではあるが――未練がなくなるまで根気強く倒し続けるしかない。いつしか未練を絶ち斬った死ビトは月の欠片を残し、あるいはその魂はどこか安らげる別の場所に導かれるのかもしれない。すくなくとも、また四の月に吸い上げられて地上に怪物として蘇ることはもうない。
免罪符――とは言いたくないが、俺は死ビトの首を刎ねるときは自然とそう考えるようになっていた。薄っすらと白い肌に、生気のない白く濁った瞳。人だとは言い難いが、かといってまったくの異形の者だともとても言えない。少なからず、人の形をした者の首を刎ねるのは、罪悪感のようなものは当然芽生える。
「そうだろ? だってお前、この異世界の住人だった死ビトの首はバッサバッサと刎ねるじゃないか。だけど元の世界の住人は無理って、こんなのただの偽善者だろ。違うか?」とオウティスは言った。俺はあの時、言い返せなかった。そして免罪符のようなもので罪悪感を抑えつけ、学生服を着た十代の少年の首を刎ね飛ばした。うつろな眼からはコンタクトレンズがぽろりと落ちた。
あの男子高校生は月の欠片を残さなかった。今も、あの異世界を、虚無のなかに生前好きだったものを浮かべながら、彷徨い続けているのだろう。
次に会ったらどうする? と俺は俺に問いかける。俺は答える。首を刎ねる。あのいたいけな少年の細い首を? あの少年の細い首をたしかな意志を持って鎌鼬で刎ね飛ばす。それが彼のためだと思っているのか? 思ってる。死ビトを殺すことは、その魂を救うことに必ず繋がってる。アリスにもそんな残酷なことをこれからもさせるのか? させる。アイス・アローで顔面を粉砕させる。それが死ビトのためだと思い込んでいるから? それが死ビトのためだと信じているから。
俺は目を開く。あの異世界に戻って、そこで生き続ける覚悟はもうとっくのとうにできている。
この世界に未練は本当にないのか? 「この世界に未練は本当にこれっぽっちもない」と俺は言う。
「いい目デスネ」とカイルは言う。「ワタシは断言しマス。ダスディー・トールマンの想いがこもっているその首筋の刻印は、義弟を必ずあの世界に還してくれることデショウ。イルカもそう言っていマス」
俺は首を傾げる。「イルカもそう言っています?」
「イルカは唯一間違ったことを言わない生物なのデス。オパルツァー帝国では、『必ず』だとか『間違いない』というようなニュアンスで使います。それになんだかワタシの名とよく似ているノデ、とても好きな言葉なのデス」
「イルカイルカイルカ……。なるほど……ってか、カイルはダスディー・トールマン……領主と親しかったのか? よく知ってるみたいだけど」
「ミドルノームのハンマーヒルには何度か足を運びマシタ。彼ほど優秀な領主はオパルツァー帝国にはいマセン」
「そっか……」
すごく嬉しい。領主が褒められているのを聞くと、自分のことのように心から喜ばしい気持ちになってくる。俺はあの異世界に転移してから、尊敬する人物があっという間に何人も増えてしまった。心の底からその人の人生のすべてを肯定できるほど尊敬する人物だ。今までそれは松岡修造とIZAMしかいなかった。それが今は、ダスディー・トールマン、園城寺譲二、そしてついさっきカイル・セブンハートも追加された。全員、もし自叙伝があるのならバイブルとして読み込みたいほどだ。
しかしその中でも、やはり俺にとってダスディー・トールマンは群を抜いている。エルフの女性と恋に落ちて、北の国の大魔導士の館から追放されたというあまり誇れない過去を持ち合わせてはいるが、それを含めての彼の生き様を俺は敬慕している。領主の言葉と、あの死の間際での旅の全てを、俺は細部までありありと瞼の裏に思い浮かべることができる。
俺は姉貴に目を向ける。無表情に近い顔で、俺とカイルを心なしか見守っているように見受けられる。
尊敬とは言えないが、こいつのことを姉として認める日が来たのかもしれない。この世界に戻ってから、俺は姉貴にずいぶんと助けられた。その姿は間違いなく弟想いの姉だったと断言できる。
星の数ほど酷いことをされた記憶をなくすことはできないが、こいつの弟で良かったと今ならはっきり思える。照れ臭い。けど、俺は歩み寄り、姉貴にそっと手を伸ばして握手を求める。
「色々とありがとうな」
「そう言えば――」と姉貴は抑揚を欠いた声で言う。俺の手を取り、しっかりとした力で握ってくる。「あんたさっき魔法少女サッキュンがどうとか言っていたけれど、三期が来春始まるらしいわよ?」
……えっ。
「私は興味がないからネットニュースでちらっと目にしたっきりだけど、『魔法少女サッキュン 鬼姫覚醒への序章』というタイトルだったと思うわ」
えっ……鬼姫覚醒!? それってバース少佐のあの娘が主人公なのか!?
「まあ、あの世界に旅立つあんたには関係ないわね。この世界のことは忘れて、あの世界でせめて人並みの幸せが掴めるよう頑張りなさい。大事なのは、これまでよりこれからなのだから」
俺は姉貴の手を振り払う。
「なにさらっと言ってんだよ! 魔法少女サッキュン三期!? 未練ができちまうことを言うんじゃねえよアホ!」
「近所のトモコちゃんを覚えている? あんたと同級生だったあの可愛い子。来月結婚するらしいわよ、相手はキャンドルアーティスト」
「うわああああああ! やめろ聞きたくない!」
キャンドルアーティスト? なんだそれ仕事なのか? ちゃんとトモコちゃんを食べさせていけるのか!? 俺が相手をしばいてトモコちゃんを奪うべきじゃないのか!?
「なに言っているの、奪うべきなわけがないでしょう。そうやって初恋の女の子が忘れられないから、あんたはいつまでたっても童貞なのよ」
「うるさい! 俺の考えを読むな!」
やっぱり大嫌いだ。こいつを姉として認めることなんてできるわけがない。
これまでも、そしてたぶんこれからも。




