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236 違うところにある問題

「スーパームーンはこれから約一時間続く。それが終わるまでに、あんたはきっちりと死に遂げなければならない」と姉貴は言った。


「ああ……。死んで領主が複製してくれたひし形の刻印を発動させて、それで異世界に還るってのはわかるけど……スーパームーンってなんだ?」

「あら、あんたそんなことも知らないの?」


 姉貴は俺に背を向けて何歩か歩いた。そして満月が浮かぶ空を見上げる。

 ここが大型立体駐車場の屋上で、地上から見るよりも近いからだろうか? それは俺が記憶しているこの世界の満月よりも大きく、そしてくっきりとしていて明るかった。空に黄金の玉ねぎが浮かんでいるようにも見えた。


「とてもきれいね。あんたのひし形の刻印をうまく作動させるために、このスーパームーンを利用しない手はないわ」

「いや、だからスーパームーンってなんなんだよ」

「知らないの? スーパームーンを」

「知らないって言ってるだろ……」

「このスーパームーンを利用して、あんたはあの異世界に戻ることになるわ」

「お前説明する気ないな……。ってか、だんだんセーラームーンって聞こえてきた……」


 姉貴のうしろから金獅子のカイルがすっと姿を見せた。彼は流暢な日本語で、頭上にある燦然と輝くものについて説明をしてくれた。


 スーパームーン。それは満月や新月の状態で地球に最接近する月のこと。単純に大きく見えるだけではなく、その時間帯は月の魔力が地上に降り注がれている。三つの月が浮かぶあの異世界では『魔霧ノ刻』と呼ぶようで、カイルの故郷であるオパルツァー帝国では『魔霧ノ刻にビースト・クウォーターに出会ったら金を置いてさっさと逃げろ』と言われているらしい。狼男にでも変身するのだろうか?


「……つまり、そのスーパームーンのあいだなら月の魔力のおかげで、刻印がより正常に発動するってことか」と、俺は聞いた内容を整理しながら尋ねた。


「そういうことデース」、ピンポーンという風に、人差し指をきれいに伸ばしてカイルは宙に浮かべた。


「あれ、じゃあ正常に発動しなかったらどうなるんだ?」

「義弟の魂とマナがゆくあてもなく彷徨い、いずれ四の月に吸い込まれて死ビトへと化すだけデース。……あ、イエ、違いますね。この世界に四の月はありマセン。では、ご臨終というだけのことデスネ」


 端正な顔立ちが涼しげに笑った。ご臨終? 発動しなければそのまま俺は死に絶えるということか!?


「まあ発動の心配はあまりいらないデショウ」とカイルは言った。「問題は違うところにありマース」


 いかにも難しいといった表情をカイルは作り出し、手を組んで短く唸った。

 その隣では、姉貴が指先をスマホの画面上に走らせ、熱心にパズドラをプレイしている。なんなんだこの女。どうして弟と旦那が真面目な話をしているときにパズドラができるんだ。


 俺はカイルが口を開くよりも先に訊いた。「違う問題ってなんだ?」


「簡単な話デス。今日の朝、ワタシは移し死紋……つまりそのダスディー・トールマンが遺した刻印について、『命を落としてそれが発動すれば、その者はあるべき世界で息を吹き返す』と言いマシタ。……ワタシの懸念についてポンときたのではないデスカ?」


 ポンときた。「俺がこれから死んで刻印を発動させても、こっちの世界で生き返っちゃうかもしれないってことか……」


 ピンポーンとカイルは今度は口にした。そしてさっきよりも低い位置で人差し指を突き出し、それを俺の首筋に持っていった。そこにあるひし形の刻印の魔力を推し量っているようだった。精査が終わり、カイルは静かに俺の首筋から指先を離していく。


「義弟よ、私はまだきみの口からどうしたいのか聞いていない。きみはこれからどこで何をしたいと言うのだ」


 突然、カイルの口調が変わった。そういえば今朝も一瞬変わっていた気がする。俺は金獅子のカイルの目をじっと見つめる。


「あの異世界に還ってアリスと一緒に泣いて怒って笑いたい」と俺は言った。


「異世界というのはあの世界のことか? 義弟が『異世界』と呼ぶかぎり、きみはあくまでこの世界の住人で、あの世界にはゲストとして遊びに行くような印象を受けざるを得ないが?」

「いや……それは語弊というか……」

「きみは一度あの世界で命を落とし、そしてこの世界で息を吹き返した。『あるべき世界で息を吹き返す』、おかしいじゃないか、なんできみはあの世界で生き返らなかったんだ? それで再び刻印を発動させたとして、どうしてあの世界に還れると思う?」


 言語を司る部分がうまく働かなかった。なにか理論立てて言葉を紡ぐ機能が麻痺してしまったようだった。金獅子のカイルから目を逸らさずにいるだけで精一杯だ。


「今一度訊こう。義弟にとっての『あるべき世界』とはどこのことなんだ? この世界か? それとも“異世界”か?」


 姉貴のスマホから響いていた音が予兆もなく鳴りやんだ。「あんまり私の弟をいじめないでくれるかしら?」と姉貴は言った。


「きみは黙っていろ。これはカイル・セブンハートと三井優希の男同士の話だ」


 金獅子のカイルの目は少しも逸れることなく俺の全身を射抜いていた。たぶん、俺の僅かな心の重みの推移まで見逃さずに捉えていた。姉貴はため息を一つついて、スマホをジーンズのポケットにしまい込んだ。

 俺は空に目をやった。スーパームーンはやっぱり黄金の玉ねぎみたいに見えた。その中央で、アリスの表情が様々なものに――まるで虹の色彩を一つずつ再現しているかのように――変わっていった。


 俺は言った。「この世界でも、あの異世界でもどこでもいい。この異世界でもあの世界でも構わない!」、理論立ててものを言う脳の部分は麻痺したままだった。しかし、今はそんなものは必要なかった。そのことにようやく俺は気がついた。


「アリスのいる世界が俺の世界だ! あいつのいる世界こそが、俺のいるべき世界なんだ!」


 そう口にすると、胸の奥につかえていたどこにも放出されることのない空気の塊のようなものが、すっと消えてなくなったような気分になった。

 カイルは俺の内側での変化に対して眉を少しだけ動かした。表情は依然として厳しいままだった。


「生まれ育ったこの世界に未練はないのか? それはきみを絶望の沼に引きずり込むことになるかもしれない」と金獅子のカイルは言った。


「未練なんてあるものか!」と俺は言った。サワヤちゃんに謝ることができたし、高峰先輩ともう一度酒を呑んでゲームや話をすることもできた。それにアリスの両親のお墓にあいつが作った押し花を供えられた。未練なんてあるはずがない。


 長い時間が経過した。金獅子のカイルは俺の中に乱れのようなものが生じないか、少しも緩めることなく見定めようとしていた。やがてその表情に変化が訪れる。金獅子のカイルはにこっと笑った。


「そうデスカ。それならきっとダスディー・トールマンの温かい想いがこめられている移し死紋は、義弟を望む世界に連れて行ってくれるデショウ。きみは彼に感謝しなくてはいけマセン」

「ああ……わかってるよ」


 俺はあの異世界の三の月に旅立った、領主の魂とマナのことを想った。空に昇っていく優しい赤と緑の光が、いつまでも俺の瞼の裏で煌めいていた。領主、ありがとうございます。と俺は呟いた。


「……で、この屋上はなんなんだ?」


 暗闇に慣れてきた俺の目は、屋上の奇妙な光景に『解析不能』という付箋をつけて脳に送り続けていた。

 屋上にはワイヤーが張り巡らせられており、その至るところにお札のようなものが縛りつけられていた。


「これはワタシが符術のお札で作った結界デース。マナをこめれば、この屋上は独立した一つの空間として外界から隔絶されマース」

「隔絶……。どうしてそんなことが必要なんだ?」


 金獅子のカイルは姉貴と一瞬目を見合わせてから頷いた。姉貴はつんとした態度で背を向け、俺と金獅子のカイルから距離を取ってその場にある太い鉄パイプに腰を下ろした。少し怒っているようだった。情けないが、俺はこいつの機嫌をものすごく敏感に感じ取ることができてしまう。そういう弟になるよう育てられたのだ。


 しかし金獅子のカイルは姉貴の怒りに気がついていない様子だった。「そうしないとワタシも義弟も全力で戦えないデショウ」。そう言ってお札の一つに向けて指を伸ばした。同時にお札が光り、その光が他のお札に順に伝わっていって、やがてクリスマスに包まれる街中のような賑やかな光の祭典が屋上に造り出された。屋上は独立した一つの空間となったのだ。


「これで、結界内であればいくら暴れても大丈夫デース。結界を解けば何もかも元に戻りマース」

「だから、なんでそんなことが必要なんだよ!」


 さも当然のように、金獅子のカイルは手のひらで俺を差した。


「空狐! カモーン!」


 目の前の空気が圧縮し、そこに水色の狐が顕現する。――瞬間、それは宙を走り、俺の頬のすぐ横を通り過ぎる。

 頬から何かが伝って屋上の地面に垂れ落ちる。汗か血か――血だった。俺は飛び退いて手の甲で頬を撫でる。


「正気かよ……。おい義兄、義理の弟になんてことをしてくれてんだよ」


 金色の長い髪がしなやかに揺れた。スーパームーンの光を受けるそれは、必要以上に金色であることを暴かれて――あるいは誇示して――いるようだった。


「これから移し死紋が消える限界時間までのあいだ、私の全てを尽くしてきみを鍛えてあげよう。次はあてる。死ぬ気でかかってくるといい」


 目が赤く染まっていく。しかしその殺意の赤い光よりも、俺は別のことに気を取られてしまう。

 こうやって対峙すると、カイル・セブンハートはザイル・ミリオンハート・オパルツァーと同じ目をしている。底の見えない深い穴の中を覗いているような、そしてその穴は俺の全てを上空から見下ろしているような。そんなうまく言葉にできない不気味さにも似た感情を俺は抱く。あるいは、その目はオパルツァー帝国の帝室に生れた人間に共通するものなのかもしれない。


「最強の幻獣使いの騎士が稽古をつけてくれるってわけか」と俺は言う。

「血がたぎるかい? きみの身に宿る幻獣はその熱を上げているようだよ?」と金獅子のカイルは言う。


「いや、血はたぎらないけど……そうだな、でも確かにあんたを相手にできるチャンスなんてそうないだろうからな。でも、義理の兄を傷つけるのはなんか嫌だな……。術式紙風船みたいなのはないのか?」

「よくあんなレアアイテムを知っているね。……ない。が、華香がいるから心配はいらない」


 華香? 華香と書いてカカと読む元ブラジル代表みたいな姉貴のことか? 俺は姉貴に目を向ける。足を組んで膝に肘をつき、手のひらに頬を乗せて機嫌悪くこちらを見ている。


 金獅子のカイルは言う。「華香はあの世界で『極癒しのフルール・パルファン』と呼ばれて……いや、呼ばせていたほどの実力者だよ」


「フルール・パルファン。華と香りってことか……」と俺は言った。「いや、でも極癒しって……お前あの異世界で何者だったんだよ」


 姉貴はいかにもめんどくさそうに、一言だけ言った。


「神ヒーラー」


 スーパームーンはやっぱりどう見ても黄金の玉ねぎにしか見えなかった。少なくとも姉貴と神ヒーラーを結びつけるよりは、よっぽど容易に第三者に連想させることができる組み合わせだなと俺は思った。


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