235 憎たらしい柴犬
背中が寂しく感じた。それに両腕が自由なのもなんだか物足りなかった。
アリスの赤いリュックは園城寺家の車の中に置き去りにしてしまい、ビニール袋に入ったたくさんのネギは園城寺譲二にお土産として受け取ってもらった。しかし、手ぶらになっても俺の巡礼の旅はもう少しだけ続く。
ショッピングモールの西側にある神社には思った通り、古びた灯篭が境内から離れた位置でぽつんと佇んでいた。公園にあったのと同様のもので、やはり一つだけだった。俺は姉貴が描いた地図にX印を書き込む。これで、あとはショッピングモールの南にも灯篭があるとすれば、俺の睨んだ通り灯篭を結んで逆三角形が完成する。そうすれば三角形のショッピングモール――マジック・スクウェアという名称の――と合わせて、六芒星の魔法陣がそこに描き出される。
しかし、だからといってなんなのだろう? 魔法陣? 六芒星? それが何を意味するのか、どんなことが起こり得るのか――それは俺にはわからない。まだわからない。
だが、ひとつだけ確信めいて感じていることがある。それは、異世界のショッピングモールの謎の鍵は、この魔法陣が握っているということだ。
双子の月の女神の姉であるルナが、ショッピングモールを異世界転移させた。だが、元々は妹のリアが先に転移させていた。ルナはそれに倣って、一度は消滅した建物をアリスと一緒に転移させたにすぎない。
リアは何か理由があってこの三角形のショッピングモールと、おそらくは逆三角形を造る灯篭を転移させたのだ。異世界のあの地に魔法陣を描く必要があったのだ。
俺は神社を後にして、南側にある大型立体駐車場を目指す。ここからだとショッピングモールに入るよりも外を回るようにして向かった方が早いだろう。
そそくさと走る。夜の町は立ち昇る煙のように薄暗く、吐く息は蒸気のように白い。もうこの世界は年の瀬に差し迫っている。十二月のどこか楽しく、そしてどこか寂しい雰囲気が、ジングルベルの音色の予感とともに辺り一帯に漂っている。街灯の下を歩く初々しい高校生のカップルも、少しだけ早くクリスマスを享受して身を寄せ合っている。
あの異世界も十二月になろうとしている。たしか十一月が『崩竜の月・陽』で、十二月が『崩竜の月・陰』と呼ぶはずだ。他はなんといっただろう? アリスの元に戻ったら冒険手帳を見て確認してみよう。
しばらく走っていると、ショッピングモールの外壁にもたれかかっている二人組が視界内に現れる。子供の二人組。お兄ちゃんと妹だろうか? どちらも小学校低学年ほどに見える。
少し気になり、俺は立ち止まってその二人に声をかけてみる。こんな時間に子供だけでどうしたんだい?
すると、女の子の足元で何かが俺を警戒するようにさっと動き出し、子供たちの前に躍り出た。柴犬だった。
――うっせーバーカ。
なんで犬はこうも口が悪いのだろう? 俺が出会った犬だけだろうか? それともありとあらゆる世界に存在する犬のすべてがそうなのだろうか?
俺は憎たらしい柴犬の語りを辛抱強く無視して、もう一度子供たちに訊いてみる。
「もう七時だよ? お母さんやお父さんはどうしたんだい?」
お兄ちゃんが言う。「迷子になっちゃったんだ。お母さんがどこにもいないんだ」、その事実をあらためて耳にして心細くなったのだろうか、妹がわーんと泣き出した。それに追随するように、お兄ちゃんの目にも涙がたまっていく。
――泣かすな臭い人間、殺すぞコラ。
兄妹はお互いを自身の欠片のように親密的に胸の中に引き込んで、そしてその場で座り込んだ。お兄ちゃんは声を上げずに、妹はフルボリュームで、泣き声を世界中に響かせた。
俺はあわあわとうろたえる。柴犬もどうすればいいのか困った様子で兄妹に目を向ける。そうだ、風船細工でこの犬を作って兄妹を勇気づけてあげよう。
ポケットから犬の色に合った茶色の風船を取り出す。風船細工師たるもの、いつでもこうして忍ばせているのだ。俺はキュキュっと音を立てて、素早く口の悪い柴犬を風船で再現する。そして妹の目の前に持っていく。
「わあ! すごい!」と妹は驚いた表情で言う。それから見るみるうちに楽しげな色彩を顔中に広げていく。お兄ちゃんはそんな妹を見て目元の涙を両手の指先でごしごしと拭い、目を輝かせる。風船細工師はこうして子供の心をいとも簡単に掴んでしまうのだ。
「あげるよ、だから泣かないでお母さんを一緒に探そう」と俺は言う。あまり時間はないが、放っておくわけにもいかない。
妹は俺の手から柴犬の風船細工を受け取る――瞬間、強い風が宿命的な唸りを上げて吹いた。
「ああっ! 飛んでっちゃった!」と妹は言う。柴犬は自分の分身が空高く舞い上がってどこかに飛び去っていく様子を神妙に見つめている。それから絶望を一身に背負ったような顔に変わり、語りだす。
――待てブラザー! お前はまたオレを置いて行っちまうのか!
口が悪いだけでなく頭も悪かったようだ。柴犬は風船細工を血を分けた兄弟だと思い込み、追いかけて走り去ってしまった。
犬の首輪から伸びるリードが角を曲がって見えなくなった。俺はお兄ちゃんと妹に目を向ける。唖然としている。どうしよう? もう一つ同じ風船細工を作って場を和ませよう。それからお母さんと犬を一緒に探してあげよう。
二つめのバルーンアートも惚れぼれとする素晴らしい出来だった。今度は用心深く妹の手に掴ませると、妹はお兄ちゃんに自慢するように見せた。それからすぐに歓喜の声を上げた。お兄ちゃんの肩越しにお母さんを発見したようだった。
*
俺は兄妹とそのお母さんから別れて、また大型立体駐車場に向けて駆け出した。犬はしょっちゅう逃げてしまうが、すぐにお腹を空かせて家に戻ってくるのだとお母さんは言っていた。「なので、どうかご心配なさらないでください」
俺はそうですかと返し、兄妹は俺に向かって大きな声でありがとうと言った。お兄ちゃんは俺が初めて目にした時よりも、少しだけ大人になったような顔つきをしていた。
走る俺の頭の中にはアリスがいた。あの妹が泣き出す姿を見て、アリスが泣いているところを想像してしまった。あいつは今なにをしているのだろう? 俺がいなくて泣いているのか、それともすぐに帰ってくると思って、俺のいない四日間をのほほんと過ごしているのか。
急ごう、と俺は思った。急ごう。早く南側の灯篭を確認して、そして姉貴と金獅子のカイルが待つ大型立体駐車場の最上階に向かおう。
灯篭はすぐに見つかった。大型立体駐車場の最初に通った入り口付近にそれはあった。当たり前のように、東や西にあったものと同じ形をしていた。俺は地図にまたX印を記入する。そして三つを線で結ぶ。逆三角形が出来上がり、ショッピングモールの三角形と運命的な出会いを果たして六芒星が地図上に浮かび上がった。
「やっぱり魔法陣になった」と俺は呟いた。異世界のショッピングモール付近の様子を頭の中に思い浮かべた。
神社があるショッピングモールの西側。異世界の同じ位置にはシルフが管理する花畑があったはずだ。そしてこの立体駐車場の位置には……たしか目立つものは何もなかったと思う。しかし、目立たないだけで灯篭はその辺りにあるのかもしれない。いや、あるのだろう。もうこれ以上はあの異世界に還ってから調べるしかない。
階段が見えた。俺は急いでそれを上った。大型立体駐車場は五階まであり、その階上には利用客が立ち入ることのできない屋上があった。「最上階にいるわ」と姉貴は言っていた。それならあいつと金獅子のカイルは屋上にいるのだろう。俺はロープを跨いでコンクリートの階段を上っていった。
ギイイイと音を立ててドアが開いた。俺は屋上に脚を踏み入れてドアノブを押し戻した。嫌な音が再び墨色の空の下に響き、ガチャンとドアが閉まると、それから待ち受けていたかのように静寂が夜の屋上を支配した。
「お、おーい姉貴。いるのか?」と俺は恐るおそる声に出した。「い、いるんだろ? 驚かそうとしたって無駄だからな?」
どうひいき目に自分を顧みても、俺は自分が恐怖を感じていると認めないわけにはいかなかった。誰もいない(ように見える)夜の駐車場の屋上。怖いに決まっている。
遠く離れた先で、何かが突然、思い立ったように動作を始めた。人だと気がついたころには、それは全速力でこっちまで走り迫っていた。
「うわあああああ!」と俺は驚き叫ぶ。暗闇の中で人が全力で向かって来たら怖いに決まっている。
「七時三十分ジャスト。あんたにしては時間にきっちりだったわね」と、俺の目の前でピタっと立ち止まり姉貴は言った。俺は思わず鎌鼬を使役しそうになった手を下げた。




