230 献身的な殺し
犬が頭におぼんを載せてお茶を運び、道場でこの屋敷の主人を待っている俺に差し出す。『臭い客だな』という悪口を添えて。
うん、大丈夫。まだ常識の範囲内だ。俺はそう簡単にアリスの家に驚かない。もう驚くことに飽きてしまった。
――ふん、常識だとか非常識だとか。そんなちっぽけなことに縛られるったあ、人間って奴は本当にちっちゃな存在だな。
あるある。妙に達観ぶった犬って、いるいる。まだ驚かない。まだつっこまない。
セントバーナンドのようだが、体長は150センチぐらいある。うん、いるよねー。
俺は目の前の犬からおぼんを受け取り、それを畳の上に置いてお茶をすする。
「うまい! なんだこのお茶はっ!」、ついそのおいしさに驚いてしまう。大金持ちの家のお茶っ葉。俺の実家のお茶っ葉と何が違うというのだろう?
――産地から製造工程、そして包装に至るまでまるっきり違う。なかでも特筆すべき点は淹れ方だな。セントバーナンドはどの人間よりもお茶を淹れるのが上手なんだ。すべてのセントバーナンドはお手よりもお座りよりもまずお茶の淹れ方を学ぶべきなんだ。ハイジやクララと遊んでいる場合ではない。よし、では殺すとしよう。
犬は流れるようにそう語り、前足でおぼんをはじいて道場の端っこまで滑らせた。殺すとしよう? つっこまずにはいられない。
「さらっと殺害予告すんじゃねえ! なんで客を殺すん――」、青い軌道が俺の首元に突き刺さる。牙を覗かせる口元からそれは伸びている。言うまでもなく目は赤い。紛れもない殺意を真っ正面で浮かばせている。
畳を蹴って宙を走る。――速い。
「っ……!」
俺は身を反らせて青い軌道から逃れる。犬は俺の首があった空間を躊躇なく食い千切る。
「……まじかよ。避けなかったら死んでたぞ」と俺は言う。「園城寺譲二の差し金か? ……俺はアリスのためにこの家を訪ねたんだぞ? あいつの両親のお墓の場所が知りたいだけだ」
――アリスの父と母の墓標なら近くの寺院にある。だが、それを知ってどうする。アリスを連れ去るだけでは飽き足らずに墓荒しまでするつもりか? アリスの匂いがお前の臭い身体から漂っているぞ。言え人間、アリスをどこにやった? 譲二はお前を疑っていないようだが、犬は騙されん。
「誤解だアホ! ってか、殺す気ならなんでお茶を飲ませたんだよ!」
――客にお茶を出すのはオレの役目だ。それにカテキンには体臭防止の効果がある。
「客って認識してるなら襲うなよ!」
――では、敬意を持って献身的に殺すとしよう。
青い軌道が伸びる。俺は早めにそれを避ける。そしてまたすぐに軌道が俺の首元を捉える。そんな攻防が何度か続く。
予兆が視えてから実際に襲ってくるまでの時間がとても短い。つまり、ナルシードほどではないにせよ、動きがとても速いということだ。少しでも気を抜いたら喉が引き裂かれてしまう。あるいは噛み千切られてしまう。
喉がからからに乾いている。固い唾を呑み込んでから、俺は言う。
「……お前、もしかしてジェームズか? アリスが初っ端に名前を出してたぞ?」
――いかにも、オレがジェームズだ。アリス親衛隊軍曹でもある。
「そっか、親衛隊軍曹か……」と俺は言う。それからジェームズの足元に向けて右腕を構える。
「軍曹がアリススペシャルズ二号に勝てると思ってるのか!?」
使役を行う前に、俺は頭の中で独り言を言う。絶対に避けろよっ!
「出でよ雷獣――並びに鬼熊!」
紫電がジェームズの足元に落ち、そして俺の少し前の畳を鬼熊が派手に粉砕する。
ジェームズは高く飛び跳ねて紫電から逃れる。畳やその下の堅木材が残骸となって吹き上がり、そしてがらがらと音を立てて落下する。俺はその隙にジェームズに背を向けて走り出す。
――避けろか、オレも舐められたものだな。
俺はジェームズの語りを素早く襖を開けながら聞く。アリスの両親のお墓の場所はわかった。もうこのアホみたいな屋敷に用はない。長い廊下を走りながら、俺はアリスの赤いリュックを背負い、そしてネギが入っているビニール袋をしっかりと脇に抱える。
*
和風の廊下を走り抜けて目についた扉を開けると、今度は異国情緒溢れる廊下が視界に飛び込んできた。こう和から洋に一気に光景が切り替わると、まるで自分が武家の屋敷からヨーロッパ貴族の屋敷へと空間を飛び越えて移動しているような気にさえなってきた。あるいは、園城寺家のアホ屋敷ならそれもありえるかもしれない。なんせ庭に俺の実家が八千軒は建ってしまうぐらいの財力なのだ。どこかで極秘開発された空間転移装置的なものが導入されているとしても、なんら不思議ではない。
しかし、そんな財力が有り余っているような家の屋敷なのに、ありがちな趣味の悪い余計なオブジェは一切なかった。決して多すぎず、決して少なすぎない数の絵画や骨董品が、あるべきところにぴったりと納まるべくして飾られていた。
その奇跡的な配列が生み出す心地良さのおかげで、ここを通る人間はその時に必要なものをそっと授かることができた。緊張している人間なら緊張をほぐし、何かに腹を立てている人間ならばその怒りを鎮めることができた。少なくとも俺はそう感じた。
そしてさらに言えば、そのせいで気持ちよく無我夢中で走ってしまい、いつの間にか俺は迷ってしまっていた。くそ、あの豪華絢爛な玄関はどこだ。
俺はとりあえず目についた扉を開けてみた。オラウータンがいた。オラウータン? そっと扉を閉じた。また違う扉を開けた。白いアナコンダ? そっと扉を閉じた。また違う扉を開けた。トラ? そっと扉を閉じた。
なんだこの屋敷、すごく怖い。なんで普通にオラウータンやアナコンダやトラがいるんだ。
もう適当に扉を開けるのはよそう。このままだと知らない扉恐怖症になってしまう。園城寺家にはどんな危険な動物がいても不思議ではない。俺はそれを理解し、慎重に行動をしなければならない。と言うか、そうしないと生きて出られる気がしない。
また俺は走り出す。真っ白な扉が現れる。これこそが外に通じる扉かもしれない。慎重な俺は希望を持ってドアノブに手をかけ、そしてゆっくりと扉を開ける。
ティラノサウルス? 俺はそっと扉を閉じる。もう何も怖くない。
本格的に迷ってしまった。しかし立ち止まるわけにはいかない。俺は前を向いて走り出す。目の端にダチョウの姿を捉える。凄いスピードでこちらに迫っている。
「うわああああ!」
俺は全力疾走でここまで走った廊下を戻っていく。ダチョウは目を真っ赤にして長い首をゆらゆらと揺らしている。こうやって首を西部劇の保安官が投げるロープのようにして、己の頭部を敵にぶちあてるのがダチョウの主な攻撃方法だ。そして実際、俺は背中に強い衝撃を受けた。超痛い。しかし、二度目からは青い軌道となって視えている。俺は走りながら器用にそれを避ける。
「なんなんだよアリスの家は! なんでダチョウが放し飼いされてんだよ!」と嘆き叫ぶと、突然後方から声が響いた。
「ステファニー、そのへんにしておきなさい」
良く通る低い声。大声ではないのに、まるで一番効率良く音が空気中を振動しているかのように、遠くからでもはっきりと聞こえた。
ダチョウ(どうやら、こいつがアリスの言っていたステファニーらしい)が立ち止まり、俺も静止する。後ろを振り返る。
「ようこそ三井優希君。私が園城寺家当主の園城寺譲二だ」。着物の上に羽織を纏い、首にブタの絵が刺繍されているストールのようなものを巻いている初老の男は、そう言って顔全体で微笑んだ。
*
結局、俺はあの道場まで舞い戻る形となり、園城寺家の当主と膝を交えて話をすることになってしまった。アリスの両親のお墓がある場所はもうわかったので、正直あまり歓迎できる話し相手ではなかった。この屋敷に来るまでは軽く考えていたが、俺を招くということは、当然アリスがショッピングモールからいなくなったことと俺が関係しているのだと確信しているはずだ。アリスはどこだ? と訊かれたら、俺はなんと答えればいいのだろう?
しかし、そんな不安を感じながらも、俺の目は正座をする園城寺譲二の美しい佇まいに魅入ってしまっていた。と同時に、只者ではないと、その姿勢だけで窺い知ることができた。正座だけで相手を屈服させてしまいかねないし、実際それだけの力が彼にあることは明白だった。
肉体も初老男性のそれでは明らかになかった。着物だとわかりづらいが、いつでも天下一武道会に出場できるぐらい筋骨隆々な身体をしているように見受けられる。
俺は人生で最高の正座を披露しようと心に決めた。この人に無礼な態度を取ったら、寿命が確実に縮むと脳が強く警告を繰り返していた。
「ジェームズがとんだ失礼をしてしまったようだね」と彼は言った。そのジェームズは園城寺譲二の隣で、借りてきた猫のようにおとなしく伏せていた。目から殺意の赤い光は消えている。
「いえ……あの、俺も畳をこんな風にしてしまってすいませんでした」、俺は荒々しく穿たれた四畳分くらいのスペースを見ながら頭を下げた。鬼熊を使役して破壊した箇所だった。
次の園城寺譲二の言葉を瞬間的に予想し、俺はその答えを考えた。『どうやってこんな穴を開けたのだね?』、そう訊かれたらなんて答えよう?
しかし、俺の予想は大きく外れた。「幻獣を宿しているのだね?」と彼は言った。
俺は言いあぐねる。彼はそんな俺を見て、シワを深く作って顔全体に笑みを浮かべた。
「隠さなくてもいい。私はきみの身に起きたことを理解しているつもりだ。アリスのこともね」
「えっ……どういう意味ですか?」
「私にも経験があると言えば話は早いかな?」
園城寺譲二は静かに跪座になり、片足を踏み出して腰を浮かせた。そして後ろの足を引き寄せながらすっと立ち上がった。それはおそらく、正座から立位に移るときの正しい作法であるはずだった。彼がそうするならそれが正しいとしか思えない。俺も倣ってその作法で畳の上に立ち、歩き出した彼の後ろをついていった。
彼は神棚の大きな写真の前で立ち止まった。写真に写るアリスの太陽のような笑顔を相好を崩して眺めた。それから視線が空色の髪の女性に移り、園城寺譲二は言った。
「アリシア・イザベイル。それがこの写真の女性の真名であり、私の妻であり、そしてアリスの祖母だ」
アリシア・イザベイル。それはあの異世界でフェンリルとともにアラクネを封印した、アメリア・イザベイルの双子の妹の名だった。
その名とアリスを祖母と孫という形で結びつけるのに、俺は相当な時間を要さないわけにはいかなかった。




