228 孫悟空が頭に巻いているもの
階段を上がると、病室からサワヤちゃんの楽しそうな話し声が聞こえた。足がすくみ、俺はその場で立ち止まる。もう少し進めば開いた扉からサワヤちゃんが見えてしまう。彼女も俺を目にしてしまう。その時の反応が怖かった。彼女は俺を見てどんな表情を浮かべるのだろうか。
誘拐犯にお腹を刺されて血を流すサワヤちゃんの姿が、フラッシュバックのようになって俺の目の前に映し出される。彼女は間に合わなかった――護ることができなかった俺を見て、口元を僅かに風に揺られる花びらのように動かす。
「どうして護ってくれなかったの?」
透明性を帯びた声が俺にそう言っている。サワヤちゃんは俺を恨んでいるのだ。
しかし、これで会わずに帰ってしまったら今までと何も変わらない。俺は彼女に『ごめんなさい』しなければならない。たとえ許してもらえなくても。
重い一歩を踏み出す。目を伏せて扉をノックし、思い切って顔を上げ、病室の真ん中を見る。
「ユウキお兄ちゃん!」
窓枠に手をついてそのままの姿勢で振り返った少女が、喜びに満ちた表情を顔いっぱいに広げていく。
「サワヤちゃん!」と、その意外な反応を何よりも嬉しく思いながら俺は言う。しかしそれからすぐに、少女は思い出したように唇を尖らせ、ぷいっと横を向く。
「ユウキお兄ちゃんなんてキライ!」
「サワヤちゃん……」
天国から一気に地獄に落とされたような。あるいは北風と太陽の逆バージョンのような。そんな気分になり、一瞬にして明るかった病室が暗闇に支配されて黒一色に塗り替えられていく。
俺は視線を下げ、自分の足元を見る。この足であの異世界を歩いていた。この足でアリスの隣を歩いていた。
俺は視線を上げる。七歳の少女を護れなかった過去の自分から逃げ出すわけにはいかない。
姿勢を正して深々と頭を下げる。そして言う。「サワヤちゃん、護れなくってごめんなさい! あと来週退院できるんだな、本当に良かった!」
ゆっくりと頭を上げて、サワヤちゃんの横顔を恐るおそる覗き込む。頬をぷくーっと膨らませ、顔を真っ赤にして今にも泣き出しそうな表情をしている。
俺は歩を進めてサワヤちゃんの隣に立つ。窓から見える外の景色はとても明るく、とても美しい。「爽やかな空だな……。サワヤちゃんの名前とおんなじだ」
「ユウキお兄ちゃん!」、少女は大きな涙の粒を落とし、思いっきり俺の胸に飛び込んでくる。
「サワヤちゃん!」、俺はその軽い身体を抱きしめる。それから、長いあいだ撫でることのできなかった頭を思う存分撫でまわす。
「はっ……」と突然サワヤちゃんは何かを思い出し、俺の胸から頭を離して少し下がる。「ユウキお兄ちゃんなんて大キライ!」
「サワヤちゃん……」。地獄さんこんにちは。北風さんまた会ったね。だけど俺はもう挫けない。真っ直ぐ彼女の目を見て真っ直ぐな俺の気持ちを口にする。「本当に後悔してるよ……。命令なんか無視してすぐにあの廃墟に乗り込めば、サワヤちゃんが傷つく前に助け出せたかも――」
「違うよユウキお兄ちゃん! すっごく痛かったけど、すぐにユウキお兄ちゃんはわたしをスクイにきてくれたもん! 悪い人をタイホしてくれたもん! わたしが怒ってるのはそれじゃないよ!」
「サワヤちゃん……」
「どうして会いに来てくれなかったの!? わたしずっとずっとユウキお兄ちゃんのこと待ってたんだから! 一緒にお外で遊ぶためにリハビリを頑張ったんだから!」
ああ、そうか……。と俺は思った。それから深い後悔がすぐに訪れた。
サワヤちゃんを護れなかったこと。それ以上に、彼女の反応を恐れて会えなかったことこそが、俺の一番の罪だったのだ。
うわーんと泣き出したサワヤちゃんの顔を捕まえて、俺はもう一度胸の中に強く抱き寄せる。「ごめん……。本当にごめん……!」
俺たちはしばらく、そのままの姿勢で外から聞こえる冬の日曜日の音を聞くともなく聞く。やがてサワヤちゃんは両手の甲で涙を拭い、顔を上げて俺の目をじっと見つめる。
「いいよユウキお兄ちゃん! 許してあげる!」
「サワヤちゃん……!」
初めまして天国さん。太陽さんは久しぶりかな?
*
病院の外には散歩用のコースがあり、前からやってくる人や俺たちを追い越していく人、あるいは俺たちに追い越されていく人々の姿があった。
サワヤちゃんと並んで歩いていると、木の枝にとまる小さな二羽の鳥が午後の病院にぴったりのさえずりを響かせた。サワヤちゃんは手を振って挨拶をする。二羽の鳥はそれに応えるように、枝から飛び立ってサワヤちゃんの周りをゆっくりと飛行する。そしてしばらく歩調を合わせるように空中を進み、やがてピーッ! と鳴いてから空に消えていった。
俺は満足そうなサワヤちゃんの表情を見つめていた。不思議な女の子だな、と俺は思った。俺がまだ警官でいたころ、毎日のように交番に遊びに来ていたサワヤちゃんを見て、同じ感想を何度か抱いたことをふと思い出した。
「そう言えばサワヤちゃん、俺が病室に入る前に誰かと話してなかったか? よく考えたら個室だよな? 窓の外に誰かいたのか?」、話しながら、それは考えにくいなと俺は思った。あの病室は五階にある。
するとサワヤちゃんは、「キノセイだよ!」と言った。なるほど気のせいか。たしかにそうかもしれない。どこか他の病室の話し声だったのだろう。
「ねえねえユウキお兄ちゃん!」と、サワヤちゃんは繋いでいる俺の手を揺らしながら言った。「孫悟空の頭についてるアレってなんていうの?」
孫悟空の頭についているアレ。なんといっただろう? 聞いたことがあるようなないような……。聞けば、『あー! そうだそうだ!』と言えるような言えないような……。
そんな形状を持たない曖昧な記憶を引き出そうとしていると、突然サワヤちゃんは俺の手を放し、近くの大樹の元まで歩いてそこでしゃがんだ。振り返って悲しげな表情を浮かべた。「落ちちゃったみたい」、おやつをねだるように向けられた両手の手のひらにはヒナ鳥がいた。
「ああ……。木の上のほうに巣があるし、そうかもな……」
落ちているヒナに触れてはいけない。たしか子供の頃にそう聞いたことがある。人の匂いがついたヒナを、親鳥は我が子と見なさないらしい。だが、そのことを七歳の少女にどう説明すればいいのだろう? 俺は頭を悩ませた。すると、まるでサワヤちゃんは俺の心の中を読んだかのように言った。「わたしならダイジョウブだよ!」
そして、おやつをねだる両手を高く上げて、その場でぴょんと飛び跳ねた。
もう一度跳んだ。
もう一度跳んだ。
もう一度跳んだ。
ヒナは無事に巣の中に戻され、兄弟と元気にピーピー鳴いて親鳥に餌をせがみ始めた。なるほど、本当に大丈夫みたいだ。
「ってサワヤちゃん!? いま空中で何度もジャンプしたよね!?」
「キノセイだよユウキお兄ちゃん!」とサワヤちゃんは言った。そして何事もなかったかのように再びコースに戻って歩き出した。俺は追いかけて追及を始める。
「いや気のせいじゃないよ!? ってか怪我が治ったばっかで飛んだり跳ねたりしちゃだめだよ!?」
「セイダイなキノセイだよ! ところでユウキお兄ちゃん、孫悟空が頭に巻いてるアレってなんていうの?」
「サワヤちゃん!? 話逸らすの下手だよ!? それさっきも訊いてたよ!?」
困ったときに浮かべる表情をサワヤちゃんはしていた。何度か見たことのある表情だ。唇を尖らせて、鳴らない口笛を吹いている。いや、彼女なりに、それはきちんとしたメロディーを持つ音楽なのかもしれない。
俺は諦めてサワヤちゃんの頭を撫でた。どんな不思議なことだろうと、それを無理やり話させる気にはならなかった。俺たちは再び並んで歩き出す――と、急に身体の中心が強い熱を発した。
――誰かと思えば! ――サワヤやないかい! ――会いたかったで!
使役してもいないのに、いきなり木霊が顕現した。
「えっ……!? ちょ、お前らなんで……ってか勝手に出て来れたのか!?」
――サワヤがいるからやで! ――せやで! ――ホンマやで!
「サワヤちゃんが……お前たちなに言ってんだ!?」
三体は俺の質問を無視してサワヤちゃんの頭や肩の上に座り、いつになく楽しげな表情で足をぶらぶらとさせた。
「ユウキお兄ちゃんこの子たちと喋れるの!?」とサワヤちゃんは言った。見たことのない表情だった。それはやっと秘密を打ち明けられる特殊な仲間に出会った時のような、強い親和性に満ち溢れていた。
「サワヤちゃんにも木霊の声が聞こえるのか……」
サワヤちゃんは嬉しそうに頷く。そして、ずっと誰にも言えなかったことを告白するみたいに、100パーセントの淀みない晴れやかな笑顔で、大きく口を開く。「うん! ここにいるみんな大切な友達だよ! ユウキお兄ちゃんに紹介するね!」
「紹介……? それに、ここにいるみんなって、ここには三体しか……」
「なにを言ってるの? ユウキお兄ちゃん」とサワヤちゃんは言った。それから俺の少し前まで歩いて振り返り、万歳をするように両手を広げた。「こーんなにいっぱいいるよ!」
円を描くように、ゆっくりと彼女の両手が下げられていく。それに呼応して、風景の至るところにたくさんの木霊が姿を現す。散歩コースのベンチの上に。手すりの上に。病院の屋根の上に。あらゆる樹木の枝の上に。サワヤちゃんの周りに。そして、俺の肩にも。
俺は思わず息を呑む。数万体が病院の風景を埋め尽くしている。同じ見た目をしたものは一組もいない。地球上に存在する木がそうであるように、みんなそれぞれ少しずつ違っている。
モーゼが海を割ったのを間近で目撃したヘブライ人たちと同じように、俺は言葉を失う。
その空白を数万体の木霊が埋める。彼らは――あるいは彼女らは――一斉に俺に顔を向けて、申し合わせたように口の動きを揃えて言う。
初めましてミツイユウキ! サワヤのトモダチはぼくたちのトモダチ!
止まる寸前のコマみたいに、俺は360度すべてを見回した。そしてサワヤちゃんの不思議な行動に合点がいき、誰にも聞こえないぐらいの声でそっと呟いた。「なるほど、キノセイね……」
俺は軽く手を振って挨拶をする。「よろしく、たくさんの木霊たち」、しかし、その頃にはもう数万体の木霊は見えなくなっていた。挨拶が伝わっていればいいのだが、と思っていると、サワヤちゃんは俺の手を取って強く握りしめた。
「ダイジョウブだよユウキお兄ちゃん!」
良かった、伝わっているみたいだ。
それからサワヤちゃんは俺の手を引っ張って歩き出した。俺は彼女の歩調に合わせて、たくさんの木霊たちに見守られながら(たぶん、見守っているのだろう)、歩く。
俺の三体の木霊はまだサワヤちゃんに寄り添っている。いつもならとっくに戻っているはずだが、サワヤちゃんといるから顕現し続けられるのだろうか? こいつらは俺の身体に宿る幻獣たちの中でも、とりわけわけがわからない。数万体の木霊を見たあとだととくに。だいたい、なんで関西弁なんだ?
少し暖かい冬の日の午後。サワヤちゃんの首のマフラーが風に揺られ、木の葉が誰かに密やかなメッセージを伝えるように、『の』の字を描いてどこかに飛んでいった。
残りの散歩コースを歩くあいだに、サワヤちゃんは木霊との出会いの話を聞かせてくれた。生れた時から声が聞こえて視えていたらしい。しかし、そのことを言っても誰も信じてはくれなかった。両親や周りの人の困惑する顔を見て、彼女は口をつぐむことに決めた。木霊に対しても、現れても視えないふりをして、話しかけられても聞こえないふりをした。だが、一人の少女と友達になったことによって、サワヤちゃんはありのままを受け入れられるようになった。木霊を大切な、とても大切な友達だと認めることができるようになった。「アカネちゃんは引っ越しちゃったけど、木霊ちゃんがわたしたちを繋いでくれるの!」とサワヤちゃんは最後に言った。
とても爽やかな日だ。空も、俺の心の中も。
散歩コースの終わりが見えてきた。まるでマラソンのゴールを跨ぐように、サワヤちゃんは最後の一歩を大きな歩幅で越えた。
俺は自動販売機で桃のジュースを買って、それをサワヤちゃんに渡した。そして自分のコーヒーを購入し、二人で散歩コースのスタート兼ゴール付近にあるベンチに腰を下ろした。
あの異世界での日々を、出来るだけわかりやすくサワヤちゃんに話した。彼女はところどころで質問を交えて、楽しそうに俺の冒険譚に耳を傾けていた。サワヤちゃんには俺の話をすべて真実として、自然と脳が吸収するように聞くことができた。俺たちは秘密を打ち明けられる特殊な仲間なのだ。
話し終えると、彼女は異世界冒険手帳を見たいと言った。でも、それはアリスが持っている俺のボディバッグに入っているので無理だった。少し残念そうな表情を浮かべてから、サワヤちゃんは俺に言った。「わたしもイセカイに行ってみたい!」
「それも……どうかな、無理なんじゃないかな」
「えーなんで!? だってユウキお兄ちゃんはまたそのイセカイに行っちゃうんでしょ? だったらわたしも連れて行ってよ!」
「う、うん。そうだな、いつか連れて行ってあげるよ」
「やった! じゃあ、さっき言ってたハンマーヒルのリョウシュの屋敷でわたしとユウキお兄ちゃんのケッコンシキを挙げよ!」
小さな子は純粋だ。こうやって大人に小さな恋心を抱いて、少しずつ大きくなっていくのだ。サワヤちゃんが、俺にこんなに好意を持ってくれるのもいまのうちだけだろう。それは少しだけ悲しくもある。
俺は言った。「そうだな、サワヤちゃんが大きくなったら俺が迎えに行くから、そうしたらあの異世界の領主の屋敷で盛大な結婚式をしよう。風の精霊やゴブリンやトロールを招待してさ」
サワヤちゃんは俺の小指を引っ張って、自分の小さな小指と絡ませた。「絶対だよユウキお兄ちゃん! 嘘ついたらハリニオクホン呑み込んでもらうよ!」
「サワヤちゃん!? 二億本は多すぎないかい!?」
俺たちはベンチの上で向かい合って、指切りげんまんと歌いながら約束をした。出来る大人の対応としては、俺の行動は合格点だろう。
それから、サワヤちゃんはふと思い出したように三体の木霊を見て言った。「そういえばユウキお兄ちゃん。お兄ちゃんのシエキする木霊ちゃんたち、すっごくサボり癖があるみたい」
「えっ!?」
俺は驚いて三体の木霊を見た。彼らも驚いた表情でサワヤちゃんを見ていた。
――なにいうねん! ――バラすなや! ――い、いつだって全力やで!
そう言って慌てながらその場で消え、俺の身体の中に還っていった。




