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227 すべてが俺よりも勝る男

「あんたは今日、『おめでとう』と『ありがとう』と『ごめんなさい』をそれぞれ二回ずつ言わなくてはならない」と姉貴は言った。


 俺はそれについて考えてみた。『ごめんなさい』を言うべき相手はすぐに思いあたった。


「さっき寝てる時に夢を見たんだ。姉貴もあの誘拐事件の捜査に俺が関わってたって知ってるだろ? ……サワヤちゃんは表情を見せてはくれなかった。俺にはそんな資格はないのかもしれない。けど、それでも俺はサワヤちゃんに会わなくちゃならない。……行ってくるよ、『護ることができなくってごめん』を言いに」


 誘拐犯に刺されて血を流した彼女に会う勇気をずっと持てなかったが、アリスと過ごした異世界での日々がその勇気を俺にくれた。

 慕ってくれていた七歳の少女に『ごめんなさい』をすること。たぶん、それがこの世界に戻ってきた俺が最初にやらなくてはならないことだった。高峰先輩と少しの酒と夢が、そのことを俺に気づかせてくれた。


「もう来週にも退院できるそうよ。病院の場所は知っているわね?」

「ああ、知ってるよ。……何度も病室の前までは行ったんだ」


「あら、そうなの」と姉貴は言った。その隣では、長い金色の髪の男が真剣な目つきで俺の全身を見ていた。


「……で、誰なんだよこの外人さんは」

「私の旦那様よ」

「へえ、旦那様か……」


 大量のネギの刺激臭が鼻先をかすめた。実家の畑で採れたネギ。俺は子供の頃からこの匂いが大好きだった。この匂いを嗅ぐと、俺は麦わら帽子をかぶった爺ちゃんの後ろ姿をいつでも鮮明に思い浮かべることができた。


「……って、旦那様!? お前結婚したのか!?」

「おめでとうを言いなさい」


「お、おめでとう……」と俺は言った。そして姉貴の相手をまじまじと見た。本当に端正な顔立ちをした、長身の男だった。ハリウッドで売り出し中の映画俳優ともし言われたら、俺はそれを真っ向から信じるしかないだろう。


「あ、相手はちゃんと選んだほうがいいぞ……」

「あら、カイルはとてもすてきで誠実な男性よ。もちろん、ぞっこんなのは彼のほうだけれど」

「いや、そのカイルさんに言ったんだよ……」


 カイルという男の視線は俺の首筋に移っていた。ちょうどひし形の刻印がある辺りを精細に見つめている。


「義弟よ、あなたに一つお聞きシマース」と男は言った。流暢のなかに、ある意味ユーモアが混じっているような日本語だった。


「あなたは戻りたいのデスカ?」

「戻りたい? なんの話ですか……?」

「華香はワタシにこう言いました。『愚かで浅はかでモテナイ弟の助けになってやって』と。戻りたいのナラ、急いだほうがイイデース」


 酷い言われようだが、この男が何を言っているのかまったく理解ができなかった。カイルという男は尚も続ける。


「その刻印はダスディー・トールマンの『重複の法』によるものデスネ? 彼の温かい想いがこめられてイマース。しかし、あと一日もすれば刻印は消えてしまうデショウ」


 足元で何かが倒れて音を立てた。ビニール袋の中の大量のネギが横になって、青々とした三又の先端を床に伸ばしていた。


 俺は言った。「ダスディー・トールマン……それに重複の法って……。あんた――」、何者なんだ? と言おうとしたが、その前に脳が答えを導き出した。俺はこいつを知っている。俺の細胞が、そして身体に住まう幻獣が。


「カイル……。あんたもしかして金獅子のカイルか!?」

「その通り名で呼ばれるのは久しぶりデース」


 異世界で何度も耳にした、最強の幻獣使いの騎士である金獅子のカイル。金獅子のカイル? 俺はその名と目の前の姉夫婦を照合するように眺めた。しかし、俺の脳はいつまでもその処理を終えることができないでいる。


「金獅子のカイルと姉貴が結婚って……。えっ、どういうことだ? なんで姉貴が異世界の騎士と?」

「簡単な話よ、私はあんたよりずっと前に異世界転移を経験しているの。最初にあの異世界に行ったのは高校三年生の頃かしら。……昨日、この部屋であんたと刻印を見た時にすぐに気づいたわ、私の愚弟はあの異世界に行っていたのだと。そして、戻りたくて仕方がないのだとね」


 何を言っているんだこの馬鹿姉貴は。異世界転移? 頭がおかしくなったのか?

 俺はなぜか、おとぎ話の国をいくつも渡り歩く姉貴の姿を想像した。その中で姉貴は赤ずきんをかぶり、猫から奪い取った長靴を履いて、金の斧と銀の斧を両手に持って、ブタの兄弟が建てた三つの家を破壊して回った。そして最後にロバの耳をした王様をしばいて、お菓子の家を手中に収めた。


「だいたいあっているわ」と姉貴は言った。だいたいあっているらしい。


「って、人の頭の中を読むな!」

「姉はすべからく弟の考えることがわかるものよ。それとエロ本の在りかや、その傾向までもね。あんたの場合、三次と二次の割合はおおよそ3:7ってところだったかしら」

「た、たまたまだしっ! いつもはだいたいフィフティーフィフティーだし!」

「実家で得た四年間のデータで、あんたは女子高生とサボテンと浮き輪に異常な興奮を示すこともわかったわ。バナナを部屋に持って行ったら、その夜は物音が激しいということもね。グラフ化した詳細なデータもあるけれど、見る?」

「やめろっ! 弟のエロ活動のデータとってんじゃねえ! そしてそれをグラフ化するな!」


 姉貴は冷蔵庫にちらりと目をやった。「私が昨日買ってきたバナナがないようだけれど、傷心のなかでもちゃんと致したのかしら?」


「致してねえよ! ってかバナナもたまたまだ! お前本当に頭おかしいだろっ……ああもう大嫌いだ!」

「あんた顔が真っ赤よ。そんなんだからいつまで経っても童貞なのよ」

「ど、どどどどど童貞ちゃうやで!」


 駄目だこいつ。まともに相手してたらこっちの頭までおかしくなっちまう。と、俺は一度冷静になるために、冷蔵庫の中のお茶をコップに注いで飲んだ。ついでに馬鹿夫婦の分も用意してやった。

 しかし、バナナ? まじか、俺には自分でも気づかない性癖があったのか? いや、たまたまだろ。

 俺は考えを巡らせる。思い当たらないことがないでもない。しかしそうしていると、姉貴があの異世界で過ごしていたことや、金獅子のカイルが目の前にいるという事実をいつの間にか受け入れていることに気がついた。どっちも些細なことだろう。バナナに比べれば。


「姉貴が高三の夏休みに、そういや一か月まるまる帰ってこなかったことがあったよな……。あれってそういうことか?」、俺はおぼんにコップを二つ載せて振り返った。ラブシーンが始まっていた。


「出会った時のことを思い出してしまったわ。あなた、いきなり私に剣を突きつけたのよね」

「一応帝国の騎士デシタから。シカシ、まさか十七の可憐な少女が帝国の中枢である黒鉄城に盗みに入るとは思いませんデシタヨ」

「今では、すっかり違うものを私に夜な夜な突きつけてくるのにね」

「昨夜のキミもすてきデシタヨ、マイハニー」


 ねっとりと舌が絡みつき、二人は濃厚なディープキスを平然としている。弟の部屋で。弟の目の前で。


「やめろ! 身内にそういうの見せるのっ……やめろっ! おぞましい! 気持ちが悪い!」


 俺は馬鹿二人を無理やり引き剥がし、おぼんをテーブルに置いた。そして姉貴のショルダーバッグから財布を取り出し、札を数枚だけ抜き取って、アリスの赤いリュックを背負った。


「お前らなんか相手にしてらんねえ、俺はサワヤちゃんの所に行ってくるぞ! 姉貴、お前は園城寺譲二って人の屋敷の場所を調べとけ!」

「あら、急に話が展開したわね。園城寺譲二? 誰よそれ」

「一緒に異世界転移した園城寺アリスって少女の祖父だ! どっかの大企業の会長らしい! ……とにかく頼んだぞ、司法修習生の人脈を使ってでも調べとけよ!」

「まあいいわ、調べておいてあげる。でもあんた、昨日はあんな死にそうな顔をしていたのに、すっかりいつもの冴えない間抜け面に戻っているわね。……励ましがいのない弟だわ、本当に。大量注文をしたバナナはどうするのよ」

「やめてっ!? キャンセルして!? バナナで弟を励まそうとしないで!?」


 早口で言うと、金獅子のカイルが予備動作もなく俺の前にすっと移動した。たったそれだけで、最強の幻獣使いの騎士という異名の説得性を感じ取ることができた。

 すべてが俺よりも勝る男。肉体も精神も技術も、そして身に宿す幻獣も。

 俺はこの男には勝てない。遥か階段の上を行くこいつの足元すら目にすることができない。


 カイルは言った。「最初にも言いまシタガ、ダスディー・トールマンが遺したその刻印はあと一日もすれば消えてしまうデショウ。そうなったら、義弟はあの世界に戻ることができなくなってシマイマス。だから必ずユウコクにはここに帰ってきてクダサーイ」


「刻印……。もしかして、俺が死ビトに喰われて死んだはずなのに生きてて、しかも元の世界に戻ってたのってこれのせいなのか?」、俺は首筋のひし形の刻印に触れた。なんだか手触りが前と少し違っている。と言うか、二つあったものが一つに減っている気がする。

 俺の目の前には小さな鏡があった。姉貴が自分のものをかざしてくれていた。


「やっぱり……。なんで一つになってるんだ?」

「相変わらずあんたは鈍いわね、一度死んだからに決まっているじゃない」


 リアクションが内から外に向かって出ていくよりも先に、金獅子のカイルが口を開く。


「それは遥か昔に滅んだ月の民の秘宝の写し。言わば、失われた秘術の一つ。どういう経緯で義弟に刻まれたのかはわからないが、もうどこにも存在しないはずの刻印さ。名を『移し死紋』、文字通り訪れた死をどこかに移してしまうもの。そして、その者はあるべき姿で、あるべき世界で息を吹き返す」





 電車の中は静かだった。姉貴に持たされた携帯電話は日曜日を告げていた。時刻は八時二十四分。午後までにはサワヤちゃんが入院している病院に着けるだろう。

 俺は深く座席に座りながら指先を首筋に持っていった。領主の――ダスディー・トールマンの優しい温もりがそこにはあった。


「一度死んで刻印が発動して、そんで残りは領主の重複の法で複製されたこれだけ……か」


 あらためて自分が死んだのだという『結果』を思うと、少し不思議な気分になった。少なからず恐怖も感じた。おいしそうに俺の贓物を食べていた死ビトの姿が鮮やかに蘇る。それから頭を振って、その映像を消し去る。今はもっと考えなければならないことがある。


 俺は思い違いをしていた。時の迷宮で朱色の砂嵐から逃れて未来を変えたと思っていたが、未来の俺もきちんとあそこから脱出したのだ。今のこの状況――死んで元の世界に戻ったことこそが、アリスとの永い別れの原因だったのだ。

 俺は少しも逸れることなく、ピエロが辿ったレールの上をまだ走っている。そして、その切り替えはおそらく、この領主が遺してくれた刻印。

 これを発動させれば俺はあの異世界に還れる。しかし発動させるためには、俺はこの世界でもう一度死ななければならない。そうしないとひし形の刻印の複製は、効力を発揮する前に消えてしまう。

 もしかしたら、未来の俺は刻印を発動させられなかったのではないだろうか? と俺は考える。なんらかの原因で、なんらかの要因で。


 何ひとつ確証はない。ただおぼろげな道が広がっている。霧がかかっている。いずれにせよ、俺はピエロと同じレールをそのまま辿るわけにはいかない。ピエロも、過去の自分が一刻も早くアリスと再会するように願っているはずだ。


 『迷わず落ちろ、行けばわかるさ』


 今だからわかる。あいつは――甘いマスクの、少しだけ身長が伸びた未来の俺は――今日という一日の運命を変えるために真夜中のショッピングに現われて謎めいたメモを残したのだ。


「迷わず落ちろ、行けばわかるさ」、俺は何度も目にした一文を音にしてみる。何を伝えようとしているのかさっぱりだ。もっとはっきり書けと思わないでもないが、もし俺が逆の立場でも答えは示さないかもしれない。うまく説明できないが、過去の自分には自分の力で乗り越えてもらいたいと考えると思う。「ヒントはやる。あとは自分でなんとかしろ」という風に。


 とにかく、俺は遠い未来から伸びる一本の糸を、あてもなく振動させてものを伝えようとしているようなあのメモのおかげで――一言で言えば大雑把なメモのおかげで、重大なヒントを手にすることができた。この先の未来は俺の行動次第だ。落ちるべき時に落ちなければならない。注意深く、その時を見定めなければならない。示唆のようなものはどこにだって現れるだろう。黒猫が笑い出すかもしれない。鳥が社交ダンスをはじめるかもしれない。犬が突然、和歌を詠むかもしれない。


 電車が駅で停まり、扉が開く。俺はアリスの赤いリュックとネギが大量に入ったビニール袋を持ち上げる。姉貴はアパートの玄関で靴を履いていた俺に言った。「手ぶらでお見舞いに行く気? ネギを持っていきなさい」


 もちろん途中で何か相応しいものも買っていこうと思うが、この爺ちゃんが丹精こめて育てたネギをサワヤちゃんに食べてもらいたくもあった。なので迷ったが持っていくことにした。電車の端のほうのおばさんがやたら俺のことを見ていたのはこれのせいかもしれない。だが、もう降りたので気にする必要はない。


 駅を出て、俺はバスの停留所に向かった。バスは十分後に出発するようだった。前のほうに座ると、運転手とミラー越しに目が合った。匂いがきつくてごめんなさい、と俺は心の中で謝った。

 それからアリスの赤いリュックを膝の上に置き、チャックを開けて中身を確認した。可愛らしいファイルに、たくさんの押し花が入っていた。


 ご両親のお墓に供えといてやるからなアリス。それが唯一、俺がお前のためにこの世界でできることだ……。


 異世界でのアリスとの思い出が俺の頭の中を駆け巡る。


「せっかく摘んだのに、お父様とお母様のお墓には供えられそうにないわね」

「押し花? なによそれ」

「いいわね! じゃあ後でツゲヤに行くわよ!」

「あなた中々の提案をしたわね。お爺様に頼んで筆頭執事にしてあげてもいいわよ?」

「早く来てちょうだい! 暗くなってきたしお腹もすいたわ!」


 俺は赤いリュックの上に置いた手を強く――とても強く――握る。絶対にあいつの元にすぐに還ってみせる。文字通り、死んででも。

 涙が頬を伝う。これで最後だ、と俺は自分に強く言い聞かせる。もう泣くのはこれで終わりだ、目を滲ませてレールを切り替える示唆を見逃すわけにはいかない。俺は強くならなくてはならない。


「……なあアリス、あの黄色いパンジーは来年も咲くのかな」


 バスの扉が音とともに閉まり、ターミナルがゆっくりと遠ざかっていった。「俺は強くならなくてはならない」、駅に向かうたくさんの人たちを見ながら、俺は呟いた。


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