226 トゥモロー・ネバー・ダイ
高峰先輩は手土産に持ってきた芋焼酎とスナック菓子の山を無造作にテーブルに置き、フローリングの上であぐらをかいて座った。俺はその様子を中腰になって、居心地悪く眺めていた。
数ヶ月前の記憶が蘇ってくる。
一年も経たずに警官を退職すると決めた際、最初に相談したのはこの高峰先輩だった。彼は即座に駄目だと俺に言った。誰でも、最初は理想と現実のあいだで揺れ動いちまうんだ、それでも自分が信じた正義を貫こうぜ。
彼はいつになく真剣な顔をしていた。間違ったことは言わない人だし、いつでも俺のことを親身になって考えてくれた先輩だった。だけど俺の決意は固かった。彼の目を見ながら、それでも続けられないと言うと、彼は寂しそうな表情で俺から目を逸らした。それから、「残念だ」と一言だけ言った。
しかし先輩も頑固だった。退職ではなく、休職という形で辞表を預かるのはどうだろうと、俺の上司に相談を持ちかけた。上司はそれに応じた。俺はいささか疲れ果てていた。なので、ここから離れることができるのであれば、それでも構わないと言った。誘拐された少女を独断で救うことが許されない組織から、少しでも早く身を引きたかった。
「それで、お前は逃げ出すようにしてこんな場所まで引っ越してきたんだよな」と先輩が言った。グラスの中の氷がカランと音を立てた。いつの間にか、俺の分まで芋焼酎が注がれている。
「人の頭の中を読んで会話しないでください」
「単純なんだよユージは。単純で裏表のない奴。まあ、だからこそ俺の相棒として相応しかったんだけどな」
俺は黙ってひと口だけ芋焼酎を飲んだ。それだけで身体が燃えそうになるくらい熱くなった。
先輩はグラスを床に置いて言った。「おい三井! 俺がお前をユージと呼んだら、タカと返す決まりだったろ!」
「ああ、それまだ続いてるんですか……てか、俺の名前はユウジじゃなくてユウキです」
「似てるからいいだろ! それにまだとかない、一生ものだ! 俺たちはあぶデカに憧れてこの職業を選んだ仲だろうが!」
別にそういうわけではないが、俺は何も言わないでおいた。基本的に、この人には何を言っても無駄なのだ。先輩は芋焼酎を一気に飲み干し、ゲーム機の電源を入れた。俺は空になったグラスに先輩が持参してきた氷を足して、もう一杯ロックで作った。
「そのRPG、ラスボスが異常に強いんですよ。しかも馬鹿姉貴が装備を売っちゃって詰みました」
「ふふんっ……なら俺がクリアしてやろう!」
こうしてどちらかの寮の部屋で少しだけ酒を口にしながら、よくゲームをしたり映画やアニメを観たりした。時々ヒーロー談議になることもあった。俺は熱血のいわゆるヒーローを好み、先輩はダーティーヒーローをこよなく愛した。正義のためならどんな犠牲もいとわないという姿勢に憧れていたようだった。
正しく先輩後輩の間柄でいた期間は短いが、俺は先輩を信頼していたし、たぶん先輩も俺のことを信頼してくれていた。俺たちのあいだに秘密はなかった。俺は彼になら、どんなことでも話すことができた。
これから俺がどうなるにせよ――アリスのいない現実に耐えられるようになるにせよ、ならないにせよ――彼に話を聞いてもらう必要があった。きっと、それがこの世界にはいないアリスと少しでも繋がることができる唯一の糸口だった。
「先輩、俺――」、言葉を口にした瞬間、これから話そうとしていたことが凝縮された液体のようなものになり、一気に俺の頭の中をアリスでいっぱいにした。目の奥に押しとどめていた涙は言うまでもなく流れ落ち、その量が増えるにつれて、俺の口は嗚咽のみを通す出来の悪いフィルターに変わっていった。
先輩は口をきかずに、ブラウン管テレビの中の勇者一行を検分するように見ていた。丸裸の彼らは突然意を決したように転移魔法を唱え、いつかは討伐されるべきラスボスが待つ暗黒の城へと向かって行った。
俺は小さな深呼吸を一つした。それからゆっくりと口を開いた。
「先輩、俺……この一か月、なんて言うか……不思議な国に行ってたんです。そこでアリスという少女に出会いました」
前を向いたまま先輩は言った。「たしかに、不思議な国で出会うならアリスであるべきだな。白雪姫では困る人間がたくさんいるだろ。例えば三月ウサギとか帽子屋とかチェシャ猫とか」
俺は続けた。勇者一行は苦戦していたラストダンジョンの雑魚を撃破し、また薄暗い廊下を進んでいった。
「そんで……色々なことがありました。いろんな人に出会いました。でも、最終的に、俺はアリスをおいてこの世界に帰ってきてしまいました。黒鎧のデュラハンに襲われて不可抗力でだけど……それでも、俺はずっとあいつの隣にいなきゃならなかったんです。なのに逃げ帰って来ちゃったんです。戻りたいけど、どうすればいいのか俺にはわからななくて……」
涙を拭うには、俺の着ているシャツの袖はあまりにもみじかすぎた。七分袖? どうして俺はこれを着ているのだろうか? 何も思い出すことができない。
先輩は振り向かずに、くしゃくしゃのハンカチを俺に投げ渡した。ちょうど俺の手のひらにそれは落ちた。
「酷い顔してるもんな、お前。まあ何かあったんだろうさ。けどユージ、相変わらずお前は説明が下手だな。それに比喩の使い方がまるでなっていない。まるで、サイズの合わないリュックとネギを背負って巡礼の旅に出るペリカンのようだ」
サイズの合わないリュックとネギを背負って巡礼の旅に出るペリカン。俺の話を荒唐無稽だと言いたいのだろう。
「見知らぬ土地でトラブルに見舞われたってとこか。黒鎧のデュラハンというのは絶望のメタファーだな?」と高峰先輩は独自の解釈を口にした。「それなら、その絶望をまずは受け入れろ。そしてそれからゆっくりとでいいから立ち上がれ。その頃には、自然とやるべきことが見えているはずさ」
ブラウン管テレビから、人を恐怖のどん底に突き落とすような不吉な音楽が流れてきた。いよいよ勇者は魔王と対峙する。
俺は言った。「また簡単に言ってくれますね……。言うは易し行うは難しって言葉、知ってます?」
「違うな……言うはヤスシ行うはキヨシだ。それに、俺はお前がそれをできないとは思わないぜ?」
先輩はゲームに集中しながら、腕をぐるりと回してそのまま拳を俺に向けた。俺はその逆さの拳に、自分の拳を軽くあてた。
『俺はお前がそれをできないとは思わないぜ?』、先輩がそう言うならそうなのかもしれない。この人は間違ったことはあまり言わないのだ。
「ヤスシキヨシって、なにうまいこと言ってるんですか」と俺は言った。そして笑った。笑うことができた。戻って来てから初めて、俺はこの世界の空気が不快なものではないと感じることができた。
それから俺は一言も口をきかずに、勇者一行の最後の戦いを見守った。以前、万全の状態で挑んだ時には手も足も出なかったが、先輩は傷ついた仲間を辛抱強く回復して少しずつ魔王の体力を削っていった。いつの間にか俺は先輩の隣で中腰になり、手に汗を握ってひたむきな彼らの応援をしていた。
魔王の極大閃熱魔法が勇者たちのHPを大きく奪った。防具を纏わない彼らに、その業火はあまりにも熾烈すぎた。続けざまの全体攻撃で、ついに回復のかなめである僧侶(トモコ)が戦闘不能になった。蘇生魔法は僧侶(トモコ)以外には使えないし、薬草一つ持つことを許されない勇者たちには、もう傷を癒す手段もない。ここは一か八かで特攻を仕掛けるしか選択肢はない。
しかしあろうことか、先輩は次のターンで防御を選択する。全員がだ。魔王は「臆したか人間よ!」とでも言わんばかりに攻撃を続ける。それが何度か続き、ついには魔法使い(ユキりん)が倒れる。
俺は先輩の横顔を見る。数字を口ずさんでいる。「24、12、25、14――」、先輩の頭の中でその羅列が一つの形となり、そして暗雲が立ち込める先を照らす光へと昇華する。「ふふんっ……ここだ!」
勇者(ユウキ)と武闘家(ジャイ子)が迷いのない攻撃を繰り出す。武器を売却されて素手の彼らだが、その一撃には魂がこもっている。俺はその熱量を感じることができる。しかし――魔王はひるまない。その禍々しいドット絵が俊敏に両手を広げ、極大爆裂魔法を撃ち出すサウンドをブラウン管テレビに演奏させる。
しかし MPが足りない!
MPが足りない。俺はその文字を何度も見直す。声に出して読んでみる。「MPが足りない?」、MPが足りない。やはりどう見ても、どう音にしてみても、魔法を放つだけのMPが足りないんですよ。という解釈しか得ることができない。
「敵にもMPや消費MPが設定されてたんですか……。先輩はそれを計算して……」
答えは返ってこない。気がつけば、先輩はコントローラーを放り投げてガッツポーズを浮かべている。
「この魔王を討ち取るとは……貴様は何者だ……?」
「はい」
「そうか、貴様が伝説の勇者か……」
そんなやり取りを経て、物語はエンディングを迎える。紫色の厚い雲に覆われた世界が太陽の光を取り戻す。世界は救われたのだ。高峰先輩の助力を得た勇者一行によって。
「トゥモロー・ネバー・ダイ! 明日への希望を見失うな三井!」と先輩は言う。泣いている。いつだってどんな時だって、この人はあらゆるキャラクターに感情移入してしまうのだ。俺もつられて泣いてしまう。なんだか泣いてばかりいる気がするけど、きっとこれは前向きな涙なのだろう。
そして、俺たちは抱きしめ合う。コケコッコーと鶏が鳴く早朝に、がらんとした何もないアパートのフローリングの上で、失われる寸前だった友情を再確認するように。
高峰先輩が訪ねて来てくれて本当に良かった。俺は俺であり続けることができそうだ。
「待ってろよアリス!」と俺は言う。「絶対、お前の元に帰ってやるからな!」
神の首根っこを捕まえてでも!
*
始発電車の時間が近づき、高峰先輩は慌てて帰っていった。
「青島っ! 俺は腐敗した警察組織を偉くなって正しておく! だからお前は現場に戻れ! アリスちゃんの元にどうやってでも戻れ!」
「青島じゃないです! ってか、あんた巡査部長の昇任試験すら落ちまくってるじゃねーか!」
「細かいことは気にするな千石! またいつか悪党を斬り捨てる諸国漫遊の旅に出ようぜ!」
「じっ……千石くれるんすか!? ってか、いきなり時代劇にならないでください!」
別れ際にこんなやり取りがあったことを、彼はまるで覚えていないだろう。それほどにでろでろに酔っぱらっていた。だが、俺はいつまでも忘れたくない一つの思い出として、脳に刻んでおいた。『大好きなバカ先輩との思い出』という付箋をつけて。
俺はアリスのいる現場に戻れるのだろうか? 真夜中のショッピングモールに現れたピエロが俺だという確信はあるが、それだとあの異世界に帰れたとしても、それは七年以上先ということになってしまう。
なんとか、すぐにでもアリスの元に帰れる方法はないものだろうか? 異世界の紅い四の月が、蒼い三の月よりも大きく見えてしまう前に。円卓の夜を迎える前に。
しかし何かものを考えるには俺の身体も脳も疲れ切っていた。少し眠ろうと俺は思った。高峰先輩のおかげで、俺はそう冷静に判断することができた。寝て起きたら色々と考えよう。
俺はアリスの赤いリュックを抱き枕代わりにして、眠りについた。起きると、枕元には姉貴が立っていた。
「おはよう」と姉貴は言った。そしてネギが大量に入ったビニール袋を俺の顔の上に置いた。「母さんが送ってくれたネギ。今年のは甘くてしゃきしゃきらしいわよ、あんたに半分渡してくれって」
俺は新鮮な空気を求めて起き上がった。姉貴の隣の男に気づいたのはそれからだった。金髪の長いきれいな髪が、窓からの光を受けてきらきらと輝いている。
金髪の男は家族に向けるような、とても親密な笑顔で俺の顔を覗き込んだ。「あなたが華香の弟デスネ? これからはワタシのことを義兄と呼ぶとイイデース!」と男は言った。
こうして、サイズの合わないリュックとネギを背負って巡礼の旅に出るペリカンの長い一日は始まった。




