225 ひとりぼっちのショッピングモール
気がついたら、俺はショッピングモールにいた。
東メインゲート付近の小さな広場の芝生の上。そこで仰向けになり、天井の厚いガラスの向こう側を眺めていた。
空は明るく、しかし雨が降っていた。どこか遠い国の地域で戦闘が行われた後に降る雨のようだった。どことなく人を冷静にさせる、静かで中立的な雨だ。
いったいいつからここで空を見ていたのだろう? 見当もつかない。だいたい、俺は黒鎧のデュラハンから致命的な一撃を食らい、そして死ビトに喰われて死亡したはずだ。だけど、どう見ても俺は生きている。それどころか欠損した左手と右肩から先も復活している。ここは隠り世的な場所なのだろうか?
しかし、どうやらそういうわけでもなさそうだった。上体を起こして辺りを見回すと、人がショッピングモールで買い物をする風景があった。スーツを着たサラリーマンが大きな紙袋を持って足早に歩いていたり、学生のカップルがゆっくりと移動しながら楽しそうに話をしていた。近くのベンチでは、クレープを食べる孫の姿を、おばあちゃんがくしゃくしゃな笑顔で幸せそうに見つめていた。確証はないが、たぶん孫とおばあちゃんで間違いないだろう。
そこは異世界のショッピングモールではなく、引っ越した先でただあてもなくうろついていた、元の世界のショッピングモールのようだった。これから先、何年も何年も平和で日常的な生活を送っていけるだろうという、あやふやな自信に満ち溢れる美しき世界だった。
「も……戻ってきたのか……?」と俺は呟いた。その瞬間、反射的に顔を振って、俺はアリスの姿を瞳の中に求めた。
「アリス……!?」
どこにも見当たらなかった。ずっと背負っていたあいつの赤いリュックだけが手元にあった。何人かが注意深くこちらを見たが、俺は気にしないで立ち上がって声を上げた。「アリスっ! いないのか!?」
俺は走り出した。ビイングホームに入り、西メインゲートまでのテナントの中に一つずつ入り、そしてツゲヤの中を駆け回った。同じようにして北メインゲートまでやってきて、ジャオンの中に入った。一階の食品売り場を見て回り、二階の日用品売り場やゲームコーナを隈なく回った。
それから、何時間もかけて三角形のショッピングモールを何周もした。何回も核店舗に入り、何回も同じテナントに入ってアリスを探した。
ふと思いついて、ショッピングモールの総合サービスカウンターに向かった。迷子のお知らせで呼びかけてもらおうと考えた。しかし、そこに辿り着く前に二人組の警備員がやってきて、俺の行く道を阻んだ。
「ちょっと来てもらえますか?」と長身の男が言った。真面目な顔つきの、警備員として信頼をおけそうな男だった。だが、言われたとおりにするわけにはいかなかった。俺はアリスを見つけ出さねばならない。
「ちょっと待ちなさい!」、無視をして駆け出した俺の背後から、長身の男が腕を伸ばして叫んだ。俺はちょっと待たずに、北メインゲートから外に出た。こうなってしまうと、総合サービスカウンターに向かっても面倒なことになるだけだろう。既に『怪しい男』として、俺の人物像は周知されていると思われる。
雨は強くなっていた。とても冷たい冬の雨だった。走りながらそれを全身に浴びていると、首筋が熱を帯びていることに気がついた。二つのひし形の刻印。そこに指先で触れてみると、焼いた鉄板のように熱かった。しかし不思議なことに、痛みは少しもない。だけど今はそんなことはどうでもいい。アリスを見つけ出すまでは、何もかもがどうでもいい。
それから数時間かけて、ショッピングモールのいくつもの駐車場や、面している小さな神社、それに大きな公園を駆け回った。雨は止む気配はなく、空は段々と暗くなっていった。
朝から晩まで、ほぼ一日かけて俺はアリスを探し回った。しかし、どこにもあいつの姿はなかった。
「俺……だけなのか……?」
俺だけ元の世界に戻って来てしまったのか? アリスをひとり異世界に残して?
俺は公園の大きな池の前で立ち止まり、真っ暗な空を見上げた。大粒の激しい雨が俺の顔を満遍なく叩いた。ザザザザッという音がした。雨の降る音だった。まるでこの世界には雨が奏でる音しか存在しないかのように、それだけが辺り一帯に響いていた。
俺は空を睨みつけた。
「降りて来い、神!」
神は何も言わなかった。墨色の空に雷を走らせるというような暗示すらなく、ただ重たい雨を地上に落として沈黙を守っていた。
「なんで……なんで俺だけ戻って来ちゃったんだ……」
もう動けなかった。俺は手すりにもたれかかり、そのままそこで膝をついて崩れ落ちた。
*
アパートに着いたのは深夜だった。どこをどう移動したのかはあまりよく覚えていない。ショッピングモールからここまでは歩いてニ十分ていどのはずなので、アリスの姿を求めてあてもなくふらふらと歩いていたのだろう。しかし、俺の隣にアリスはいない。それだけがはっきりとした形で俺にわかる唯一のことがらだった。
ドアの鍵はなかった。アリスが持って行った俺のボディバッグの中に財布ごとあるはずだ。構うもんか、と俺は思った。そして鎌鼬を使役して、ドアノブを斬り落として鍵を開けた。元の世界で幻獣の使役が行えるのを少しだけ不思議に感じたが、すぐにどうでもよくなった。使役できたのなら、それが当たり前のことなのだろう。
部屋は閑散としていた。自分の家だとはとてもじゃないが思えなかった。見覚えのある荷物がなければ、俺はここが自分のアパートだと確信を持てなかったかもしれない。
ここには引っ越し業者が運び入れた段ボールの山や、冷蔵庫、ブラウン管テレビ、組み立て式のベッドだけがあった。異世界のショッピングモールの和室に漂っていた空気や、温かみは微塵もない。冷ややかで他人行儀な匂いが空気に混じっている。
あまりここにいたいという気持ちにはなれなかった。だが仕方なく、俺はアリスの赤いリュックをフローリングの上に置いて、その隣で横になった。そして、いつの間にか深く眠っていた。
目を覚ますと朝だった。窓から陽の光が射していた。名も知らない異国の古びたホテルの窓に射し込むような陽光だった。俺は立ち上がり、シャワーをなんとなく浴びて、ただ不審者だと思われないような恰好になるために着替えた。食欲はなかった。なので、そのままドアノブのないドアを開けて外に出た。ショッピングモールに向かった。
また一日かけてショッピングモール中を歩いた。駐車場や、ショッピングモールに面した神社や公園を歩いた。夜になると、家に帰り横になった。眠れなかったので天井を意味もなく眺めた。気がついたら朝になっていた。
次の日も次の日も同じことを繰り返した。だんだんと、現実が俺の中にある異世界の記憶を上から塗りつぶしていった。
俺は本当に異世界なんかに転移していたのだろうか? 夢を見ていただけなんじゃないのか? アリスは実在したのだろうか? あいつの華奢な身体を抱きしめたこの感触は嘘なのか?
もう何もわからなくなってしまった。しかし、目を閉じるとアリスの太陽のような笑顔を見ることができた。それは俺を唯一幸せな気持ちにさせ、同時に息も出来ないほど不安にさせた。この笑顔を護ることがもう俺にはできないと考えると、身体が小刻みに震えた。心がばらばらになって、もう奮い立つことができなかった。ただゾンビのように、ショッピングモールを歩くことしか俺にはできなかった。
夜になり(たぶん暗いので夜なのだろう)、俺はアパートに帰ってドアを開けた。閉ざされた戸の曇りガラスの向こうに人の気配があった。
「あら、帰ったのね」と抑揚のない声で気配が言った。俺は戸を開けた。
「このゲーム懐かしいわ。たしか中盤でヒロインが死ぬのよね?」、姉貴が引っ張り出してきた座布団に座り、直置きのブラウン管テレビでゲームをしていた。視線はいつまでも、テレビの中のポリゴンキャラが戦っている様子に向けられていた。
俺は何も言わずに着替えとタオルを持ってユニットバスに入り、シャワーを浴びた。そして着替えて小さなキッチンで蛇口をひねり、コップに水を入れて飲んだ。
「なんで来たんだよ」と俺は背中を向けたまま言った。戸の奥からは先ほどまでのとは違うゲームの音が聞こえた。レベルが上がったらしく、耳馴染みのサウンドがブラウン管テレビから響いた。
「大家さんから実家に連絡があって、それで母さんが私に様子を見てくるようにって言ったの。ここに来たのは今日で三度めね」と姉貴は言った。「鍵が壊れていたから、泥棒でも入ったのかって思ったわ」
姉貴から距離を開けて、俺は窓際に座った。「なんで泥棒が入ったと思った部屋で呑気にゲームしてたんだよ。ってか、人のセーブデータでRPGやって楽しいのか?」
姉貴は何も言わなかった。勇者一行が城に入り、道具屋でたんたんと持ち物を全て売り払った。
俺は言った。「なんで何も聞かないんだよ。一か月も姿を消してた弟を無視して、ラスボスで詰まってる俺のパーティーを丸裸にしてんじゃねえよ……」
「私はあんたのママじゃない」、姉貴は教会に行ってセーブをし、ゲーム機の電源を切ってから俺の顔を見た。「あんたの顔を見ればそれで十分。母さんには北海道に旅行に行ってたみたいとでも言っておくわ。あんたは明日、大家さんに電話しておきなさい」
無駄のない動きですっと立ち、姉貴はショルダーバッグを持ってキッチンまで歩いた。そして冷蔵庫を開けた。「色々と買ってきたから、ちゃんと食べるのよ。それと――」、少しだけ間をおいてから姉貴は続けた。「私はあんたのママじゃない。けれど、あんたの姉ではあるの。そんな酷い顔の弟を放っておくのは少しだけ忍びない。あんたに会わせたい人がいる、明日の朝また来るわ」
「来るなよ……」と俺は言った。しかし、玄関のドアは既に閉まっていた。
姉貴が帰ってから、俺は冷蔵庫の中の弁当とチキンサラダとバナナをなんとなく食べた。どれもあまり味はしなかったが、身体はそれを強く求めていた。それから段ボールの中からヤカンを取り出してお湯を沸かした。コーヒーを作って飲んだ。それは明確に不味かったが、一気に飲み干した。もう一杯作り、壁にもたれて座りながら飲んだ。
姉貴は明日、誰を連れて来るのだろうか? 誰でもいいが、誰とも話をする気にはなれなかった。俺はアリスを求めてゾンビのようにショッピングモールを歩くだけだ。この世界にアリスはいない。それなら、どこかの神様がアリスの元に俺を戻してくれるという奇跡を頼るしかない。
俺は一か月ほど前に突然、異世界転移した。そこで十一歳の小学五年生であるアリスに出会った。ふたりで色々な話をして、色々なものを見て、色々なことをした。そして俺は死ビトに喰われて死に、どういうわけか元の世界に戻ってきた。アリスを置いて、円卓の夜が始まろうとしている異世界から逃げ出してきた。
悔しくて涙が溢れてきた。身体がどうしようもなく震えて、座っていることさえできなくなってしまった。横に倒れて、俺はあいつの赤いリュックを思いきり抱きしめた。そこからかすかにアリスの気配を感じ取ることができた。涙が一直線に落ちて、冷たい床の上に広がった。
「アリス……!」
あいつのことが心配で心配で心配でたまらなかった。あいつが泣いていないか心配で心配で心配でたまらなかった。コーヒーカップが倒れていた。熱いコーヒーがフローリングの上を無機的に移動している。俺はそれを見ていることしかできなかった。やがてそれすらできなくなり、俺は無理やり目をつむった。
視界を塞ぐと、耳がいつもより細やかな音を拾いだした。壁の向こう側から歌が聴こえる。
絶望なんて この広い空の下で 誰かが君の応援をしてるよ だからさあ立ち上がろう
とてもきれいで安らかな声だ。とても前向きで明るいフレーズだ。
俺は耳を塞ぐ。音も光もない世界でひとりうずくまって、凍えそうな孤独に必死で耐える。
アリスとあまりにも遠くに引き離されて、泣いているあいつを護ることができない俺に――泥だらけで悔しさと寂しさに震えている、捨て犬のような俺に――それでも立ち上がれと誰が言えるだろう? きっと誰にも言えない。友達でも、両親でも、爺ちゃんでも、伯父さんでも、姉貴でも、きれいな声の誰かにも、姉貴が俺に会わせようとしている誰かにも。
大きな音を立てて、予告なく玄関のドアが開いた。「よう三井、やっと会えたな」と高峰先輩が言った。




