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俺とアリスの異世界冒険手帳~ショッピングモールごと転移したのはチートに含まれますか!?~  作者: 底辺雑貨
四部

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224 徐々に蝕む

 土の匂いを懐かしく思った。岩肌を覆い隠す苔はしっとりと濡れていた。青々とした草木が冬の到来に叛逆するかのように、確かな意志をもって深く呼吸していた。俺は樹海のなかで仰向けになり、寝っ転がりながらその音に耳を澄ませる。


「脱出できたぞ……!」


 喜びと達成感が込み上がってくる。俺は右腕を空に向けて伸ばし、白んだ空に浮かぶ三の月を掴むように力強く拳を握る。


「アリス! 俺はお前と離ればなれになる運命を打ち砕いたぞ!」


 十八歳の未来アリスは少なくとも七年間、どこかに消えてしまった俺を捜索していた。その別れの始まりは当然、アリスが十一歳である現在のはずだ。

 そして、俺は時の迷宮のわけのわからない朱色の砂嵐や無の浸食から無事逃れることができた。木霊と黒蛇を使役して、牢獄の遥か上空にあった落とし穴の跡まで昇ることができた。スパイダーマンのように颯爽と。

 これで、もう俺はあやふやな時空間に囚われる心配はない。俺は未来を変えたのだ。俺は十一歳のアリスと一緒に、この異世界で歳を重ねていくことができるのだ。


 俺は疲れ果てた全身に鞭を打って立ち上がった。同時に、地面が激しく揺れ動く。


「っ……!」


 見るみるうちに足場が崩壊していく。地下から無が溢れ、遺跡のような建物の成りの果てを呑み込んでいく。時の迷宮が無に帰ろうとしているのだ。その地上にあるものを全て巻き込んで。

 ここまで来てそんな強引な誘いにのるわけにはいかない。俺は全力でそこから逃げ出し、木霊を使役して高い樹木の枝の上に登る。ここまで来れば大丈夫だろう。


「は、はんぱないな……」


 視線の先の光景がエレベーターのように沈んでいく。鳥たちが狂ったようにいななき、一斉に羽ばたいてどこかに飛び去っていく。やがて揺れがおさまり、世界から一切の音がなくなったかのように辺り一帯がしんと静まり返る。そこには果てしない闇をただ広げる、大空洞だけが残る。


 遠くから眺めていると、なんだかその穴が俺の魂を呑み込もうとしているような、そこはかとない不安な気持ちになってくる。そこから伸びる白くて細長い手が俺の足を掴み、底のない暗闇の中に引きずり込もうとしているのだ。あまり長いあいだ見ていてはいけない、直感が俺に強くそう告げている。


 俺は木霊の階段を配置して土の上に降りる。そして果てしない闇の残像を目の奥から追いやって、朱色の砂嵐に呑み込まれたオウティスのことを考える。元高校球児のラップミュージシャン。三百年前にふと現われて、死霊使いの力で人々を救ったオウティスという男は、やはり彼なのだろうか? あやふやな時空間は彼を三百年前に連れて行ったのだろうか? 確証はないが、俺はそうとしか思えなかった。子孫にあたるガルヴィンを命をかけて護ろうとしていたのは、もし本当にそうであるなら、神が仕組んだ運命のいたずらだったとしか言えない。

 いずれにせよ、もう彼に会うことはないだろう。眉毛の細い男は永遠に俺の前から姿を消してしまった。多くの悪い記憶と、少しだけの良い思い出を残して。


 八咫烏が視せた俯瞰の映像を頼りに、俺はチルフィーとスプナキンの元へ急いだ。

 時の迷宮の入り口があった場所からかなり離れてはいるが、ふたりは二つの気配をそこにじっと浮かべていた。念入りに迷わないように何度か八咫烏を使役したが、その気配は地図に書き込んだしるしのように、ぴくりとも動かなかった。


「心配してるだろうな……」


 俺を大好きなチルフィーのことだ。泣き叫んで取り乱しているに違いない。緑色の長い髪を結んだポニーテールを振り回して、俺の名前を何度も何度も呼んでいるだろう。ふふっ俺のこと好きすぎだろ。


 にやにやとした表情のまま、俺はたまに現れる死ビトを鎌鼬で斬り刻み、樹海をひたすらに走った。時の迷宮の牢獄から脱出したあの落とし穴から、入り口のあった場所まではかなり離れていた。でこぼこな地面のうえにまだ辺りは薄暗く、近未来的な時の迷宮の通路を走るよりもかなり体力を奪われた。だが、俺は一歩いっぽ、塗り替えた未来の道を進んでいった。未来に向かって寄り道をしながら辿るアリスの隣に、少しでも早く戻りたかった。


 俺は走り、死ビトの首をいくつも刎ね飛ばし、たまに膝に手をついて立ち止まって休憩をした。そうこうしていると、いつしか俺の頭のなかにはソフィエさんがいた。白装束ではなく、いつもの巫女装束を着ていた。赤いシュシュはこの世のどんなものよりも赤く、その先の手は誰よりも白く繊細な形をしていた。

 彼女が笑って俺の名を口にした。その眩しすぎる表情を直視するだけで、俺の心臓はばくばくと脈打った。幼さを少しだけ残した美しい顔が俺の目の前にすっと近づき、赤みがかったふんわりとした毛先が鼻先をくすぐった。キッスの流れだなと俺は思った。それはこの現し世において俺がもっとも望んでいることであり、もっとも成し遂とげがたいことでもあった。俺は彼女のことが好きなんだなと、いま初めて気がついた。

 いつまでも彼女を想像していることが俺にはできた。思春期の少年が毎晩、ベッドの中で好きな同級生の女の子のことを想うように。

 ふたりでパリに新婚旅行にも行けたし、無人島にふたりっきりで流れ着くこともできた。ゾンビパニックに陥った埼玉の街中を彼女の手を引いて走り、ふと入ったコンビニのトイレの中に駆け込むこともできた。なぜか、ソフィエさんはいやらしい下着を身に着けていた。「勝負下着だよ!」と彼女は言った。


 それから俺は現実のソフィエさんに思考を向けた。今までふたりだけでちゃんと会話を交わしたことはまだない。頭突きをされたことと、手を握ってくれたことはある。その思い出だけで、俺は幸せな気分になることができた。

 とはいえ、俺は真新しい学ランの中学一年生ではないのだ。彼女のことが好きなのであれば、それ以上を望まなければならない。もっと仲良くなって、きちんと告白をして、もし奇跡が起こるのであれば、ちゃんとお付き合いをしなくてはならない。それが大人の男としての正しい恋愛の手順なのだ。

 しかし、そうしようという気持ちにはあまりなれなかった。仲良くなりたくはあるが、まだその心地良い空想に身を任せていたい。あるいは、そんな考えに至るのは経験不足によるものなのかもしれない。ただごめんなさいされるのが怖いだけなのかもしれない。


 俺は彼女の両腕の赤いシュシュの上から、いつまでも消えることのない縄の痕に触れた。流浪の送り人としての想いに触れた。ソフィエさんはゴブリン討伐の地で、黄金色の意志を背後に浮かべていた。それはこの世の理を覆しかねないほどの強い意志であり、決して俺が触れてはいけない光だとクリスは言っていた。「触れれば、その意志に飲み込まれるぞ」

 だが、いつか俺は彼女のそんな意志に触れる時がくるだろうという、漠然とした予感があった。触れないわけにはいかない時がくる。俺の脳のどこかが強く点滅を繰り返して、そう予告しているような気がした。


 いやらしい下着を脱がす時が来た。どうやらゾンビパニックは日本中で発生していたらしく、俺とソフィエさんは生き残った数少ない人々が暮らす地下シェルターのような場所にいた。

 牧師っぽい人や隣人たちに祝福され、俺とソフィエさんは晴れて夫婦となり、そして初夜を迎えたわけだ。下着が(すごくいやらしい)その美しい肢体から少しずつパージされるのは当然の流れなのだ。できればおパンツ様は穿いたままでいてほしいが、少しでも変態と思われることは避けたい。想像のなかとはいえ、そのリスクはのちにどんな悲劇を招くかわかったものじゃない。俺はあくまで紳士なのだ。おパンツ様を脱がす紳士――それは手際よく下着を取り外し、優しくキッスをして、ベッドまでお姫様抱っこで相手の女性をエスコートするべきなのだ。

 俺はベッドの上で顔を赤らめて俺の顔を見つめるソフィエさんに覆いかぶさって、至近距離で彼女と視線を絡ませた。幸せになろうね! と彼女は言った。俺は頷き、同時に前方に禍々しい気配を感じ取った。


「っ……!」


 そこには黒鎧のデュラハンがいた。現実のそこには、黒鎧のデュラハンの上半身があった。

 黄金色の意志が背後で輝き、黒い翼を広げるそのシルエットを樹海のなかに作り出していた。


「しっ……しつこい奴だな……!」と俺は言い、構えた。瞬く間に黒翼が俺の眼前まで伸びた。俺は右手を突き出し、玄武の使役を行った。しかし、悪魔の翼のようなそれは、顕現した玄武の内側に既にあった。


「はっ速い……!?」


 そのスピードはあまりにも速すぎた。まるで最後の力の全てをその翼にこめたかのように。

 凶暴な刃物のような翼は俺の後方の木々を薙ぎ斬り、岩を真っ二つにし、空気を鋭敏に二分した。そして――俺の右肩から先を鮮やかに斬り落としていた。

 俺はその場で叫び、前に崩れ落ちるようにして倒れ込んだ。あるいは前に倒れ込んでから泣き叫んだのかもしれない。順番はわからない。ただ、痛みと衝撃的な現実に打ち震えた。そうすることしかできなかった。二の太刀に気を回すなんてことは不可能だった。


「ぐっ……うううっぅっ」


 ありとあらゆる種類の呻きと、黒々とした血が口から吐き出された。ゆっくりと首を横に振ると、俺の右肩から先が血の海の上で静かに佇んでいた。それから視線をなんとかして前にもっていった。黒鎧のデュラハンは黄金色の意志の残光の下で横たわっていた。

 その姿を見て、俺ははっとして記憶の中からアナが言っていたことを手繰り寄せた。


「第四代皇帝の死因は暗殺らしいぞ。首から下だけが玉座の前に転がるように倒れていたそうだ。戦で黒鎧を纏い、巨大な剣を携えて、最前線に立つ一騎当千の猛将――そんな第四代皇帝が三送りもしてもらえない死に方をするのだから、即位なんてするものではないな」


 黒鎧のデュラハンは、オパルツァー帝国の第四代皇帝なのだ。第一継承者であるザイル・ミリオンハート・オパルツァーを付け狙っていたのは、暗殺の恨みを晴らすため、あるいはそれ以外の皇室に関するなんらかの理由によるためなのだ。

『オパルツァー帝国継承者は白にかぎる』。第五代皇帝に即位した際に言った第四代皇帝の息子のこの言葉も、黒鎧のデュラハンの行動に何か関係しているのかもしれない。後光のような黄金色の意志を浮かべるだけの理由が、そこにはあるのかもしれない。


 尋常じゃない量の血が俺の身体のいたるところから流れ出ていた。それと反比例するように、俺の頭が冴えていく。この異世界に降り立ってからの疑問符を、今の俺なら全て解き明かすことができる気になってくる。

 しかし、黒鎧のデュラハンのことやその他もろもろは、一人の少女によってどこかの薄暗い空間に押し出される。アリスが目の前に現われ、両手を腰にあてる。


「ステータスってなによ? なんでパントマイムしているの?」


 出会った時に、最初にアリスが言った言葉だ。そうだ、俺は異世界に転移してから自分のステータスを表示させるために、ありもしない空中のボタンを押そうとしていたんだ。

 それから、アリスと過ごしたショッピングモールでの日々が仔細に目の前に映し出される。アリスは転んで怒って泣いて笑う。本当に忙しい奴だ。本当に勝気な奴だ。本当に愛おしい奴だ。本当に、客観的に見て可愛い奴だ。


「今度また私を置いて行って一人で酷いケガをしてごらんなさい? もっと泣いてやるんだから!!」


 そうだ、このままここで朽ち果てるわけにはいかない。立って、そしてアリスの元に帰らなければならない。ひとりにしたら、アリスはもっと泣いてしまう。両親と妹、そして俺まで死んでしまったら、あいつはきっと二度と太陽のような笑顔で笑うことができなくなってしまう。


 俺は身体のバランスをうまく取って立ち上がる。酷いケガ? いや、たかが右肩から先が落ち、胸の辺りをえぐられただけだ。左手もないが、たいしたことはない。それでも俺はまだ生きている。黒鎧のデュラハンは最後の力を使い切って、黒いもやもやに包み込まれているが、俺の命の灯火はまだ消えてはいない。


「アリス……」


 自然とあいつの名前が口から洩れる。他の一切のことやものが視界や思考から消え去り、アリスだけが目の前の光の中にはっきりとした形で浮かび上がっている。気の強い眼差しで俺のことをじっと見つめている。眉をひそませ、それからにんまりとした笑顔になる。長い黒髪が揺れた次の瞬間には、涙を大きな目の奥に浮かべている。それから溢れ出し、滝のようにこぼれ落ちる。


「な、泣かないでくれよアリス……」


 俺の目にも涙が溢れていた。俺は仰向けのまま空を見上げていた。いつ倒れたのだろうか? どれだけ考えようとしても、うまく思考の焦点を結びつけることができなかった。考えることができるのはアリスのことだけだった。思い浮かべることができるのは、アリスの姿だけだった。


 死ビトがいた。いつからそこにいたのかは例によってわからない。たった今現れたのかもしれないし、長いあいだ俺を見下ろしていたのかもしれない。

 それは何も手にしていない、たぶん俺がこの異世界でもっとも多く首を落としたタイプのごくノーマルな死ビトだった。そのノーマルな死ビトはしゃがみ込んで俺の身体に顔を近づけた。歯をカチカチと鳴らす音が聞こえた。俺はアリスのことを想った。アリスは俺の胸に飛び込み、太陽のような笑顔を顔いっぱいに広げた。やれやれ、俺のこと好きすぎるだろ。


 既に痛みは少しもなかった。恐怖もなかった。俺の身体と脳は少しずつ機能を失い、アリスだけが俺の中に残った。どんな状態にあっても、俺は瞼の奥にあいつの笑顔を思い浮かべることができた。その小さな手から温もりを感じ取ることができた。

 命の灯火が消え入ろうとしているのがわかった。どこからか生み出された濃い陰影が這い寄り、徐々に俺を蝕もうとしていた。

 死ビトはまだまだ満足していないらしく、むしゃむしゃと得体のしれないものを咀嚼している。それは俺の心臓かもしれないし、俺の脳みそかもしれなかった。だが、そんなことはどうでも良かった。アリスがそばにいてくれるだけで、他には何もいらなかった。


「ア……リス……」


 そうして、俺の命は終わりを迎えた。たぶん、迎えたのだと思う。


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