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223 蛙の花道

 いくつもの砂時計が宙に浮かんでいたこの時の迷宮の中枢。そこには文字通り既に何もなく、虚無の空間がただ広がっていた。『無に浸食されている』とスプナキンは言った。朱色の砂嵐が時空間をあやふやなものに変えたのち、全てを無に帰してリセットするということだろうか? それからまた砂時計に戻り、そして時の迷宮が静かにこの地に甦るということだろうか? もしかしたら、そんなサイクルがこれまでに何度も繰り返されていたのかもしれない。四大精霊が集ってあのオーロラに触れない限り、時の迷宮は真の機能を発揮しないのかもしれない。


 俺は憶測を一旦そこまでで止め、力なく座り込むスプナキンに声をかけた。


「シルフの里がケルベロスに襲われる前に時間を巻き戻すって裏技……。俺は最初から賛成できなかったけど、これでその道は完全になくなったな」

「はい……。あの砂がつまっている砂時計がまだこの部屋にあるはずでした。しかし、もう道は絶たれてしまいました……」


 大きな朱色の砂嵐が、時の迷宮の壁にめり込みながら近づいていた。その部分が曖昧な時空間に変わり、いつの時代かもわからない風景を浮かべている。そこをゴーレムが我が物顔で越えて、両腕を振り上げて襲いかかってくる。


「出でよ鎌鼬!」


ザシュザシュッ!


 俺はゴーレムを斬り裂き、中腰になってスプナキンに目を向ける。

 

「じゃあ脱出するぞ、もうここに用はないだろ? チルフィーが外で待ってるはずだ、急がないと砂嵐に呑み込まれるぞ」


 しかしスプナキンは動き出そうとはせずに、じっと大理石の床のシナプスのような模様を見ていた。


「オウティスに救われたこの命が無駄になってしまいました。彼はなぜ、自らを犠牲にしてまでワタシを助けたのでしょう?」

「さあな……。けど、たぶん死んじゃいないと思う。あいつは自分が存在するべき時代に旅立って、そこで死霊使いの力で困ってる人々を救済する運命だったんだよ」


 我ながらとんちんかんなことを言っているなと俺は思った。だけど、きっとそれは間違っていないという確信があった。根拠のない確信だ。でもオウティスはそこで愛する人に出会い、子をもうけて、そしてその血はセリカとガルヴィンに受け継がれるのだ。セリカに至っては、灰色の瞳までをも。


 スプナキンは無反応だった。俺は彼を右手で掴んで手のひらにのせ、小鳥に飛び立つことを促すみたいに、高い位置に手を持っていった。しかしスプナキンは羽ばたこうとはしなかった。


「故郷を取り戻せないワタシに価値なんてあるのでしょうか? このまま砂嵐に呑み込まれて、清々しく消え去ったほうがいいのではないでしょうか?」

「んなわけねーだろ……。いいから早く脱出しろって、俺は自分でなんとかするから心配すんな」


 もう一度でもぐだぐだ言うようなら、その小さな額にデコピンをしてやろうと俺は思った。だがスプナキンは俺の右手の指紋を査定するように、ただ黙って目を伏していた。俺は我慢できずに左腕を伸ばした。しかし手がないことを思い出した。自由にデコピンができないことは、こんなにもストレスを感じるのだと俺は知った。


「族長やみんなに合わせる顔がありません。ウキキさんと言いましたか? あなたは早くここから脱出してください。ワタシのことは放っておいて構いません」


 ストレスの多くははデコピンができないことではなかった。俺はスプナキンに腹が立っているのだと気がついた。


 俺は言った。「何が合わせる顔がないだアホ! 族長はどうだか知らないけど、チルフィーはお前が心配で心配でたまらないんだよ! ってか、お前さっきチルフィーの手を振り払いやがったろ! 今度あんな真似をしたらただじゃすまないからな! あとお前にチルフィーはやらん!」


 何を言っているんだこの人は、というような視線を感じた。だが、気にせずに俺は続けた。


「シルフの里はチルフィーやみんなとなんとかすればいいだろ? チルフィーだってお前と行動したいとずっと思ってたんだぞ? 自分の価値がどうとか言う前に、お前はまずチルフィーにただいまと言って、それから手を取り合えよ。……手を取り合えって、手を繋げっていう意味じゃないからな!? ってかお前にチルフィーはやらん!」


 とんがり帽子を深くかぶり直し、スプナキンは何かを考えていた。いくつもの朱色の砂嵐はもうそこまで来ていた。


「ウキキさんの言うとおりです……。ワタシはまず、チルフィーに謝らなければなりません。それからのことはそれから考えることにします」とスプナキンは言った。「あなたはチルフィーのことを大切に想ってくださっているのですね。ウキキさんになら、これからチルフィーに降りかかる運命をお話ししてもいいかもしれません」


 これからチルフィーに降りかかる運命。俺はスプナキンが言ったこの言葉を抜粋し、頭の中ですぐに繰り返した。どのように言い直しても、そこから良い響きを感じ取ることはできなかった。


「どういう意味だ?」と俺は尋ねた。しかし、砂嵐はそれを聞く時間を与えてはくれないようだった。戻る経路は曖昧な時空間が満遍なく広がっており、そして虚無の空間も現れ始めていた。無が空間を侵食しているのだ。


「まじでもうやばいぞ、お前は先に飛んで脱出しろ!」と俺は言った。スプナキンは俺の手のひらの上で立って目をつむり、何か呪文のようなものを口にした。


「……やはり駄目です。時が入り乱れている今、転移の法は発動できません」

「ああ、そういやそんなことを前にしてたな……。そっか、でもそのせんはなしか……」


 蝶のような羽が静かに動き出した。スプナキンは手のひらからすっと離れ、俺の顔の前で静止して丸メガネに人差し指で触れた。


「一人でここまでワタシを助けに来てくれたあなたのことです。ワタシが何を言っても時間の無駄なのでしょう、ワタシは先にここから脱出します。……あなたに何かあったら、チルフィーはひどく悲しむでしょう。ですので、くれぐれも無事戻ってきてください」


 そして――俺は時と空間があやふやなメトロノームに合わせて行ったり来たりしているこの時の迷宮にひとり残り、アリスと離ればなれになるというおぼろげな未来に立ち向かう。





「出でよ鬼熊!」


ガルウウウウッ!


 襲い来るゴーレムを砂に戻し、そして這い寄る砂嵐に呑み込まれないように迷宮内を進んでいく。入り口までの経路は覚えているが、既に無に浸食されている空間が所々にあり、なかなか思うように通路を駆け抜けることができない。

 立ち止まっては砂嵐から身を隠し、走り出してはゴーレムの奇襲を受け、それでも俺は少しずつ未来を塗り替えていく。塗り替えているのだろうか? 本当に砂嵐に呑み込まれてどこか別の時代に飛ばされるのだとしても――それがアリスとの永い別れの原因だとしても、ここでいくら俺がしゃかりきになっても結局はその道を辿っているに過ぎないのではないだろうか?

 どうせなら早めに曖昧な時空間に身をゆだねたほうが楽かもしれない。負けイベントのボス戦で、ただ何も考えずに攻撃を食らう勇者一行のように。


「っ……!」


 足がもつれ、前のめりに盛大に転んでしまう。何体ものゴーレムが前からも後ろからも迫ってきている。左側の壁は大きな朱色の砂嵐が呑み込んで大航海時代のような光景を浮かべており、壁の右側は一つだけピースがはまっていないジグソーパズルのように、そこだけぽっかりと無が覆いかぶさっている。


「出て来いや木霊!」と俺は叫ぶ。そして三体の木霊をうまい具合に配置して、前方のゴーレムの群れを飛び越えていく。床に着地してまた転びそうになる。だが、俺は左右の足の指に目いっぱいの力をこめて、全力でそれに抗う。


「やれるところまではやってやるぜぃ!」


 そして、また俺は走り出す。狭い通路を抜けて大広間に入り、一気に突き抜け、もう何体めかも覚えていないぐらいゴーレムを斬り刻み、そして無と無のあいだをカニ歩きで越える。学校の廊下ほどの幅の通路に出て、またひたすらに進んで行く。

 やがて、馴染み深い牢獄の前までやってくる。アリスとともに長い時間を過ごした思い出の牢獄だ。俺が遥か上空に浮かぶ月を見て(たしか黄金色の二の月だった)何気なく月がきれいだなと呟くと、あいつは眉をハの字に曲げていた。


「あなた、それ意味を知ってて言っているの?」


 意味とはなんだったのだろうか? 今考えても検討もつかない。


「まあ、でも……。そうね、月がきれいね」、そう言ってから、アリスは付け加えるように「少しだけ」と添えていた。少しだけ月がきれいという表現は俺にはよくわからない。月は『きれい』か『きれいじゃない』かのどちらかであるべきだろう。

 もっとも、あいつの考えを理解できたことはかぞえるほどしかないので、こんなことは考えるだけ無駄かもしれない。アリスは月を『少しだけきれい』と言うし、オウティスは3つの月を『嫌い』と言う。人それぞれなのだ。


 なんとか脱出できるかもしれないという気がしてきた頃、目の前に絶望的な光景が広がる。もう少しで階段が見えてきて、それを上がれば外に出られるという希望を抱いていた頃だ。

 俺は目の前の無を直視する。通路から先が墨で塗りつぶしたように、真っ黒になっている。


「くそっ……!」


 やはり、俺はここで砂嵐に呑み込まれる運命なのかもしれない。足から力が抜けていくのがわかる。俺はダムの底に沈む村の井の中の蛙のように、なすすべもなくその場で膝をついて、そう遠くない未来の自分の姿を想像する。


「ここまでか……」


 ゴーレムと朱色の砂嵐が背後から近づいてくる。

 俺はふと天井を見上げる。至るところに無が広がっており、無言でテリトリーを主張している。なんの希望も見いだせない無機質で退廃的な光景だ。しかし、そんな光景のなかから、俺は一つのアイデアを自然とかすめ取る。雷に打たれたように閃く。


「そうだ、あの牢獄だ……」、俺は勢い良く後ろを振り返り、無骨なゴーレムに右腕を向ける。


「出でよ鬼熊――並びに木霊!」


 ゴーレムを木っ端みじんに砕き、そして木霊の階段で砂嵐を飛び越える。着地して再び全力疾走をする。


「急げっ……!」


 まだ終わりではない。例え負けイベントのボス戦だとしても、まだできることはある。

 考えてみれば、ダムの底に沈む村の井の中の蛙は幸せ者だ。底に沈んだら泳いで脱出すればいいのだ。うまくすれば、それからまた泳いで大海を知ることだってできるかもしれない。蛙の花道はダムの底に沈んでからこそ訪れるのだ。

 だが、俺は蛙ではない。沈む前に脱出する必要がある。無に浸食されて何もかも消え去る前に。


 俺は牢獄まで戻り、中に入って祈るような気持ちで上に目をやる。四角形の光が浮かんでいる。外の光だ。屍教的に言えば、夜を追いやって朝が舞台に上がろうとしている、暁ノ刻の光だ。


「よし……まだ無事だ!」と俺は喜びをかみしめ、それから上空に向かって木霊を使役する。


――またかやで ――大活躍やで ――ダムダムやで!


 そして素早く三体を上に向かって配置し、玄武を同時使役する。


「加えて出でよ――玄武! 飛べ黒蛇!」


 ピーターには勇気があった。だからこそ、彼はスパイダーマンになり得た。

 今この時だけ、俺にも勇気を分け与えてほしい。俺の名前は……えっと……えと……そうだ、『優希』なのだから。字面が違うのは気にしない。だって、ピーターにその違いがわかるとは思えない。


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