221 チルフィーのために
大きさの違ういくつもの砂時計が宙に浮かび、中の細かい砂を無言で落として時を刻んでいた。自律式のようだった。しかし、ひっくり返るタイミングは一つ一つ違っていた。砂の容量が一つとして同じものがないのか、そもそものスタートにばらつきがあったのか、それは俺のあずかり知るところではなかった。今はそれよりもすべきことがあった。
「やめろスプナキン、触るな!」と俺は叫んだ。彼はその小さな手でオーロラに触れようとしていた。
『四大精霊で輪となってこれに触れよ。それ以外を固く禁ずる』という、オーロラの中を右から左に流れ続ける警告文。しかし、俺の言葉はスプナキンに届いていないようだった。
俺は駆け込むようにして透明な円柱の前まで行き、もう一度同じことを口にした。オーロラの表面で小さな波紋のようなものが広がっていくのが見えた。振り向いたスプナキンの手は、既にオーロラを突き抜けていた。
「さ、触ったのか……?」と俺は言った。隣で円柱を叩いているオウティスが口を開いた。
「くそ、入れないぞ。なぜスプナキンとチルフィーは入れたんだ」
風の精霊シルフは透明なものなら通過することができる。いや、警告文を見る限り、それは風の精霊に限らず四大精霊に共通することなのかもしれない。
「で、慌ててどうしたんだ後輩」とオウティスは言った。俺はオーロラの中央を指差し、そこを流れる警告の内容を説明した。
「そいつはマズそうだな……」、円柱を強く叩き、オウティスはスプナキンとチルフィーに出てくるよう声を掛けた。しかしスプナキンは宙に浮いたまま動こうとはしなかった。
「スプナキン! とりあえずここを出るであります!」とチルフィーが腕を引っ張って訴えても同じだった。彼は何も起こらないことに落胆しているようだった。
「四大精霊……。では、ワタシひとりではどうにもならないということですか……」
そう言って力なくその場に降下し、覇気のない後姿を俺とオウティスにさらした。
オウティスがデュラハンを操ってケルベロスを討つという、言わばプランA。そして、時の迷宮でシルフの里が襲われる前に時間を戻すという、裏技のようなプランB。そのどちらの希望も打ち砕かれたのだ。無理もないだろう。
透明の円柱が上から下に向かってゆっくりと消え入り、そして中央のオーロラがその余韻を引き継ぐように、外側から段々と薄くなっていった。
「なくなったぞ……」、ついさっきまで侵入できなかった空間に足を踏み入れ、それからオウティスはオーロラがあった場所を呆然と眺めた。
俺は素早くチルフィーとスプナキンを抱えた。嫌な予感しかしなかった。
「ここから出るぞ!」
だが、すぐに予感が形となって俺たちの目の前に現れた。無数の砂時計が一斉に落ち、容器が派手に割れ、中から砂が自我を獲得したかのように這い出てきた。
「っ……!」
俺は息を呑んだ。砂が瞬く間に人の姿を形作り、まるでゴーレムのような形状へと変貌を遂げた。
「おいおい……しゃれにならないぜ」、オウティスはぼやきながら銃を取り出し、発砲した。弾丸が一メートルほどの背丈のゴーレムの胸を貫く。ただそれだけのことで――と思ってしまった――ゴーレムは崩壊し、きめ細やかな砂へと戻った。
これならたいして苦労せずに倒せるかもしれない。しかし、円形のこの空間にはざっと百近くのゴーレム。数が多すぎる。ここは一刻も早く脱出するべきだ。
オウティスは発砲を続け、近づいてくるゴーレムを砂に変える。俺はしっかりとチルフィーとスプナキンを抱きかかえ、後退を始める。
「よし、そろそろ引き上げるとする――」、オウティスはそこで言葉を切る。何かに目を奪われている。
その視線の先で、ゴーレムだった砂がつむじ風に巻かれる木の葉のように舞っている。「なんだよありゃ……」とオウティスは言う。
やがてそこに砂嵐が生まれる。いや、そこだけではなかった。オウティスが銃で撃ったゴーレムの全てが今では砂嵐に変化し、ゆっくりと俺たちに向けて前進している。
「あれに触れたらどうなっちまうんだ……?」とオウティスは言う。彼の背後でゴーレムが大雑把に形成された腕を引き絞り、そしてラリアットのように叩き込む。
「オウティス!」
まともに食らって派手に飛び、オウティスは入り口付近の壁に強く身体を打ちつけられる。頭が垂れ、そして座り込むように崩れ落ちて、短い呻き声をあげる。
「大丈夫かオウティス!」、俺はその元まで駆け、腕の付け根を引っ張って無理やり立たせる。
「あ、ああ……。なんとかな……」とオウティスは言い、中指を目元にもっていく。「くそ、コンタクトが落ちちまったぜ……」
しかし、コンタクトを探す暇はない。それはオウティスもわかっている。俺たちはそのまま扉を抜け、時の迷宮の通路を走り出す。
「あの砂嵐はヤバそうだな……進むスピードはのろいが、呑み込まれたらひとたまりもなさそうだ」
「ああ、もうゴーレムに手を出さないほうがいいかもしれない」
「だがな後輩、そうも言っていられないみたいだぞ?」
大小さまざまなゴーレムと砂嵐が扉を越え、執拗に俺たちの追跡を開始する。円形の空間から外に出たら砂に戻るんじゃないかと淡い期待を抱いていたが、それは叶わなかったみたいだ。
俺は抱えているスプナキンに尋ねる。「あのゴーレムはなんなんだ、時の迷宮の番人的な奴らか!?」
しかしスプナキンは何も答えない。ただ丸メガネと三角帽子を俺が走る振動に合わせて揺らし、何かを考え込んでいる。
「元気を出すであります! シルフの里は族長やみんなと協力して取り戻すであります!」
チルフィーが励ますが、やはりなんの反応も示さない。
「こいつは一人で里を解放するためにずっと頑張っていたんだ、今はそっとしておいてやれ」とオウティスは言う。そして走りながら死ビトを三体呼び出し、それを後方のゴーレムに差し向ける。
この異世界に転移して初めて、俺は死ビトの存在を心強く思った。しかしそれも長くは続かなかった。その何度めかの蘇りは、ゴーレムに蹂躙されるようにしてあっけなく終わった。ちょうどヌーの大移動に巻き込まれる小動物のように。
「くそ、駆けながらだと上手く操作できないな……」とオウティスは言った。「どうするよ後輩。狭い通路に入って追っ手を分散させるか?」
俺は首を振ってオウティスの横顔を見る。そして口を開いた瞬間、言おうとしていた言葉が薄い灰色の雲に隠された陽光のように、きれいさっぱり消えてなくなる。
「あんた、その瞳の色……」
細い眉毛の下。その目の中央にあるのは、セリカと同じ灰色の瞳。
「ああ、これか……。あんまり人に見られたくなくてコンタクトをしていたが……。まあ、カラフルな瞳で溢れるこの世界なら気にする必要もないかもな」
オウティスは後方に注意を向けながら話を続けたが、俺はそれをしっかりと聞くことができなかった。子供の頃にどうとか、隔世遺伝がどうとか言っていた気がする。しかし、俺の頭のなかでは、いくつかのキーワードがコーヒーに注いだミルクのように、ぐるぐると渦巻いて歴史的事実と混ざり合おうとしていた。
最高司祭の娘であるセリカと同じ、灰色の瞳。三百年前に現れた、セリカの祖先にあたる死霊使いのオウティスという男。そして、過去と現在と未来が入り乱れるこの時の迷宮。
俺は突拍子もない仮説を導き出さないわけにはいかなかった。それから少しだけ間をおいて、進む通路のかなり先にゴーレムがいるのが見えた。
「クソがっ……既に分散して回り込んでいたのか、挟まれるぞ!」
「このまま駆け抜けよう! 壁際を走ってくれ!」と俺は言い、真正面に狙いをつけて狛犬を使役した。発射までの時間をカウントするように、狛犬は大理石の床に伏せて、短い尻尾を一定のリズムで左右に振る。
カウント6。狛犬が飛び立つまであと四秒。俺たちは前から向かってくるゴーレムの大群と交錯する。
「加えて出でよ――MAX鬼熊!」
ガルウウウウウウッ!!
俺はMAX鬼熊を使役して、大群をすくい取るよう薙ぎ払い、大雑把に蹴散らす。大量の砂が舞い、そして十秒が経過する。
ワオオオオン!
光弾となって、狛犬は後衛に位置していたゴーレムの大群に突っ込んでいく。俺たちは狛犬が無理やりこじ開けてくれた空間を全速力で駆け抜ける。三度めの二種同時使役も問題なかったみたいだ。
「よしっ……突破したぞ!」、俺は後方にちらりと目をやる。いくつものゴーレムが砂となり、ゴーレムだった頃の全長と同じぐらいの砂嵐に変わる。
「まだまだ追ってくるとはいえ、このまま出口まで辿り着けそうだな。……あの得体の知れない砂嵐も前進はゆっくりだ、問題ないだろう」とオウティスが言う。同時に、後方の空間が、ガラス球に映った観覧車のように歪みだす。
「っ……!」
次の瞬間、目の前でゴーレムがぶっきらぼうに拳を振り上げる。俺は咄嗟に右腕をそれに向ける。
「いっ……出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
二撃の斬風がいとも簡単にゴーレムの腕を斬り裂く。スイッチがオフになったかのように、ゴーレムの全身が砂となってその場に落ちる。砂に無骨な足跡が刻まれ、二体めのゴーレムが腰を落としてタックルの構えを取る。躱せない。俺は玄武を使役して身を守ろうと、腕を突き出す。
「出でよ玄――」、しかし、身を深く沈めていたゴーレムは煙のように消えている。砂に足跡なんてない。
ゴーレムの大群の追跡も途絶えている。かと思ったら、数メートル先に大群が湧き出すように現れる。
これは……ザイル・ミリオンハート・オパルツァーが姿を見せた時の……!
空間があやふやなものに切り替わっている。脇に抱えたチルフィーやスプナキンも同じものを目にしている。オウティスが俺の肩を掴み、走るように促している。俺はそれに素直に従い、とりあえずオウティスと並んで駆け出す。
「どうしたんだ後輩!?」とオウティスは言う。「急に立ち止まって、気でも触れたか!?」
気が付けば、ゴーレムや砂嵐の大群からかなり距離を取った位置に俺たちはいた。例の牢が見えてきて、俺は目を擦って辺りを見回した。特におかしな現象はないように思えた。
「時の朱砂……」とずっと口をきかずにいたスプナキンが呟いた。「あの砂は時と空間を曖昧にするもの……」
説明しているわけではなさそうだった。丸メガネの縁を人差し指で上げて、スプナキンは論理立てて何かを考えているようだった。
「スプナキン、どうしたでありますか!」
小さなスプナキンの手を、もう少し小さなチルフィーの両手が包み込んだ。「あれを上手く使えば、あるいは……」とスプナキンは言った。
そしてチルフィーの手を振り払い、俺の左腕と胸のあいだから抜け出して、羽ばたいてふらっと飛び立っていった。
「どこにいくのでありますか!? スプナキン!」
スプナキンは振り向かないで言った。「もう一度、時の迷宮の中枢に向かう必要があります。こちらの通路からも行けるはずです」
後ろからはゴーレムたちが迫っていた。チルフィーはスプナキンを追おうと、必死に身をよじって俺の脇からの脱出を試みていた。俺は左腕の力を緩めるつもりはなかった。
「放してほしいであります! あたしはもうスプナキンをひとりにしたくないのであります!」
オウティスは何も言わずに駆け出した。スプナキンが消えていった細い通路へ。
「くそっ、もう少しで外だってのに!」と俺は言った。「お前のために仕方なくだからな! チルフィー、スプナキンを連れ戻すぞ!」
「了解であります!」
そして、俺はアリスとの思い出の牢を横目に、時の迷宮の近未来的な通路を前のめりで走った。




