219 俺とアリスの冒険手帳
「じゃあ、俺とチルフィーとオウティスはスプナキンの所に向かうから、お前は大人しくアナやボルサの言うことを聞けよ?」
砦を出た先の二股の道。そこで俺は立ち止まり、アリスの頭に手を置いて左右に動かした。
「アリスさんは僕が責任をもって王国に帰します」とボルサは言った。「ウキキも気をつけてくださいね」
「ああ、気をつけるよ。……戻ったら、俺とアリスをミサさんのお墓に案内してくれ。前に言ったろ? ちゃんとショッピングモールからお線香を持ってきたんだ」
「……ありがとうございます。ミサもきっと喜びます」
俺はアリスの顔に視線を戻して、置いてある手を激しく動かし続けた。「ちゃんと言うことを聞けよ? わかったか?」
「わかったわよ、しつこいわね!」とアリスは言った。そして俺の左腕を両手で持って、平たい自分の胸元まで導いた。
「手をくっつけられる人がファングネイ王国にいるそうよ。だから、ちゃんと包帯がほどけないように気をつけなさい? 雑菌が入ったら大変よ?」
胸に押し付け、そして敬虔なクリスチャンが十字架を握って祈りを込めるように、俺の手のない腕の先を自分のおでこに重ねた。ピンク色のタオルがそこに巻かれている。
「くっつけられるって……医術師か何かか?」と俺は訊いた。ボルサミノがその問いに答えた。
「ノベンタさんですよ。ほら、呪術師ギルドのマスターの。ウキキも会ったって言ってたじゃないですか」
「ああ、ノベンタさんか……。って、呪術で手をくっつけるとかマジか!? 絶対良からぬものが憑いて回るだろ!?」
「マジよ!」とアリスは言った。俺の左腕はまだ離される気配がなかった。
俺も頭の上に置いた手をそこから移動させる気にはなれなかった。もう一度だけ、もう一度だけ、と何度もアリスの頭を撫でた。
「……お前もおでこの傷があるんだから、ちゃんとショッピングモールの噴水の水を飲めよ?」
「それもしつこいわよ! ちゃんと飲むに決まっているでしょ!?」
だが、アリスがそれをしないことを俺は知っている。俺が斬りつけた傷を、あえてアリスはそのおでこに残すことになる。『あなたを見つけ出すまではこのままでいたいの』と七年後の未来アリスは俺に言った。その言葉は俺が思っていた以上に重かったのだ。
俺はアリスの頭から手をどかし、強くその小さな身体を抱きしめた。時が凍りつけばいいのにと本気で思った。この別離が本当にアリスとの永い別れに繋がるかもしれない。俺はもうアリスの――十一歳のアリスの――頭を撫でることはできないかもしれない。あの太陽のような笑顔は、永遠に俺の手の届かないものになってしまうかもしれない。
かもしれないが多すぎるかもしれない。しかし、その未来が俺たちの元へとやってくることだけは確かだ。それはひそひそと這いずって、舌を伸ばして、既に俺たちの足元で機会を窺っている。
離れたくない。と俺は心の中で言う。「じゃあ行ってくる」と俺はアリスの顔を見て言う。
チルフィーのためにスプナキンを助け出さなければならない。何が起ころうと、俺はチルフィーを見捨てることなんてできない。
俺はみんなの顔を見る。アナ、ボルサ、セリカ、ガルヴィン、副兵団長、大盾の兵士、牢で寝かしておいて怪我が治った様子の兵士二名、俺の左手を咥え込んでいる(犬のおしゃぶり骨のように)クリス。そしてソフィエさん。
全員、ちゃんと無事にファングネイ王国まで帰還してほしい。黒鎧のデュラハンにやられた怪我は噴水の水の包帯がもうないので癒せないが、協力しあって誰ひとり欠けることなく、ソフィエさん救出作戦の任を終えてほしい。
「やっぱり私もスプナキンのところに行くわ!」とアリスが言った。俺の視線を追っていたようだった。アナはそんなバカの肩に手を置き、少し厳しめの表情を浮かべた。
「アリス殿、こっちはこっちで大変なのだ。屍教徒が襲ってくるかもしれないし、死ビトだって出現するだろう。このなかでまともに動けるのはアリス殿だけだ。ソフィエ様を――我々を護ってくれるな?」
アリスは苦虫を噛み潰したような顔でしぶしぶ頷く。俺はふと、前に感じた疑問を思い出し、どうせならとアリスに訊いておく。
「そう言えばお前、前にレリアの家の喫茶店……ジャック・オ・ランタンだっけ? で、『譲二に会いたい』って言ってたよな? 誰だ?」
「あら、あなた妬いているの? ファーストキスをあげたからといって調子に乗らないでちょうだい!」
「妬いてねーよ、それに調子に乗ってねーよ……」
ここにいる全員が冷ややかな目を俺に向ける。なかでも、チルフィーの目は氷山のように冷たい。まて、俺はお前のために命をかける覚悟でいるのだぞ。
「おじい様の名前よ」とアリスは言った。「園城寺譲二。覚えていないけれど、きっと感情が昂っていたのね。そういう時、私は名前でおじい様を呼んでしまう可愛い癖があるのよ」
「オンジョージ・ジョージ……どこかで聞いた名だな」とアナはあごに手を添えて考え込む。「……いや、今はそれよりも急ごう。ソフィエ様も疲れているだろう、馬車まで戻れば休息できるが、それまで踏ん張れるか?」
アナはソフィエさんに目を向ける。大丈夫だよ! とソフィエさんは元気に言う。しかし、大丈夫にはあまり見えない。司教や刻印術師、大広間で亜人の死ビトに葬られた大勢の屍教徒。意識が戻ってからその全員を三送りしたのだ。疲弊しないわけがない。今にも倒れそうな顔色をしていて、白装束を纏う身体は時々さざなみのように揺らいでいる。
「何も無理をして三送りすることはなかったのではないか?」とアナは言い、ソフィエさんに肩を貸した。
「でも、それが私の役目だから!」とソフィエさんは言った。それから俺を見てにこっと笑った。白装束の袖から覗く赤いシュシュは何よりも赤かった。
「ウキキ、ありがとうね! 絶対無事に戻ってきてね!」
俺はその笑顔と、少しはだけた胸元を同時に見る。笑顔は俺の顔を紅潮させ、そして胸元は俺に安堵の息をつかせる。刻印術師に刻まれた星形の刻印。それは俺の胸と同様、いまはきれいさっぱりなくなっている。氷の塊が俺の脳天に落ちる。
「いてぇなバカ! いきなりなんだよ!」
「あなたがソフィエの胸をじーっと見ているからでしょ! 顔を赤くして、いやらしい目つきで!」
「ちげーよアホ! 俺は胸元に刻印がないのを見てたんだよ!」
「ほら見なさい、やっぱり見ていたんじゃない!」
日常的な会話。そんな幸せで楽しいやりとりが暫く続き、そして俺とアリスは別の道を歩いていく。これが最後かもしれないと、俺の身体の至る所が警笛を鳴らしている。「最後のわけがないよな……」と俺は自分に言い聞かせるように呟く。最後のわけがない。七年も――あるいはそれ以上――アリスに会えないなんて、もう今の俺には耐えられそうにない。
*
アリスやソフィエさんやアナたちと別れ、俺とチルフィーとオウティスは鬱蒼とした樹海の中を進んでいった。チルフィーに頭に座るか? と尋ねても、前を向いたまま「大丈夫であります!」と言うだけだった。スプナキンの安否を心配して無理をしているみたいだったが、俺は何も言わずに闇の中を飛行するその小さな身体のあとを歩いた。
「逸る気持ちはわかるが、疲れたらいざという時に動けないぞチルフィー」とオウティスが言った。しかし、チルフィーは聞こえていない様子だった。「やれやれ」とジェスチャーを交えて言い、オウティスは俺の背中に目をやった。
「ところで後輩、その赤いリュックはなんだ?」
「ああ、アリスのリュックだよ。あいつらは馬車に食料があるからいいけど、俺たちは何も食えないならな。中にお菓子があるから食えって。んで、なぜか代わりに俺のボディバッグが奪われた」
「菓子か、そいつはありがたいな。今のうちに何か口にしておこうじゃないか」
俺たちは歩きながら、リュックの中に入っていたポテトチップスをぼりぼりと食べた。チルフィーの口元に一枚を半分に折って近づけると、「高貴な梅味でありますね!」と言って夢中でそれを頬張った。風の精霊も太鼓判を捺す梅味。商品のキャッチコピーとしては悪くないかもしれない。
アリスがショッピングモールからピックアップしてきたお菓子を一通り食べ終えて、イチゴミルク飴を口の中に放ると、突然オウティスがボルサの名を口にした。先ほどの彼との話を聞いていたらしく、ミサという名前について尋ねてきた。
「ボルサと一緒に十年前に転移してきた女性だよ」と俺は答えた。
「亡くなったのか」とオウティスは言った。俺は黙って頷いた。
それからオウティスはそのことについてひとしきり考えている様子だった。なので俺も口を利かずに、黙々と歩いた。
幾重にも重なる木々の枝が、紅い月明かりを浴びる地面に象徴的な影を落としていた。夜の樹海は目にするもの全てが不気味に思えた。足元に広がる苔さえもが、俺のこれからを予言する不吉なしるしのように見えた。何羽ものフクロウが闇の中で一斉にホーホーホーと鳴いた。前を行くチルフィーの身体がびくっと動いた。しかし、蝶のような羽根は何事もなかったように、堂々と羽ばたきを続けていた。
ソフィエさんとあまり話ができなかったな……。
脈絡もなく、俺の思考にソフィエさんが入り込んできた。赤いシュシュが最初に頭の中に浮かび、それから彼女の美しい顔と赤いふんわりショートボブが浮かび上がってきた。それだけで、俺の胸は火に薪をくべたように、熱を強めていくのが感じられた。
これから先、ソフィエさんと膝を交えてゆっくり二人で話をする機会はあるのだろうか? 俺はそんなことを考えながら、手を取り合うようにして――あるいは取っ組み合いをするようにして――絡み合う太い樹々の根を大股で越えた。足を運んだ先には、Xを形成している苔の集合体があった。
静かな時間が流れていき、やがて見覚えのある風景が俺の前に広がった。スマホで時間を確認しようと思ったが、冒険手帳と一緒にアリスが持っている俺のボディバッグの中だと気がついた。俺は時間を知ることを諦めて空に目を向けた。真っ黒い空間で、3つの月がそれぞれの色で浮かんでいた。『3つの月が空を支配する時刻』ということを、空が俺に教えてくれているようだった。
考えてみれば、それだけで今の俺たちにとっては十分だった。ここから先、時間なんていう概念はなんの意味も成さないのだ。
「この中にスプナキンがいるのか……」
俺は時の迷宮の入り口を見ながら、そう呟いた。




