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215 うんうんと頷くアリス、俺はその後ろに雪を見る

 白いカーテンの先、屋根裏部屋のような場所。光を採るための窓はなく、燭台の火が慎ましく部屋を照らしている。中央に丸いテーブルと椅子があり、届かない明かりの奥にはベッドのような物が見える。その隣の小さな本棚には、大小さまざまな本が何かの決まり事に則って正しく収められている。

 風呂とトイレはないが、ここには人がひとり暮らすのに不自由しない程度には物が揃っていた。しかし、ここの住人に――死ビトに、それが必要とはどうしても思えなかった。


「お母さんを閉じ込める奴は全員死んだよ! 早くここから出ようよ!」


 死ビトに屈託のない笑顔を向けて、ガルヴィンは駆け足でその胸に飛び込んだ。俺は唖然としてその情景を眺めていた。危険だと脳が認識したとき、既に死ビトの口は大きく開かれてガルヴィンの首元に近づけられていた。


「ガルヴィン!」と俺は叫んだ。こじんまりとしたこの部屋は声が良く響いた。

 前のめりになって一歩目を運んだ俺の肩を、しかしオウティスは掴んで引っ張り戻した。ひょろ長い体形からは想像しにくいほどの握力だった。


「なんだよほそ眉毛、放せよ!」、俺はオウティスの手を振り払い、語尾を荒げた。

「まあ見てみろ後輩」とオウティスは言った。そして片手で俺の頬っぺたを押し込んで視線を誘導した。もう片方の手は軽く開かれて、前方に浮かんでいる。


 母親による優しい抱擁がそこにはあった。母親は胸の中の娘を、娘は包み込んでくれている母親を、それぞれがお互いの存在を確かめ合うように、その温もりを感じ取るように、純真な想いを交換し合っていた。

 もうひとりの娘――セリカは、その光景をただ黙って見つめていた。死ビトになった母親に対する感情はあまりにも希薄に見えた。色々と言ってやりたかったことを吐く息に変えて、空いたスペースに目の前にある現実を埋め込んでいるようだった。少なくとも、俺にはそう感じられた。


「……死霊使いの力で操ってるのか」と俺は言った。

 オウティスは一旦目を閉じて、すぐにそれを開いた。「ああ……。何度か、こうしてガルヴィンに母親の温もりを与えてやっている」


「母親の温もりって……」


 ガルヴィンの横顔から目が離せなかった。俺の視界の中央には、見たことのないガルヴィンがいた。少年のようなガルヴィンとも、少女のようなガルヴィンとも違っていた。そこには、いつまでも母親を求める、甘えん坊のガルヴィンがいた。

 表情が刻々と変化するアリスがトランプだとしたら、ガルヴィンは将棋の駒のようだなと俺は思った。

 将棋の駒は自由にフィールドを駆け回り、いつの間にか成ってその姿をがらりと変える。特性も大きく変化している。そんな特徴が、少女と少年と甘えん坊を行き来するガルヴィンとよく似ている。


「お前はオレを非難するか?」とオウティスはしばらくして言った。「最高司祭は――ガルヴィンたちの母親は、もう何年も前に亡くなったそうだ。外傷がないだろ? 病死だったみたいだ。当然、三送りは行われず、四の月へと……屍教の言葉で言うのなら、大いなる慈悲によって導かれた」


 少し間があってから、オウティスは続けて口を開いた。死ビトの母はガルヴィンの頭を優しく撫でていた。


「最高司祭は死ビトとなって地上に戻ってきた。なんらかの方法で、あるいは偶然、司教たちはその死ビトを発見し、捕獲した。そしてこの部屋に閉じ込め、それ以降は表に出られない病魔に侵された指導者として据えた。……最高司祭のカリスマ性を失うわけにはいかなかったんだな、そうなれば屍教が瓦解することを司教たちは理解していた」

「じゃあ、屍教徒は最高司祭が死ビトだって知らないまま崇めてるってことか……」

「そういうことになるな。だが、カーテン越しにでも存在を感じ取れたら、それだけで失禁するほど感動してしまう人物もいるだろ。オレにとってのエミネムみたいにな」


 俺は頷いた。エミネム?


「ガルヴィンは――」、俺は散らばっている情報の欠片を整理してから、もう一度口を開いた。「ガルヴィンは母親が死ビトだって理解してないのか? あんたが屍教に来てからあの死ビトを操ってたんだろうけど、どう見ても生きてる人間には見えないだろ?」


 視線の先で、ガルヴィンは色々な話を死ビトに聞かせていた。死ビトはその折々で頷き、ガルヴィンを椅子に座らせて、自らも自然な動きでその隣に腰を下ろした。


「ガルヴィンは母親の死ビトに自分の中の母親像を当てはめている。あいつの金色の瞳には、顔が白くて病弱な、だけど優しい母親としか映ってないんだろう。無理もないと思うぜ? 物心ついたころにいなくなって、突然帰ってきたと思ったら部屋に閉じ込められて会わせてもらえなかったんだからな」


 オウティスはセリカの顔を覗き込むようにして見た。俺も見つめた。そこには一切の感情も見て取れなかった。あえて言うのなら、その灰色の瞳には、雨に打たれる子犬に向けるような光がほんの少しだけ浮かんでいた。


「死霊使いはな、後輩」とオウティスは言った。「いや、これはオレに限った話かもしれないが、死ビトを操っていると、その死ビトの生前の想いがたまに逆流してくるように伝わってくるときがあるんだ」


「想いの逆流……?」

「そうだ、想いの逆流だ。あの人のそれはとても温かい。誰よりもな……。あの人は生前、ガルヴィンのことを深く愛していた。それだけはオレの命を賭してでも言える。……セリカ、お前のこともだ」


 二つの視線がセリカに集中した。それは言うまでもなく、俺とオウティスのものだった。

 しかし、その表情にはさきほどは確かにあったはずのほんの少しの光さえ残っていなかった。ただ物静かな影が、セリカの無表情にそっと落ちていた。


 ふぅーと小さく息を吐いてからオウティスは言った。「最初の質問に戻るぞ、お前はオレを非難するか?」

 俺は少し考えてから、「できないよ」と言った。風切音が空間の静寂を切り裂いた。


「っ……!」


 それは突然の音だった。シュルルルッと鳴り、円月輪が宙を飛んでいった。


「非難するに決まってるでしょ。なにふたりして馬鹿なことを言ってるの」とセリカは言った。


 死ビトの首を円月輪が通り抜け、それから長い時間をかけてゆっくりと首がずれ落ちていった。





 下の階におりると、アリスの俺たちを呼ぶ声が聞こえた。少し下っ足らずに全員の名を呼び、それから保護者目線をガルヴィンに向けた。


「お母さまには会えたの?」とアリスは言った。両手を頭の後ろで組みながらガルヴィンは歩き、「会えたけどもういなくなっちゃった」と返事をした。そして手の中にある物をそっと握りしめ、アリスの隣に音を立てずに座った。


「いなくなっちゃったって、どういうこと?」

「まあ、色々あってさ。それよりアリスのお母さんの話を聞かせてよ、どんな人なの?」

「アリスじゃないわ! 『お姉ちゃん』よ!」

「ああ、それまだ続いてたの……」

「一生ものよ!」


 青みを帯びた黒髪に、娘の私から見ても美しすぎる顔立ち。どこかに出かければ、通り過ぎる人は必ず振り返ってその後ろ姿を呆然と眺めていたわ。


 そう言ってから、アリスは悲しげな表情で一言添えた。「私が七歳の時に亡くなったわ」


 ガルヴィンはとくに何も言わず、体育座りをしている自分の膝を見つめた。まるで、そこに母親の姿が映しこまれているかのように。

 ことのほか、ガルヴィンは死ビトの母の首を刎ねられても、取り乱したりすることもなく冷静だった。冷静すぎるとも言えた。

 頭の中では母はもう死んでいるとわかっていたのかもしれない。それがああいう結果に終わり、うまく空想の部分を現実に書き換えたのかもしれない。

 しかし、すべては俺の想像でしかなかった。将棋の駒は、うまく自分の想いを深層の奥深くにしまい込む面も持ち合わせているようだった。


 円形舞台上の蝋燭が消えかかり、中央に置かれているマナを増幅する杖とヒュドラの紋章のナイフが逆説的に存在感を増していった。

 俺とアリスがこの大広間に踏み込んでから、一時間が経過しようとしている。

 アナとボルサの視線が俺に説明を求めていた。俺は二人の顔を交互に見て、今は話しづらいというメッセージをそれとなく送った。死ビトの母の首を落とされた『少女A』と、その実行者の『女B』。さらにその死ビトを操って少女Aを言わばもて遊んでいた、『男C』。さすがに俺も、その当事者たちを前にして詳しく語るなんてことはできない。

 俺は『女B』の顔を見た。涼しげな表情を浮かべていた。自分は間違ったことは一切していないという強い意志を灰色の瞳に宿して、静かに円月輪を布で磨いていた。その反面、『男C』は青白い顔を更に青白くしていた。血液が首の下で循環することを止めてしまったみたいな顔だった。こいつはこいつで、色々な想いを巡らせているのだろうと俺は思った。


 ふと、最高司祭の瞳の色は何色だったのかと考えた。長女は灰色で、次女は金色。しかし父親は違うので、そのどちらでもないのかもしれない。

 死ビトに成り果てていた彼女の白く濁った瞳は、その答えを永久に俺が届かない位置に移動させてしまった。セリカに訊けばわかるだろうけど、俺はそうしようともしたいとも特に思わなかった。ただふと感じただけの、右から左に流れていって構わない程度の疑問でしかなかった。


 円形舞台を囲む蝋燭の火が一斉に揺れ、それからすぐに示し合わせたようにすべての火が消えた。蝋燭は蝋燭としての一生を終えたようだった。この大広間を照らすものは聖火台のような燭台の炎と、天窓から差す僅かな夜の明るさだけになった。しかし、あとはもう副兵団長と大盾の兵士が戻るのを待ってから脱出するだけなので、特に困らない。


「あれ……」


 消えた円形の蝋燭を見るともなく見ていると、舞台上にあったはずのヒュドラのナイフがなくなっていることに気がついた。ザイル・ミリオンハート・オパルツァーが餞別で司教たちに残していった、帝国の紋章のナイフだ。杖はまだそこにあった。ナイフだけがなかった。


「っ……!」


 『ガルヴィンは冷静すぎた』、『自分の想いを深層の奥深くにしまい込む』。


 俺の身体は考えを巡らせる前に動き出していた。血液が爆発的に血管内を移動し、多くの酸素を体中に送り込んだ。


 暗闇の中で、ナイフを片手で握るガルヴィンを視野が捉えた。姿勢を前に傾けて、後ろからセリカに迫っていた。


 俺は二人の間に滑り込むようにして駆け込み、声を上げた。「ガルヴィ――」


 語尾を待たずに、ヒュドラのナイフが俺の腹に突き立てられた。噴水の水の包帯に血が滲み、間もなくその白が真っ赤に染まっていった。


「ぐっ……!」


 まだ、誰も気付いていないようだった。大広間を照らす光源が突然減ったので、それも無理はない。『少女A』と、『男D』だけが手を血液で濡らし、身動きを取らずにいた。世界が動きを止め、俺たちの姿をじっと見守った。


「お……お兄ちゃん!」、長い時間をかけて先に言葉を見つけ出したのはガルヴィンだった。「なっ……お兄ちゃんなんで!?」


 俺は言った。というか、言葉が勝手に俺の口から紡がれていった。


「や、止めろよバカ……。妹が姉をナイフで刺すなんて、この世で一番やっちゃいけないことだろ……」


 痛みが思い出したように押し寄せ、努力の甲斐むなしく、俺はそれに取り囲まれた。治りかけていた刺し傷が、『今だ今だ』とまた広がっていくのが感じられた。

 なんとかこの出来事を俺とガルヴィンの間だけで収めたかったが、それは無理みたいだった。

 ここにいる全員が俺の名を心配そうに呼んだのが聞こえた。どれが誰のものか、はっきり聞き分けることはもう俺にはできなかった。


 俺はガルヴィンの頭を撫でた。手のない、左腕の付け根で。


「ご、ごめん……! お兄ちゃんごめん!」とガルヴィンは泣きながら言った。涙の奥にある金色の瞳が、プールの底に沈む黄色いおはじきみたいに見えた。そういえば、幼稚園のころにそんな遊びをしたなと俺は思った。


「お前な……」と俺はなんとか声を上げた。「さんざん俺にえげつない魔法を撃っておいて、今さらナイフで刺したぐらいで泣きわめくなよ……」


 誰かが倒れ込む俺を支えた。それから流れるように俺の後頭部を膝に置き、膝枕の姿勢をとった。この太ももはセリカの太ももだと、それだけはわかった。 

 ガルヴィンは泣いて謝りながら、ナイフが刺さっている箇所を両手で押さえた。その行動は、ずっと手の中にあった物を床に落とすこととなった。ころころと転がり、それは俺の視界内から消えた。


 俺はガルヴィンの手を取り、言った。


「俺もお前に頭突きしたろ……? これでおあいこだ……。だけど、頼むからもう姉を刺すなんてことを考えるな……。セリカの行動は確かに突然すぎたけど……でも、きっとあれはお前ら姉妹にとってやらくちゃならないことだったんだよ……」


 俺は視界内から消えた物を思い浮かべた。それは、セリカとガルヴィンの母が残した月の欠片だった。

 だんだんと目の前が明るくなり、そこに手を繋ぐ二人の姿が雲のように浮かび上がった。繋がれた手の中には、月の欠片があった。

 なぜか、アリスがとことこと歩いてそこにやってきた。偉そうにうんうんと頷いて二人の姿を眺めていた。アリスもやはり手を繋いでいた。その相手は、顔は見えないが、きっと産まれることのなかったアリスの妹だった。二人の後ろで、温かい――たぶん温かいのだろう――雪が静かに舞っていた。


 気がつくと、俺は泣いていた。ガルヴィンの手を力いっぱい握りしめていた。


「ガルヴィン……それと、セリカ……。お願いだから、アリスに姉妹の争いなんか見せないでくれよ……。あいつをこれ以上傷付けないでくれ……」


 突然、脈略もなく大広間の扉が開いた。その隠密性を感じ取ったのは俺だけのようだった。


「そろそろしつこい客がここにやって来る、何がなんでもおれの首を獲りたいらしい」とザイル・ミリオンハート・オパルツァーは言った。


 黒い影が音もなく扉を抜け、影から黒鎧のデュラハンが姿を現した。黒翼が広がり、まるで悪魔の翼のような形状になって、その先端が俺たちを差した。


 しかし、それでもまだ温かい雪は降り続いていた。


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