214 アリスを思い描き、俺は覚醒する
話し声が聞こえた。
俺の意識は夢と現実の狭間にあるようだった。
声は現実の世界から響き、静かに狭間の世界で浮かんでいる俺の耳に届いた。
妹、ね……。まあ同じ女から産まれたのなら、生物学的にはそうなるのでしょうね。それで、父親は誰?
セリカの声のようだった。それにガルヴィンの声が続いた。
ボクはお父さんに会ったこともないよ。どうでもいいし。
二人とも、俺が思っていたよりは姉妹という事実を受け入れているようだった。もしくは、別にだからといって自分には何も影響はないと思っているのだろうか? いずれにせよ、最高司祭の娘たちはお互いを前にして、感情が激しく揺れ動くといったことはないように感じられた。
握手をするのよ! とアリスは突然言った。少し離れた場所からその声は聞こえた。両手を腰にあてて、二人の後見人のような顔をしている。狭間の世界に意識があっても、俺はアリスの表情が目の前にあるようにわかる。ありありとそれを頭の中に思い描くことができる。
手を取り合って、これから仲良く姉妹として生きていくのよ! ガルヴィン、あなたは私とセリカのことを『お姉ちゃん』と呼びなさい!
い、嫌だよ……。と言うか、なんでアリスがお姉ちゃんなんだよ。だから、アリスはボクより年下だろ?
アリスじゃないわ、『お姉ちゃん』よ!
はしゃいでいるな、と俺は思った。アリスは姉妹の理想像をはっきりと形として捉えているようだった。それは、やはり産まれることのなかった妹と自分が形作りたかった形像なのだろう。
混沌とした意識が現実に傾いていった。俺は気を失うまでに何が起こったのかを順番に思い出していく。ユイリの裸。おパンツ様。少女とお風呂。おパンツ様。猫耳娘。ソフィエさんの白装束姿。アリスのおでこ――。
「っ……!」
可愛らしく湾曲するアリスのおでこ。そこを走るナイフによる一閃。
稲妻のようになってもう一度、それは俺の目の前を横切っていった。そして血が噴出し、アリスはそれを黙って滴らせた。
「アリス……!」と俺は喉の奥から吐き出すように叫び、体を起こす。その咄嗟の行動は、膝枕をしてくれていたガルヴィンに思いきり頭突きをかますこととなった。
「いっ……痛い! 痛いよお兄ちゃん、なんなの!?」
「ガルっ……わ、悪い!」
俺はそのままの姿勢でアリスに目を向ける。そのおでこには、ショッピングモールから持ってきたピンク色のタオルが巻かれている。
「アリス!」、ソフィエさんを膝枕しているアリスに近づき、右手でアリスの頬に触れる。子供特有の温かさが俺の手から胸の奥にまで伝わり、俺の目は自然と涙をためていく。
「あら、あなた起きたの?」とアリスは言う。「あなたの治療大変だったのよ、みんな包帯を巻くのに協力してくれたのだから、ちゃんとお礼を言っておきなさい?」
「あ、ああ……」。俺はピンク色のタオルを食い入るように見る。「じゃなくて、お前のおでこはどうしたんだ!? 噴水の水の包帯巻いてあるのか!?」
「だから言ったじゃない、あなたの治療が大変だったって! それで包帯は使い切ってしまったわ、私なら大丈夫よ、帰ったらすぐに噴水の水を飲むわ!」
アリスの顔を見つめながら、俺はそこに未来アリスの顔を重ねる。
未来アリスのおでこにあった、あの一文字の傷跡。あれはこともあろうか、俺が握る凶刃によるものだったのだ。そのことに気が付き、自分のふがいなさに腹が立って、思いきりこぶしを握って大広間の床に叩きつける。叩きつける? あれ、手がない。
「うわあああああああああああああ!!」
思い出した。俺は夢の世界に置いてきてしまった記憶を引っ張り出す。そうだ、俺の左手はクリスに食い千切られたのだ。
俺は包帯がぐるぐる巻きにされた左腕を眺める。なぜか、フック船長が船の上でピーターパンにボコボコにされている映像が脳裏に浮かぶ。
――うぬの左手、まことに美味じゃ。
「うわああああああああああああ!!」と叫び、俺は包帯を巻かれてアナの膝の上で丸まっているクリスに視線を飛ばす。「食うなバカ!」
――冗談じゃ愚か者。
そう語りながらもクリスは俺の左手を咥えて、だらだらとよだれを垂らしている。左手はそれを存分に浴びて艶やかに輝く。それは俺に、高級マッサージ店でオイルマッサージをされたばかりのマダムの手を思わせる。
俺はそんなマダムの姿(よく見ればフック船長のような顔をしている)を脳裏から蹴り出して、左手にそっと別れを告げる。世の中には仕方のないことだってある。俺の左手、グッバイ。俺の左手、アディオス。
「…………嫌だ!」と俺は叫ぶ。「降りて来い、神! いますぐ俺の左手を治せ!」
天窓から覗かせる星のない空を見上げて、俺は神頼みを行う。クリスが再び語り出す。
――なにを馬鹿なことを言っているのじゃ愚か者。……じゃが、あるいはフェンリルである祖母ならうぬのこの手を元に戻すこともできたのかもしれぬ。……残念じゃったな、わらわがフェンリルではなくて。
少なからず、クリスは俺の体の損傷に責任を感じているようだった。俺の左手を犬用のおしゃぶり骨のように扱っている姿からは想像できないが、俺の頭に直接響く大人びた声は、そんな感情が深い場所に押しとどめられずに表面にそっと顔を覗かせてしまっていた。頭隠して尻隠さず、といった風に。あるいは、絵筆で色を走らせた後に画用紙に付いてしまった、細い一本の筆の毛のように。
「……さっきも言ったろ? お前は最高の相棒だよ。お前のおかげで、俺はアリスの胸を刺さないで済んだんだ……ありがとうな」
諦めよう。人は日に米は三合、畳は一畳、手は片腕あれば十分。と前田慶次は言った。それならば、俺だってこれからどうにでもなるだろう。なんせ傾奇者が言うのだ、それは正しいに決まっている。
俺はクリスに語りを送る。
それより、お前の体は大丈夫なのか? 腹をかっさかれて血がドバドバ出てたけど。
――前髪ぱっつん娘の処置が手早く見事であった。しいて言えば、まあうぬと同程度の状態と言ったところじゃな。
なるほど、じゃあ絶好調ってことだな。と語ってから、俺はアリスのピンク色のタオルを静かにほどき、その下にある一文字の裂傷に治癒気功を施した。
アリスはなんだか暖かいわ、と言ってその光を大人しく受け入れた。傷が塞がり、閉ざされた水門のようにそこで滲んでいた血をせき止め、俺はピンク色のタオルを慎重にアリスのおでこに巻きなおした。頭を撫でなさい! と言ったので、いつもより長めに撫でておいた。
それからクリスの頭を同じように撫でて、そのクリスを膝に乗せているアナの顔を見た。アナは手短に、俺が気を失っている間に起ったことを話した。その途中でボルサも俺の隣に立ち、アナの説明に注釈を添えるように、間あいだで言葉を付け加えていった。
屍教の四司教の一人であるミドルノーム兵団長と、刻印術師は、オウティスに銃で撃たれて死んだ。遺体は扉の外で大きな布を掛けて置かれている。
即死だったらしい。眉間と心臓、その両方を的確に二発で射止めたオウティスの銃の腕に、ボルサは疑問を持ったようだった。
彼は本当は何者なんでしょう? とボルサは言った。俺はラップミュージシャンらしいと答えておいた。もしかしたら、それはオウティスが俺を欺くためについた嘘だったのかもしれない。
しかし、それが嘘だったとしても、あいつが本当は何者か、俺にはあまり興味がなかった。ただ眉毛の細い死霊使いとしか認識していなかったし、ただ眉毛の細い死霊使いでしかなかった。むしろ、あいつはこれからこの異世界でひとかどの人物になるだろう。そんな漠然とした予感のようなものを、俺は感じずにはいられなかった。なんでかはうまく説明できないが。
オウティスは俺たちと少し離れた場所から白いカーテンを眺めていた。その先にいる最高司祭に思いを馳せているように見えた。
「副兵団長と大盾の兵士さんはこの大広間の外を見回っています」とボルサは言った。屍教の生き残りのほとんどは既に逃げ出しているみたいだが、まだ潜んでいる者がいるかもしれない。これからソフィエさんを連れ出すのに、それらは致命的な弊害になりかねない。
「戻ったら、みんなでここから脱出しましょう」
俺は異論を差し込まずに頷き、再びオウティスに目を向けた。すると彼は立ち上がり、ガルヴィンとセリカの元まで歩いて、何か思いを秘めたような顔つきで二人に声をかけた。二人もすっと立ち、白いカーテンをともに見た。
「よう後輩、お前も一緒に来い」とオウティスは言った。「そろそろ最高司祭に……ガルヴィンとセリカの母親に謁見するぞ」
「ああ、そういうことか……。って、まだ出てこないのか? 俺が気絶してる間にこっちから行かなかったのか?」
「お前がガルヴィンの膝を枕に選んだからだろ。それで起きるのを待っていたんだ、それまで二人には我慢をしてもらっていた」
ふと、ガルヴィンと目が合った。「お兄ちゃん、ボクのこと好きなの?」とガルヴィンは言った。
こいつの膝枕を、無意識とはいえ選んだ自分が理解できなかった。まあ手頃な位置にあったのかもしれない。あるいは、狭間の世界から見たガルヴィンは美しく成長した十代後半から二十代前半の女性だったのかもしれない。俺はガルヴィンの少年のような体を見ながら目を細め、何も言わずに小さな階段まで歩を進めた。「なにその目! すっごい腹立つんだけど!」とガルヴィンは後ろから声を上げたが無視をした。
アリスも来たがっていたが、ソフィエさんに膝枕をしているので眉をハの字に曲げながら諦め、アナとボルサは念の為にそんなアリスの元に残った。結局、階段を上ってバルコニーのような二階に出たのは俺とセリカとガルヴィンとオウティスだけだった。
白いカーテンの前に並んで立つと、ずっと口をつぐんでいたセリカがカーテンの裾をがさつに掴んだ。
俺は一応、シャツの襟を正して背筋をぴんと伸ばした。死の淵にいたといっても過言ではない娘二人を放っておいた母親とはいえ、屍教という巨大な団体のトップにいる人物に、乱れた格好で面会する気にはなれなかった。敬礼するかどうかも迷ったが、それはやめておいた。
横に目をやると、オウティスがじっと目を伏せているのが見えた。口を真っ直ぐに結んでいた。少し震えているようにも見受けられた。セリカは無言で、カーテンを乱暴に開けた。
「っ……!」
そこには、鎖で片足を繋がれた死ビトがいた。純白の立派な衣装を着ていて――あるいは着せられていて――白く濁る虚ろな目で、いつまでも足を前に運ぼうとしていた。しかしそれは足踏みでしかなかった。そのたびに壁に打ち付けられた鎖が、ガチャッガチャッと無機質な音を立てた。何も生み出さない、非生産的で不気味な音だった。
死ビトは俺たちに気が付き、きれいな歯並びの健康的な歯でカチカチと音を鳴らした。それから大きく口を開いて、低い声で呻いた。
「うん、会いに来たよお母さん! 無事だったんだね、良かった!」とガルヴィンは言った。
俺はセリカと目を見合わせ、オウティスは視線を下げたまま黙って床を見つめた。




