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213 アリスの太陽のような笑顔、俺はそれを失うわけにはいかない

 単純なラインに沿って、ナイフが俺の胸を目掛けて突き放たれた。俺は青い軌道に従って、手刀でナイフの腹を叩いて刃先を逸らした。そして同時に刻印術師の腕を左手で掴んだ。


「とんでもない芸当ですね……。放しなさい」と刻印術師は古い井戸の底から聞こえてくるような声で言った。俺は手を放した。

 もう一度、刻印術師はナイフを持つ手を勢い良く伸ばした。俺はさきほどと同じように腕を掴んで、刻印術師のフードの奥を覗き込んだ。血走った殺意の赤い眼と、一瞬が視線が交錯した。


「さて、何度めで刺せるかな……?」と俺は言った。それは一種の挑発行動のようなものだった。下半身が触手により固く動きを封じられたとはいえ、上半身は自由に動く。予兆が視える限り、躱し続けるのはそう難しいことではなかった。

 

 『そろそろしつこい客がここにやって来る、何がなんでもおれの首を獲りたいらしい』とザイル・ミリオンハート・オパルツァーは立ち去る前に言った。つまり何者かがもう少しでここに来るということだ。そしてそれは、少なくとも屍教の味方ではない。そいつがこの状況を打破するきっかけになるかもしれない。

 できるだけ時間を稼ごうと俺は考えた。ナイフが樽に刺さらない限り、白ひげ危機一髪は永遠に終わらないのだ。


「ふふ……。では趣を変えましょう」、刻印術師の眼が赤い光を失った。そして俺の左手を操り、ヒュドラの紋章のナイフを逆手に握らせた。


「なにをさせる気!?」と隣のアリスが言った。アナやボルサもこれから俺に降りかかる災いを予言するように、俺の身を案じるトーンで俺の名を叫んだ。


 切っ先が俺の左脚の太ももに突き立てられた。一瞬にして痛覚は俺の脳を支配し、俺はこれまでに出したことのない声で絶叫を上げた。


「やめなさい!」とアリスは声を張り上げた。涙が滝のように流れ落ちていた。俺は歯を食いしばり、俺の左手を右手で掴んだ。左手は強い力で右手を制し、ピッケルを岩から抜くように、力任せで刺さったナイフを引っ張り上げた。


「ぐっ……!」


 叫んで痛みを和らげたかったが、我慢をした。「さて……何度めで俺を殺せるかな……?」と絞り出すように俺は言った。血の味がした。食いしばった歯はいつしか唇を噛み、控えめな血筋が口元で流れるのが感じられた。

 ヒュドラの紋章のナイフは次に俺の腹部を突き刺した。アリスが叫ぶのが聞こえ、その上から刻印術師の狂った笑い声が覆いかぶさった。愉しくて仕方がないといった感じだった。目の前がかすみ、俺の左手は同じ個所をまったく同じ手順で事務的に刺し続けた。一思いに心臓を刺すのではなく、じわじわと嬲り殺すように。

 そして、何度めかでそれがぴたりと止まった。足元には俺の血が垂れ落ちて形成した血だまりがあった。なんだか琵琶湖のような形になっていた。そういえばアリスは滋賀県出身だったんだなと、俺は顔をなんとか上げてアリスの顔を見ながら思った。

 目の前の泣き叫ぶ少女のことを、俺はあまり知らない。客観的に見てとても可愛く、両親と産まれるはずだった妹が亡くなり、いまは祖父と暮らす小学五年生の園城寺アリス。アリスはカタカナでそのまま『アリス』と書く。不思議の国のアリスと同じだ。

 俺のこともアリスはあまり知らなかった。話そうとしていたことは話さないままでいた。話せないままでいた。

「二人でキチンと話しておけい」と領主は言った。今更ながら、俺はそのとおりだと思った。前にも同じことを思った気がするが、今度こそ本当に領主の言うとおりだと強く感じた。

 ヒュドラの紋章のナイフが思い出したように、俺の右腕を刺した。ヴァングレイト鋼のナイフの刺され心地は、まるで形のない空気の刃が突き刺さったようだった。

 ふと、倒れ込まないでいるのを不思議に思った。触手が絡まる俺の下半身は、それすら強く禁じているようだった。


「いつまでも俺の左手を操作してていいのか……? この隙にソフィエさんが逃げ出してくれれば、俺たちの勝ちだぞ……?」と俺は朦朧とする意識のなか、刻印術師を見ながら言った。言った? 言えたのだろうか? たぶん、細切れのようではあるが、言ったのだろう。


「ご心配には及びません……。送り人はご覧のとおり、気絶したままです。……あるいは、立ったまま浅い眠りしかできなかった彼女は、いまこうしてスヤスヤと眠っているのを喜んでいるのではないでしょうか……?」


 そんなわけはない。と俺は言った。あるいは思った。ソフィエさんはちゃんとふかふかな布団で、アリスのプレゼントしたふわふわな枕で眠らなくてはならない。こんな気味の悪い大広間の硬い床で、スヤスヤ眠れるわけがない。あれは屍教がもたらした、文字通り気絶だ。


「もうやめてちょうだい!」とアリスが突然言った。いや、おそらく似たようなことをずっと言っていたのだろう。アリスは限界まで手を伸ばして、指先で俺に触れようとしていた。しかし届かずにいた。心配するなと、俺もアリスの顔に触れたかった。


「っ……!」


 ナイフが弧を描いた。それからすぐに血しぶきが舞った。何が起こったのか、俺には理解ができなかった。しかし、理解できた時には遅かった。俺の左手が握るナイフが、アリスのおでこを切り付けていた。


「アリス……!」


 アリスはナイフの先が通り過ぎていった方向に顔を振って、そのままじっと動きを止めていた。一文字の生々しい傷が、おでこから血を滴らせた。アリスは叫びもしなかったし、うなだれることもしなかった。ただ自分を律するように、凛としてその姿勢を崩さずにいた。血まみれの俺に対して、自分はおでこを切られただけ、挫けるわけにはいかない。とアリスは思っているように感じられた。


「アリスっ……!」と俺はもう一度叫んだ。刻印術師がよだれを垂らしながら笑い、俺の左手が次の行動に向けて予備動作を行った。


「やめろっ……!」


 大きく振りかぶった。そして、アリスの胸を目掛けて凶刃が伸びた。アリスの顔が動き、ゆっくりと俺の顔を見て、そして大好きな太陽のような笑顔を浮かべた。この状況でなんでこんな顔ができるのか、俺にはわからなかった。だけど、何よりも失うわけにはいかない笑顔だということはずっと前から――最初にこの笑顔を見た時から――わかっていた。


「クリス……!」と俺は声を振り絞って叫んだ。咄嗟に、俺は俺の相棒を信じて頼った。それしかなかったし、それしか思い浮かばなかった。白に赤が混じった塊が宙を走り、俺の左手を通り過ぎていった。


――腹を切られて横たわるわらわを頼るとは、どうしようもない相棒じゃな、うぬは。


 着地した血だらけのクリスの口には、俺の左手が咥えられていた。俺の左手は握るヒュドラの紋章のナイフをそっと落とした。乾いた音が大広間に響き、クリスは横倒れになりながら語った。


――だから言ったじゃろう。手足を食い千切ることぐらいわけはないと。


 あ、ああ……。さ……最高の相棒だよ……お前は……。


 俺は左手を失った左腕を見るともなく見ながら語りを返した。痛みは既にあまりなかったが、それ以上は恐ろしくて見ていることができなかった。しかし、アリスを刺すよりは比べるまでもなくマシだった。俺はできるだけの笑顔を作り、アリスにそれを向けた。――瞬間、銃声が聞こえた。それは二回続いて鳴り、そのあとにどさっという人が崩れ落ちる音が聞こえた。

 俺は銃声が鳴り響いた方向に視線を飛ばした。大広間の入り口付近で、銃を構えたオウティスがにやっと微笑みを浮かべた。


「舞台の第一幕に銃が登場したら、第二幕でそれは発砲されなければならない……。知ってるか後輩、劇作家チェーホフの言葉だ」


 二発の銃弾は刻印術師の額を、そして四司教の一人の胸を貫通したようだった。二人は思いおもいの方向へ倒れ込み、そして見る限りは動きを停止していた。死んでいるようだった。


 チェーホフ、そうだチェーホフだ。と俺は思った。肉体から魂が無理やり剥がされるように、目の前が段階を無視して突然真っ暗になり、そして俺は意識を失った。


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