212 触手がアリスの足を這い、俺は幻獣の名を叫ぶ
液状の何かは(スライムにも見える)枝分かれするように触手を伸ばし、アリスの足をゆっくりと昇った。足を掴んで動けなくするだけでは物足りていないようだった。
触手はアリスの黒いタイツにナメクジが這った跡のような染みを残し、上を目指していった。そして当然のようにスカートの中にまで侵入した。
「ぎゃああああああ!」と少女らしからぬ悲鳴をアリスは上げる。触手はアリスの黒いスカートの中をメリーゴーランドのように回り、足と足の間から姿を覗かせて、今度はスカートの外からアリスの下半身を締め付けていく。それが何度か繰り返される。俺はその様子をすぐ隣から眺めている。俺には見守ることしかできない。人が木星の大斑点を覗き見ることしかできないのと同じように。
触手はアリスの下半身を完全に掌握し、そこで腰に巻き付いてから動きを停止する。停止する? おい触手、それでいいのか。と俺は心の中で言う。
アリスは触手に向かって氷の矢を放とうとするが、ふふっそれは無駄であろう。ロシアの劇作家チェー……なんとかは言った『物語に銃が登場したら、それは弾を撃ち出さなければならない』みたいなことを。触手が登場したら、それは少女をもっともっと辱めなければならないのだ。のである。
アリスの精霊術は具現化されない。大精霊士の言わば屍教に対するアフターケアは、俺たちの動きを阻害するだけとは思えない。あの輝く白い髪の男の精霊魔法なら――帝国の第一継承者であるザイル・ミリオンハート・オパルツァーなら――魔法的なものを一時的に無効化することぐらい難しくないだろう。
「ちょっとあなた! なにいやらしい目で見ているのよ、早くなんとかしなさいよ!」とアリスは言った。俺ははっとし、アリスの黒いスカートに入り込む触手から目を離して状況を確認する。触手は俺の下半身にも巻き付いている。それどころか、気絶しているソフィエさんと、その上で丸まっているクリス以外の味方全員の動きを固くロックしている。
「ザイル殿下……勝手な奴ではあったが、最低限の役目を果たしてから去ったようだ」と四司教の一人は言った。それから間を置かずに、円月輪が宙を飛んだ。シュルルルッとそれは鳴り、剣の刃にあたって今度は小気味良い金属音を響かせた。
「ちっ……!」、セリカは大きな舌打ちをした。四司教の一人は円月輪を弾いた剣の剣先を下げ、中立性を帯びた目をセリカに向けた。
「セリカよ、お前は屍教を抜けてからファングネイ王国の兵団で過ごした日々に満足していたか?」
「ええ、わたしは兵団で満足していた。ミドルノーム兵団長、あなたこそ屍教に入信してかの数年間、かなり充実していたようね。普通、そんなに早く司教に任命なんてされないわ」
「屍教は変わったのだよ、お前が去ってからの十数年でな」
「そうみたいね。正確には十三年だけど、それはわたしの知る屍教ではなくなるのに十分な時間だったのでしょうね」
十三年……。と、俺は頭の中で復唱した。前に、こいつは十年だと言っていた。がさつか、最初から正確に言え。十三年、それならば妹の存在を知らなくても当たり前だ。
俺は十二歳の少女であるガルヴィの横顔を見る。赤い前髪で表情は隠れているが、少なくとも突然存在を知った姉であるセリカを見ても、感動のようなものは生じていないように見受けられる。
四司教の一人は言う。「部屋の中で大人しくしていれば、七福の理後の世界を生きれたのだぞ」
セリカはバルコニーのような場所の先にある白いカーテンを見てから、視線を元に戻す。「終わらない円卓の夜を生きるなんて嫌。『四併せこそが人の幸せ』、屍教の概念は今もわたしの脳の奥から離れない。だけど、それはあくまで自然な一生を終えてからの四併せであるべき。円卓の夜を激化させて人々の死を引き起こし、無理やり死ビトの世界に変えるなんて、屍教の教えから逸脱しすぎてる」
四司教の一人は言う。「屍教は変わったのだよ」
セリカはため息をついてから言う。「それはもう聞いた」、表情はほとんど崩れていない。灰色の瞳が、その無表情をより鮮明なものにする。
「では、もう交わす会話はないな」
「ええ、あなたとは」
白いカーテンに視線が移動する。その奥にある母親の気配に、セリカは一方的に言葉を投げかける。
「出て来なさい最高司祭。あんたの屍教が取り返しのつかない過ちを犯そうとしてるのよ、黙ってそこで静観してるつもり?」
一瞬、苦痛に顔が歪む。液状の触手がセリカの太ももをきつく締め上げる。それからすぐに、灰色の瞳に少しだけ煌めいたものが宿る。痛みによるものか、あるいはそうではないのか、俺にはうまく見分けることができない。
「父さんは死んだ、あんたはそれを知ってるの!? 父さんの最期の言葉はあんたに逢いたいだった、あんたの名前だった、父さんは死ぬまであんたを愛していた! あんたはどうなの、父さんの顔も思い出せないんじゃない!?」
木枯らしが山のなかを吹き抜けるように、セリカの言葉が白いカーテンまで届いて裾を密やかに揺らす。
しかし返されるものは何もない。十三年前に夫に連れられて屍教から――自分から――離れた娘に対して、かける言葉の一つもない。あやふやな気配はたしかにそこにある。だが、顔を覗かせることすらセリカとガルヴィンの母親はしようとしない。
俺はそのことについて考える。クリスもピンと耳を立ててそれをカーテンに向けている。もしかしたら、刻印術師に何かされたのではないか? という仮に仮を重ねた答えが浮かび、それと同時に四司教の一人が静かに口を開く。
「すまんなセリカ。ザイル殿下の精霊魔法の効果が切れる前に事を進めなければならない」、その表情は、あの日ゴブリン討伐の地で見た優しさが落とし込められていた。四司教の一人は続けて言った。「お前はファングネイ王国の兵士だが、わたしは同盟国のミドルノーム兵団長としてお前を目に掛けていたつもりだ。元屍教と知る前からな。……最後に訊く、屍教に戻るつもりはないか?」
「ない」とセリカは言った。「なにいい人ぶってるの? 事を進める? はっきりと殺すって言えばいいじゃない。これから殺そうとするわたしたちに、閻魔大王に言付けでも頼むつもり? 『たしかに殺されはしましたが、彼はそうしたくてしたのではありません。最後までわたしに慈悲を与えてくださいました。だから彼が死んでここに来たら、どうか天国に導いてあげてください』って言ってほしいわけ?」
目がさっきまでのものに戻り、残酷で狂った光がその奥に帯びる。「便利な目だね」とセリカは言う。
「ならば地獄で後悔するがいい」と四司教の一人は言う。そして抜かれたヒュドラの紋章のナイフを刻印術師にそっと渡す。「そろそろ精霊魔法が切れるだろう。手早くやれ、順番は任せる」
「順番ですか……。ではセリカ嬢とガルヴィンちゃんは最後にしてあげましょう……。二人には姉妹の、そして親子の感動の再開が待っていますからね……」
セリカは言う。「姉妹? なんのこと?」、刻印術師は聞こえないふりをして歩を運ぶ。
全員が息を呑み、なんとか動こうと試みる。しかし触手は足を少しずらすことさえ許さない。刻印術師は俺の前に立ち、漆黒のローブの奥にある顔をいびつに歪ませる。見えなくてもそれがわかる。
瞬間、白い塊が宙を駆ける。唯一この場でこの状況を打破できる可能性があるクリスが、全身全霊で体当たりを仕掛ける。
しかし、刻印術師は意外にも俊敏な動きをみせる。ローブを翻し、クリスの一身を受け止め、手に持つナイフでまだ空中にあるクリスの体を切り付ける。
「クリス!」と俺は叫ぶ。地に落ち、クリスは静かに吠えてからその場で横に倒れ込む。切られた腹部からドクドクと血が流れ、大きな愛くるしい目がそっと閉じられる。
「出でよ狐火!」
俺は真っ直ぐに腕を伸ばし、刻印術師を芯から焼き尽くそうと幻獣の名を呼ぶ。だが、やはり顕現は成らない。刻印術師はひやっとした表情――見えなくてもわかる――を浮かべ、ナイフを強く握りなおしてからフードの先に赤い殺意の光を灯す。




