210 アリスのアイス・キューブ
静寂が渦巻き、大広間を内から包み込んでいった。
その中心には眼光の鋭い男がいた。前髪をオールバックにして乱雑に後ろに流し、しかし反面、後ろ髪は丁寧に織られた絹のように真っ直ぐ腰まで伸びていた。
そして、それは輝くように白かった。空間の薄暗さを吸い込んでしまいかねないほどの発色だった。光と言っても過言ではないかもしれない。
「悪いなガルヴィン」と男は言った。「お前ほどの才能を失うのは師匠として惜しいが、殺さなくてはならない」
言葉はそれが望まない殺害であることを明示していた。しかし、その仕草はなんの躊躇もないであろうことを暗示している。
男の手がダンスを申し出るときのように、そっと前に差し出された。耳の奥に違和感が生じ、急に軽い頭痛を俺の知覚が感じ取った。
男の手のひらには、何か得体の知れない空気の球のような物が生み出され、浮かんでいた。それはすぐに毬玉ぐらいの大きさに変化し、俺の耳と頭に強烈な痛みを植え付けた。台風の真っただ中から、一気に宇宙空間に放り出されたような感覚だった。激しい気圧の変化がもたらす痛みのようだった。
「なによこれ!」、アリスは両手で耳を塞ぎながらガルヴィンの前にすっと立った。いつの間にかカーバンクルを召喚して、防御モードに切り替わっていた。妹分のガルヴィンは私が守ると、小さい背中でそう語っている。
俺はアリスの薄いピンク色のコートを軽く引っ張り、その前に躍り出た。耳を塞ぎたかったが、我慢をして左手を添えた右腕を突き出した。
玄武の使役をすぐにでも行えるように備える。
しかし、男の目つきが変わり、何も言わずに手が下ろされた。空気の塊のようなものは消え去り、俺の耳と頭に平穏が戻った。
「ほう、召喚士か」と男は言った。視線は俺の後ろのアリスを差していた。
俺は立ちはだかり、その目からアリスを隠し遮る壁となった。
だが、「大魔導士精霊術師大召喚士罠師よ!」。アリスは壁からひょこっと顔を出して、男に勝気な眼差しを向けた。
「透きとおるような純粋なマナだ、召喚獣が本来の姿なのはそのためか。……出身を聞こう、亡国グスターヴか?」
「滋賀県よ!」
眉間にシワが寄り、男は顔をしかめた。記憶を手繰ってその地名がどこかとあたりをつけているようだった。だが、途中で諦めた。表情がそう語っている。それはそうだ、この異世界にシガケンなんて場所があるとは思えない。
「まあいい」と男は言った。そして再び手のひらに空気を集め、練り始めた。同時に後方から、覚悟と畏れをかき混ぜたような声が響いた。ガルヴィンの両腕の辺りから手の先まで炎が覆いつくしていた。
「炎!」
轟々と燃える炎が撃ち放たれ、瞬く間に大きな鳥に姿を変えた。そして天空から急降下して得物を捕獲するように、男を呑み込んだ。
今度は遠慮なく両手を駆使し、俺は男がいた場所で巻き上がる業火から身を守った。離れていても体が焼けそうなくらいの熱を感じた。
精霊魔法――それはやはり精霊術とは桁違いの威力のようだった。これではボブゴブリンのように、男は消し炭に成り果てるしかないだろう。
「ガルヴィン……お前はおれの師事を受けておきながら、何も学んでいなかったようだな」
しかし、炎は風に吹き飛ばされるように散っていった。その中央で、男は肉体を維持していた。それどころか何もかもが炎に呑み込まれる前と変わらなかった。しいて言えば、表情に失望のかげりが落ちている。
男は瞬きを三回した。その最後、三回めに目が開かれた時、大盾の兵士とアナが斬り込んでいった。一つ、二つ、剣戟が男の輪郭を捉えた。しかし目に見えない壁に打ち弾かれるように、二人のそれは男に到達することはなかった。
氷の矢が宙を走った。アリスは二人に合わせてアイス・アローを放っていた。男は涼しげな顔でその先端を見つめ、指先で受け止めた。
「話を続けるぞ」と男は言った。爆発するように男から風が吹き荒れた。大盾の兵士とアナは全身にそれを浴びて壁際まで吹き飛ばされ、膝をついた。アナは腹部を押さえ、そこから滴り落ちる血に悔しそうな目を向けた。
「ガルヴィン……精霊士のお前が、大精霊士のおれに精霊魔法を撃って成立するわけがないだろう――」、俺は言葉の結尾を待たずに、男の背後から駆け寄って腕を構えた。ボルサも続いていた。
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
だが、二撃の斬風はアナたちの剣戟と同じように男を覆う壁のようなものに弾かれ、ボルサの十字槍の穂先もやはり男を穿つことはできなかった。
壁というよりは、風の薄い膜のように俺は感じた。風の精霊シルフィーの力によるものなのだろうか? そこにはまるで、チルフィーが近くにいる時のような温かみが漂っていた。
俺はチルフィーの今を想った。スプナキンとこの砦のどこかで話をしているのだろうか。チルフィーは今、笑っているのだろうか。泣いているのだろうか。
「出でよ鬼熊!」、俺はめげずに男に向かって鬼熊を使役した。男の唇の端がいびつに曲がり、次の瞬間には荒れ狂うような風が、俺とボルサを男から無理やり引き離した。
俺は壁に思いきり身体を叩きつけられ、その場で倒れ込んだ。男は言った。
「精霊から力を授かり、使用する。精霊士、大精霊士、精霊王――その格は絶対的なものだ。お前はおれの前では精霊から十分な力を賜ることはできない。ブラッド・バンクが血を担保に金を貸すのと同じことだ。より濃く、鮮やかな血液に多くを貸し付けるだろう」
ガルヴィンは言葉を失ったカエルのように、男の話を身動きせずに聞いていた。男から吹いた風がガルヴィンの真っ赤な髪を乱し、長い前髪が表情を隠した。
全員、押し黙って呼吸を整えていた。次の一撃を繰り出す手順を頭の中で打ち立てていた。
先手を切ったのはアリスだった。男の上空に氷の塊が現れ、男の視線が上を向いた。それがスタートの合図になった。
「出でよ雷獣!」
ビリビリビリッ!
俺は雷獣を使役したと同時に駆け出し、次の使役のタイミングを窺いながら腕を構えた。ボルサも全身全霊で十字槍を構え、走り出していた。
「落ちなさい!」、アリスはトラック車ほどになった氷の塊を落とし、それに付随するように雷獣が紫電の爪となって男に襲い掛かった。
雷獣が体に還ったのを感じ取る。俺は次の使役を行う。「出でよMAX鎌鼬!」、そしてボルサは男の側面から穂先を打ち出す。
奇しくもそれは、上からと両側面からの同時攻撃となった。男はその全てに目をやり、しつこいなというような表情でしつこいなとそのまま言った。
「くそっ……!」
俺たちの全ては風の膜に遮られ、男に接触さえできなかった。氷の塊が砕け散り、氷片となって降り注いだ。それさえも男にはあたらず、男は白く輝く後ろ髪を両手で払ってから、その延長であるかのようにガルヴィンに手のひらを向けた。
「死の餞別だ。お前が最初にマスターした精霊術であの世に送ってやろう」
火の球が男の手の先に浮かんだ。クリスが俺の頭に語りを送り届けた。
――おい、うぬ。太もも娘が扉を打ち破ったようじゃ。
破壊的な音が後方から聞こえた。円月輪が俺の視界内に入るのにそう時間はかからなかった。
「ちっ……!」と男は口から漏らした。円月輪の円周の十分の一ていどが男の肩の内側を通過し、鋭利な切り込みを入れた。
「攻撃する相手、あってる?」とセリカは言った。「あってる」と、俺は無意識に口走った。




