200 キョウココデ
茂みに隠れて砦の様子を窺っていると、正面の扉から八名ほどが慌てた様子で出てくるのが見えた。
黒いローブ姿の者もいれば、薔薇の刺繍入りのマントを肩から下げている者もいた。その全員が殺気立っているのが離れていてもわかった。二手に分かれ、暁の長城を東と西に歩いていった。
「我々を探しているのだろうな」とアナは言った。いつでもオウス・キーパーを抜けるように、剣柄には手が添えられていた。
「ああ……。でも気配で俺の位置がわかるはずなのに、しらみつぶしに探す気か……?」
俺は無意識に左手首を掴んでいた。いつ俺の意志に反して動き出しても不思議ではなかった。屍教の刻印術師は近くにいる――手首は規則正しく打つ脈拍を通して俺にそう伝えているようだった。
「アナ、一つ頼みがある」と俺は言った。「もし俺の左腕が仲間を傷つけようとしたら、そのオウス・キーパーでスパッと斬り落としてくれないか……?」
アナは俺の顔を見てから俺の左手に視線を移した。「先ほどの刻印術師の話か」とアナは言った。
俺は頷き、しばらくしてからアナも頷いた。秋の終わりの冷たい風が吹いて、冬の空気が俺たちを真上から一方的に覆っていった。
「隻腕は苦労する。しかし、もしそうなったらわたしが一生面倒を見るから安心しておけ」とアナは言った。それから少しの間をおいて、耳と顔が真っ赤に染まっていった。
「そ、そういう意味ではないからな」
「わかってるから照れるな! お前が照れると俺まで照れるんだって! ……でもまあ、そんなことにならないよう俺も気を付けるわ。だから、出来るだけお前とアリスとは離れて行動しようと思う」
刻印術師は七福の理はもう始まっていると言っていた。それが何を意味するのかわからないが、既に俺が思っているより状況は悪化しているのかもしれない。突然目の前に現れた時限爆弾のように、いつの間にかタイムリミットのようなものが時を刻み始めていたのかもしれない。
砦の中の状況は八咫烏を使役して気配を探ってもよくわからない。ソフィエさんとチルフィーを探すためにも、俺たちが別々に行動するのは決して悪手ではないだろう。
「じゃあ、ボクがお兄ちゃんを捕まえたことにして中に侵入する?」
突然の声に、俺とアナは一瞬目を合わせてから同時に振り返る。ガルヴィンが首の後ろで両手を組み、勝気な眼差しを向けている。いつの間にか赤い髪が短いツインテールに結ばれている。草の上に寝かしている間に、アリスがせっせとショッピングモールから持ってきたヘアゴムで結んだみたいだ。
「……目を覚ましたのか」と俺は言った。
「おかげさまで。って、なにこの髪は。誰がこんなことしたの」
ツインテールを解き、ガルヴィンは名乗り出たアリスにヘアゴムを返した。二人はそのままなし崩し的に始まった簡単な自己紹介を終え、アリスによる女の子のおしゃれ講座が始まった。俺はガルヴィンを少年だと思っていたが、アリスはちゃんと少女と見抜いていたようだ。一緒にお風呂に入ったことは一生黙っておこう。
「で……お前が捕まえたことにして侵入するってどういうことだ?」と俺は訊いた。その答えが返ってくる前に、近くの茂みがわさわさと動き出した。ガルヴィン以外の全員が身構え、その方向に目を向けた。十字槍を両手で構えるボルサミノがそこにはいた。
*
「マジか……。副兵団長たちが捕まって、セリカとクリスと大盾の兵士まで……。セリカたち、迫ってた屍教から逃げられなかったんだな……」
「はい。僕たちはアナさんと別れてからこの砦を発見したんですが、間もなく取り囲まれてなすすべもありませんでした。僕だけ逃げ出すのがやっとでした……」
メガネの奥の瞳は沈んでいた。自分だけ逃げきれたことを気にしている様子だった。
「いや、お前だけでも無事で良かったよ。こうして状況を教えてもらえるしな」と俺は言った。
それからボルサは隠れながら砦の状況を窺い、侵入できそうな裏口を発見したと話した。アナはそれについて深く考え、アリスも腕を組んで何かを思索しているようだった。俺はクリスに語り掛けてみた。暫く待ったが、返事はなかった。
それはつまり、クリスの身に何かあったことを意味していた。最悪の考えが頭をよぎった。だが、それは口にしないことにした。
クリス……。頼むから無事でいてくれよ……。
俺は頭を切り替え、前向きに考えることにした。ただ単に要救助者が増えただけだ。2が5ぐらいになっただけだ。そこにたいした差はない。
「作戦は決まったな」と俺は言った。「俺はガルヴィンに捕まったふりをして正面からどうどうと入るから、アリスとアナとボルサはその隙に裏口から侵入してくれ」
三人は頷き、それぞれが武器を手にした。アリスはゲートボールのステッキを、アナはオウス・キーパーを、ボルサは十字槍を。
俺は腰のホルダーからナイフを抜き、アナにそれを手渡した。「これ預かっといてくれ。今の俺が持ってても邪魔にしかならないと思う」
「じゃあお兄ちゃん、行こうか」とガルヴィンは言った。俺は少しだけ待ってもらい、アリスに向けてこぶしを伸ばした。アリスはすぐに目に涙を浮かべた。
「俺は大丈夫だから泣くな。チームアリスもチームノットアリスも、残ってるのは俺たちだけだ。……危険だからお前は待ってろなんてもう言わない。だから、しっかりアナとボルサについて行けよ?」
小さなこぶしが握られた。アリスはそれを思いっきり俺のこぶしにぶつけてきた。
「わかっているわよ! あなたこそ捕まったふりをして本当に捕まるなんてまぬけなことにならないよう、十分気を付けてちょうだい!」
俺はアリスの頭の上に手を置いて頷いた。ついでに思いっきり撫でておいた。それから俺たちはもう一度フィストバンプをした。それからついでに小さな身体を抱きしめ、ついでのついでに頭を撫でた。
そして俺とガルヴィンは砦に向けて歩き出した。「で、どういう心境の変化で俺たちに協力する気になったんだ?」とガルヴィンに訊いた。
「別に? ただ、薔薇組本部の地下でもお兄ちゃんにしてやられたからね。もう敵対するより協力したほうがいいと思っただけだよ。でも侵入の手伝いだけだからね、その後は好きにやってよ」
言葉とは裏腹に、その節々に強い想いのようなものが含まれているように感じた。『母さんは殺させない』、そう言っていた時の目と同じ種類の光を宿していた。
緩やかな傾斜を下り、俺たちは樹海の終わりの樹々を越えて砦の正門に辿り着いた。見張りらしき屍教の男がガルヴィンの顔を見て、驚いた様子で口を開いた。
「い、生きてたのかガルヴィン……」
「なんで? そりゃ生きてるよ。ほら、主犯格を捕まえたよ」
精一杯の主犯格的な表情を作り、俺は何も言わずに俯いた。屍教の男は動揺しているようだったが、それを必死に内にしまい込んで俺の全身を穴が開くほど見つめた。
「縛っていないのか……?」
「縛る物なんて持ってないからね。でも大丈夫、ボクがこてんぱにやっつけたから。両腕の関節も外してあるよ」
ガルヴィンは自ら砦の扉を開け、俺の背中を手のひらで乱暴に押し込んだ。俺は両腕をだらっと伸ばし、屍教の男の懐疑の目をかいくぐった。
砦の通路をしばらく進んで角を曲がると、ガルヴィンの足音がぴたっと止んだ。「約束通り侵入の手助けはしたよ」
俺は振り返り、「ああ、ありがとうな」と礼を言った。それからガルヴィンの目を見て、何を言おうか迷った。その末に、俺は「やっぱりな……」と呟いた。
ガルヴィンの目に赤い殺意の光が浮かんでいた。手のひらは俺の心臓の位置を的確に差していた。
「やっぱりなってどういう意味? ボクがこうするってわかってたってこと?」とガルヴィンは言った。
「まあ、なんとなくな……。俺とアナとアリスから逃げるより、こうしたほうが確実だろうしな」
「じゃあ、なんでボクの誘いを受けたのさ」
俺は真夜中のショッピングモールに現れた未来アリスとピエロを思い浮かべた。だらっと伸ばした両腕を元に戻して、肩をぐるぐると回した。
「知ってるんだよ、俺は自分とアリスの未来をなんとなく。……少なくとも、俺たちが今日ここで死ぬことはない。だからある程度の無茶は無茶のうちに入らないんだ」
「へえ」とガルヴィンは言った。「信じられない話だけど、でも時の迷宮があるこの地ではあながち世迷い事とも言い切れないかもね」
どうでもいいと思っていそうな表情をガルヴィンは顔いっぱいに広げた。同時に、砦の扉の方から声が聞こえた。
「なあガルヴィン。ちょっと待ってくれ」、見張りの男の声だった。通路の角から現れた男の手には剣が握られていた。
「よくよく考えたら、お前を通したら俺が困ったことになると思うんだ……」
男は剣先をガルヴィンの背中に向けた。そして前のめりに駆け出した。
ガルヴィンは素早く体ごと振り返った。表情は見えなかったが、困惑しているのがその後の動作でわかった。金縛りのようにじっとして、動きたくても動けないといった感じだった。
俺は軸足に思いきり力をこめてスタートを切り、ガルヴィンの前に躍り出た。無意識に走った数メートルは、おそらくどの世界のオリンピック選手よりも速い数メートルだった。




