198 絶対に
時の迷宮の通路は月の迷宮と似通っていた。大理石のような材質感の淡く光っている壁や天井。そこをひた走るいくつもの直線が織りなす幾何学的な模様。そして、月の迷宮から丸ごと運んできたような空気感。
とても無関係とは思えなかった。赤いリュックのチャックにぶら下げられているブタ侍が、アリスの走る振動を受けて迷惑そうに揺れていた。
「暁の長城はこの地下の迷宮を囲むために造られたのだな」
前を走るアナが誰にともなく問いかけた。「そうっぽいな……。でもこの迷宮は近未来的で、暁の長城は古代的ってのも不思議だな」と俺は言った。
先導するアナはとくに迷う様子もなく、迷宮内を必然的に進んでいった。二股の通路を右に曲がり、階段を上ってまた角を右に曲がった。しばらくすると、再び上り階段が見えてきた。すでに俺の方向感覚は南極のコンパスのように失われている。
俺はオウス・キーパーが収められているアナの腰の鞘に目を向けた。視線に気づき、走るペースを変えずにアナは口を開いた。
「まだ諦めきれないのかウキキ殿。確かにヴァングレイト鋼は惜しいが、わたしが適したサイズに斬っても重くて持ち上げるのがやっとだったろう」
「あれでダガーでも作ってもらおうと思ったのにな……。ってか、じゃあなんでお前のオウス・キーパーは軽いんだ?」
俺たちの後を一生懸命に走っているアリスに大丈夫かと声をかけ、アナは視線を前に戻した。「へっちゃらよ!」と後ろから聞こえ、そのあとにチルフィーの応援の声が響いた。
「前に言っただろう。わたしの剣は南の国でチチンプイプイされたのだと」
「チチンプイプイ超重要だったのか……」
「それで羽のように軽くなるからな。しかし牢獄にヴァングレイト鋼を使うとは、どうしても逃がしたくないか、遥か昔はヴァングレイト鋼が有り余っていたかのどちらかだな」
「その両方かもな」と俺は言った。「かもしれないな」とアナは言った。
階段の先には暗闇が広がっていた。目が慣れてくると、深く生い茂る原生林が視界を支配した。俺たちが地上に出てきたのに合わせて、どこかでフクロウが仲間に警戒の合図を送った。ホーホーホとそれは続き、しばらくしてフクロウ達による大合唱が始まった。
ギギギギという鳴き声も聞こえる。何かが木の枝から飛び立ち、何かが茂みの中から飛び出してどこかに消えていった。黄金色の二の月は土に広がる苔の上に何かの影を這わせていた。ドピューンという革命的な鳴き声とともに影は消え、それと入れ替わるように闇の中に二つの赤い光が浮かび上がった。
「見つけたよお兄ちゃん」と赤い光は言った。少しずつ近づき、月明かりの下にガルヴィンが姿を現した。
*
「やめろガルヴィン」と俺は言った。返事よりも先に、青い軌道が俺の右肩の横を通り過ぎていった。
「出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
炎の球がX字に斬り分けられ、四方に飛び散っていった。アリスの眉間まで伸びている青い軌道が静かに闇の中に消え入った。
殺意を俺に示してるのにアリスを狙いやがって……。ナチュラル・ボーン・キラーってところか……。
「アリス! カーバンクルを召喚しとけ!」と俺は言う。
「でもそうすると精霊術が使えな――」
俺は前を向いたまま言葉を重ねる。
「いいから言う通りにしろ!」
「な、なによ偉そうに……」
渋々アリスはカーバンクルを召喚する。俺は前方の赤い光を睨みつける。
「やめろガルヴィン、お前とは戦いたくない」
「やめないよ。やめたらお兄ちゃん、ボクのお母さんを殺しに行くでしょ」
ガルヴィンは手のひらをまじまじと見つめ、それから殺意の眼を俺に向ける。その目には悲しみの影が残っている。いつまでも沈まない夕陽のように、それは赤い光の奥で行き場もなく漂っている。
「屍教徒のなかにお前のお母さんがいるのか?」
「いるよ。もっと言えば、ボクのお母さんが屍教を動かしてるんだよ。最高司祭だからね」
「最高司祭……」
その役職には聞き覚えがある。セリカも自分の母親が最高司祭だと言っていた。彼女の顔が目の前にフェードインして、ガルヴィンの輪郭と重なる。
「ガルヴィン、お前はセリカの……」と俺は言う。言葉に詰まってしまう。瞬間、アナがオウス・キーパーを抜いて駆け出す。瞬く間にガルヴィンまで到達し、白銀の刀身が弧を描く。
「くうっ……」
アナは膝をつく。高く飛び上がったガルヴィンが上空から声を上げる。
「ヴァングレイト鋼の剣を持つ女騎士。大地のツルギだっけ? 思ってたより弱そうだね。そんな素直にカウンター……スプラッシュ・ランスを食らってくれるんじゃ長生きしないよ、お姉さん」
燃えるように赤い髪が風になびき、そして炎を纏う右手がなんの感情もなく払われる。
「フレイム・スラッシュ!」
青い軌道はアナを真上から刺している。俺は雷獣を使役し、軌道を塗りつぶすように撃ち放たれた炎に紫電をぶち当てる。
ビリビリビリッ!
命中して、炎の斬撃が僅かに左に逸れる。それは地面を斬り裂き、巨大な世界地図のように広がる苔を分断する。
空中に赤い光の残像を残しながら、ガルヴィンは着地する。アナは腹部を押さえてうずくまっている。「アナ大丈夫!?」、飛び立つように、アリスはふわりとジャンプをしてアナの元に行き、赤いリュックから噴水の水の包帯を取り出す。チルフィーは心配そうにアナの顔を覗き込み、誰よりも必死な形相でアナの鎧のベルトや留め具と悪戦苦闘している。
「お兄ちゃん、もしかして視えてる?」とガルヴィンは言う。「そうとしか思えないよ。ボクの精霊術をそんな方法で防ぐなんて」
「ああ、視えてるよ。お前の魔法は全部な」
俺はハッタリを一つ。
相手が赤い殺意の光を目に宿し、そして俺が認識しているものでないと青い攻撃軌道は視えない。現に、アナに放ったカウンターは初見なので視えなかった。
「だから、諦めて投降するか退散してくれ」と俺は言う。
「じゃあこれはどうかな?」とガルヴィンは言う。
森から音がなくなる。台風の目の中にいるかのように、辺りがしんとして密度の高い空気を風が運んでくる。
「ボクは精霊士。直接四大精霊の力を操る精霊魔法の使い手。さっきまでの精霊術なんてまがい物とは違うよ?」
音を立てて台風の目が崩れる。全てが激しく揺れ動き、鳥が一斉に羽ばたいて森から逃げ出していく。
俺はアリスたちの前に立ち、右腕を構える。いつでも玄武の使役が行えるように備える。
しかし、疑問が生じる。前方からの攻撃を完全に防ぐとはいえ、果たしてガルヴィンの精霊魔法に対してどれだけ有効なのだろうか。
全員が動きを止めて、風の源であるガルヴィンの突き出した手のひらに意識を集中している。やがてガルヴィンは叫ぶ。
「風よ唸り舞い踊れ――旋風!」
瞬間、チルフィーが俺たちの前に飛び出て両手を広げる。
「駄目であります!」
風が収束してどこかに去っていく。何事もなかったかのように、森が平静を取り戻す。
俺もアリスもアナも、宙に浮かぶチルフィーの後ろ姿を何も言わずに見つめている。ガルヴィンは黒薔薇が刻まれている自分の手のひらとチルフィーを交互に見ている。
「……そっか、風の精霊シルフ族だったね、チルフィーは」とガルヴィンは言う。「にしても、ただのシルフ族が風の精霊魔法をキャンセルさせるなんて信じられないなぁ」
年相応の少女の無邪気な表情をガルヴィンは浮かべる。目に宿る激しい赤を別にすれば、そこには12歳の少女がただぽっかりと闇の中に浮かぶように立ち尽くす姿がある。
しかし、その目に意志が戻る。「絶対にお母さんは殺させない」、それと呼応するように全身を炎が包み込む。
両手を突き出し、ガルヴィンは叫ぶ。「すべてを焼き尽くせ――炎!」
「却下であります!」。微動だにしないチルフィーが両手を広げたまま大声を上げる。炎は冬眠から目覚める季節を間違えたトカゲのように、闇の中に静かに還っていく。
「チ、チルフィー……。キミは何者なの? なんでただの風の精霊が火の精霊魔法までキャンセル出来るの……?」
ガルヴィンは信じられない物を見るような眼差しをチルフィーに向ける。俺も少し前に出てチルフィーを覗き込む。誰よりも信じられないという表情をして驚いている。
落ちていたオウス・キーパーが軽快な音を立てる。それを握りしめ、一瞬にしてガルヴィンまで間合いを詰めるアナが俺の視界の端から中央に躍り出る。
「アナ! 殺すな!」と俺は叫ぶ。そんなつもりはない。とでも言わんばかりにオウス・キーパーを逆手に持ち直し、アナは剣柄をガルヴィンのみぞおちに突き立てる。
少女特有の柔らかい音とともに、ガルヴィンはその場に倒れ込む。腹部から血を流し、アナも羊歯の上で崩れ落ちる。
精霊魔法によって彩を失っていた森が色を取り戻していく。黄金色の二の月が樹木を照らし、苔が誰にも気付かれないように密かに呼吸し、そしてフクロウがホーホーホーと鳴く。




