197 神と月と蓮の花
あごを引いて背筋を伸ばし、きちんとかかとを閉じてつま先を45度開く。
手は脚のラインに沿って伸ばす。指先を五線譜のようにきれいに揃えることも忘れてはならない。
そのような姿勢のままアリスと手を繋ぎ、ゆっくりとその手を前に上げていく。貝のようにぴったりと重なった手にバルス的なエネルギーが満ちていく。
俺は叫ぶ。「転移っ!」、しかし何も起こらない。時の迷宮の牢獄の中で、俺のむなしい叫びが音もなく暗闇に吸い込まれていく。
もう一度叫ぶ。「バルッ……転移っ!」。しかしやはり何も起こらない。「バルって何よ。……と言うか、これ何回やるの」とアリスが言う。
「何度だってやるさ! ショッピングモールソードスキルレベル2が発動するまでな!」
『空間を切り裂く』。そのスキルの名にはメタファー染みた意味が込められているはずだ。『暗闇を切り裂く』がショッピングモールに明かりを灯すというスキルだったので、それは間違いない。諦めずに俺は叫ぶ。
「バッ……てっ……ワープ!」
「ぐずぐずじゃない……。はあ……もういいわ、ホントあなたにはがっかり……」
壁にもたれて座れ込み、アリスはじっと俺の顔を見てから深いため息をついた。俺がこれまでに築き上げてきた信頼が音を立てて崩れ落ちていった。ガラガラガラ。
「推測は間違ってないと思うんだけどな。空間を切り裂くって言ったらワープしかないだろうに……」
とすれば、やはり呪文や動作が正しくないのだろうか。あるいは発動に必要なショッピングモールHPが足りないという可能性も。いずれにせよ全ては推測の域を出ない。と言うか、スキルの発動方法まで説明なしのショッピングモールにそもそも問題がある。
「降りて来い神!」と、俺は上空を見上げながら叫ぶ。視線の先には四角形の天窓のような物があり、その遥か上には真っ暗な空に浮かぶ月がある。
「黄金色の月……。二の月か」
ソードスキルレベル2の発動を諦め、俺はアリスの隣に腰を下ろす。
大げさに頭を傾けてアリスも二の月を見ている。目を閉じて、目を開く。目を閉じて、目を開く。何度か瞬きが行われても、月はいつまでもその瞳の中に映っている。水面に浮かぶ黄色い蓮の花のように。
「こんな異世界で、こんな状況だけど……。月がきれいだな」と俺は言う。アリスの視線が二の月から俺の顔に移る。眉をハの字に曲げ、目を細めるタイプの表情になっている。
「あなた、それ意味を知ってて言っているの?」とアリスは言う。なんかお尻をずらして少し俺から離れようとしている。
「い、意味?」
「知らないのね。はあ……あなたにはがっかりさせられてばかりだわ」
すっと立ち上がり、アリスは再び月を見上げる。長い黒髪が舞って牢獄の中にたくさんの優しい希望を振り撒く。
「まあ、でも……。そうね、月がきれいね」。アリスは振り返り太陽のような笑顔で俺の隣に腰を下ろす。その距離は最初よりもずっと近い。
「少しだけ」
そう付け加えるようにアリスは言い、体育座りでゆらゆらと何度も左右に揺れる。
*
「いい加減、なんとかしてここから出ないとな」
スマホで時間を見ると、いつの間にか6時を少し過ぎていた。夕刻と言うには十分過ぎるほど陽が落ち、世界は夜への準備を進めていた。
俺はアリスが巻いてくれた包帯を解き、怪我の具合を確かめた。デュラハンにやられた傷はもうすっかり癒えていた。
胸の中央には星形の刻印があった。俺は自分の左手をしばらく眺め、それからアリスに屍教の刻印術師にやられたことを話した。
「あらそう。手を操られてしまうのなら気を付けないとね。それより、もう上から長いロープでも垂らすしかないんじゃない?」
「それよりって、お前……。まあ、でもロープか。確かにそれしかないよな」
「じゃあ、あなたにお願いするわ!」
「いや、どうやってあそこまで行くんだよ」
「だから、長いロープで登るのよ!」
「その長いロープをどうやって垂らすんだよ……。もういいからお前黙ってろ」
バカを黙らし、俺は藍色のコートのボタンをとめて牢獄の中を歩き回ってみた。歩幅で広さを測ると、縦と横がおよそ8メートルと12メートルあった。バスケットボールのスリーポイントゾーンの広さにだいぶ近い。俺はヴァングレイト鋼の格子の上のほうをバスケットリングに据えて、ボールを受け取り、フェイントを入れて、スリーポイントシュートを打つまでの動作を完璧に行った。ボールの回転がネットの内側を擦る音が聞こえた。
それから牢獄の中の窪みを調べようと向かった。「駄目よ! あなたは立ち入り禁止よ!」とアリスが言った。
「お前が小便したからか? みずくさいな、そんなもん今さら気にするなよ」と俺は言った。「駄目って言っているでしょ!」と、ヴァングレイト鋼の格子の向こう側でアリスは必死に格子を叩いた。「入れないわ! 誰かあの変態を捕まえてちょうだい!」
しばらく俺は言葉が出てこなかった。アリスはその間、ずっと牢獄の外から格子を一定のリズムで叩いていた。
「おい……」、上手く言えたか自信がなかった。口からただ息が漏れただけのように思えた。
「おい、お前なんでそっち側にいるんだ……」
「それより、駄目よ! あなたは窪みの中は立ち入り禁止よ!」
「わかったわかった。わかったから説明しろ!」
アリスは「ブヒーっと閃いたのよ! 名付けてアリス・スキップよ!」と言った。
なるほど、閃き待ちの技を都合よく今この場で閃き、そしてヴァングレイト鋼の格子を通り抜けたのか。と俺は理解した。
「杖技か? それともハテナマークの技か? 結局、お前の閃き待ちはどっちだったんだ?」
「どっちかしら? まあでも、そんなことはどちらでもいいじゃない。私は牢を出られたことだし、あなたの為に上から長いロープを垂らしに行ってくるわ!」
そのままアリスは風のように走り去っていった。「おいアホ! どうやって上まで戻るかお前知らないだろ! それに長いロープなんて持ってないだろ!」と俺は格子を叩きながら叫んだ。返事はなかった。
*
ひとり残され、俺は牢獄の中でトモコちゃんのブルマ姿を思い浮かべていた。
中学二年生の夏、俺と彼女は友達のいたずらにより、体育準備室に閉じ込められて長い時間を二人っきりですごした。
蒸し暑く埃っぽい密室の中、隙間から漏れる光は彼女の汗で透けたピンク色のブラジャーを照らしていた。華奢な体つきの女の子だったが、そこだけは砂丘の稜線のように形よく膨らんでいた。
俺は硬い唾を飲み込んだ。飲み込む音を彼女は聞いた。俺たちは見つめ合い、そして顔を赤らめた。
「暑いね」と彼女は言った。言葉のなかにそれ以上の意味があるかは判断できなかった。「暑いな」と俺は言い、薄汚れたマットの上に腰を下ろした。少し離れて彼女も体育座りで座った。つま先を伸ばせば、内またの彼女のかかとに届くぐらいの距離だった。
「待たせたわね! アナとチルフィーがいたから連れてきたわよ!」とアリスが言った。俺は無視をしてトモコちゃんとの思い出を楽しんだ。ここからが良いところなのだ。さいたま二中に今なお語り継がれるという、七不思議の始まりの物語なのだ。
「なんかムカつくわね!」と言い、アリスはふわりとジャンプをした。そして俺の脳天に手加減なしのチョップを叩きつけた。
「って……あれ、なんでお前またこっち側に……」
ヴァングレイト鋼の剣――オウス・キーパーを鞘に収め、アナが少し硬い微笑みを俺に向けた。
「待たせたな、ウキキ殿」とアナは言った。俺はきれいな四角形に斬り落とされているヴァングレイト鋼の格子に目を向けた。「なるほどね……。待ったよアナ、ありがとう」
話を聞けば、チルフィーとアナはアリスが罠で牢獄に落とされてから必死に探し回っていたらしい。
罠は一回限りの起動で、アリスを追って落ちることは出来なかったみたいだ。
アナはアリスを守れなかったことを俺に謝った。「いや、守ってくれてるよ」と俺は言った。
「ウキキ殿、副団長たちはもうソフィエ様が囚われている場所まで辿り着いているはずだ。我々も急ごう」
「スプナキンもそこにいるみたいであります! 行くであります!」
アナとチルフィーの言葉に、俺とアリスは目を見合わせて頷いた。二の月がまだその瞳の中にあるように見えたが、それはアリス本来の目の輝きだった。




