20 やましい考えはゼロである
クワールさんの家は元の世界の山の中にあるウッドハウスといった感じで、あまり物もなく整理整頓されていた。異世界とはいえ、衣食住は元の世界とたいして変わらないようだった。
もしこの部屋の写真を週刊誌に『異世界は存在した!』と綴って送りつけたとしても、一目見て破り捨てられるだろう。それほどに、異世界的特徴のない慣れ親しみのある家屋だった。
しかし、異世界らしさに欠けているとはいえ、ソフィエさんが入って来たことによって華やかさは格段に増した。ソフィエさんは椅子で頭を横に垂らして眠っているアリスを見て、残念そうな表情を浮かべた。
「アリスx○▽□-」とソフィエさんは言った。
「アリスは寝ちゃったのか……と言っています」とボルサがこの異世界の言葉を通訳してくれた。
彼女は椅子からずり落ちそうになっているアリスの頬をぷにぷにと何度も指でつつき、ボルサやクワールさんと言葉を交わした。どうやらアリスを風呂に誘いに来たらしい。
「おいアリス、ソフィエさんが一緒に風呂に入ろうと言ってるぞ。行かないなら俺が行く」と耳元で言うと、突然椅子から跳ね起き、アリスは目をぱちくりとさせた。
「……ヘチマ!?」
「どんな夢だ!」
言葉がわからないのに、ソフィエさんはアリスの第一声を聞いてすごく楽しそうに笑った。そしてアリスに回れ右をさせ、そのまま風呂に連れていった。
扉が閉まり、ボルサは俺とクワールさんの顔を順番に見つめる。「僕らもあとで行きましょうか」
聞けば、集会所にはこの村唯一の大浴場があり、だいたいの時間で区切って男女が分かれ、使用しているらしい。
裕福にはとても見えないこの村で、風呂にまでありつけるのはとてもありがたかった。アリスたちが出たら、俺もボルサやクワールさんと入らせてもらおう。
それまでのあいだ、俺はボルサから聞いた話を手帳に纏めようとボールペンを走らせた。
途中まで記入されているアリスの字はとても綺麗で、俺ならカタカナで済ますような漢字もしっかりと書かれていた。とても小学五年生が書けるような漢字ではないので、これも帝王学による教育の賜物なのかもしれない。
「そういえば、円卓の夜っていつから始まるんだ?」
俺は何度かボールペンをノックしながらボルサに尋ねた。ペン先が引っ込み、現れて、また引っ込んだ。
「だいたい二か月後ですね……そろそろ死ビトの数も増えてくると思います」
「いま以上に増えるのか……」
円卓の夜。それは、大きく楕円を描いて周っている四の月が、もっともこの惑星に接近すると始まる死ビトの活性期。それは二年に一度、だいたい半年間続くらしい。
「そういや、この異世界の一日の長さってどれくらいなんだ?」、俺は浮かんだ疑問をすぐにボルサに投げかけた。質問できる相手が近くにいるというのは、本当に素晴らしいことだった。
彼の話だと、一日の長さは二十四時間で、ひと月は三十日、一年は三百六十日ということだった。つまり、元の世界と暦のうえではほとんど変わらないことになる。
「あと雨には気をつけてください。原理は解明されていませんが、雨が降ると死ビトが湧きやすくなります」
「ああ……それでやたら目にしたのか。今日降ったもんな」
俺は手帳に雨には注意と大きく記入し、それを閉じてからリュックに戻した。
そうこうしていると、アリスとソフィエさんが濡れた髪に白いタオルをあてながら戻ってきた。柑橘系の香りが俺の鼻先をかすめた。
*
「じゃあ私はソフィエと集会所で寝るから、あなたも大人しく寝るのよ?」
風呂から戻り、椅子に座って天井を見上げていると、アリスは玄関先に座り込んで背を向けたままそう言った。
俺と離れるのを寂しがる様子は一切なく、むしろ女子会だと言ってはしゃいでいる。
「お前もソフィエさんに迷惑かけるなよ?」と俺はアリスの背中に言った。
それから、にこにこ微笑むソフィエさんのエメラルド・グリーンの瞳に視線を移した。「じゃあすいませんけど、アリスをお願いします」
「▽□△x-!」とソフィエさんは言った。おやすみという意味だろうか? いずれにせよ、ソフィエさんの笑顔が見られただけで、今夜は良く眠れそうだ。
アリスとソフィエさんがクワールさんの家から出て行き、扉が閉まると、ボルサはベッドの端っこで包まっている薄い毛布を手にした。ベッドは隣接して二台あり、そこに柔らかな親密性を生み出していた。
「僕は床で寝ますので、ユウキさんはベッドを使ってください」
「いや、それはやめとくよ……いきなり来て泊まらせてもらうだけで十分だ」
「僕は朝早くに村を発ちますので、遠慮せずにどうぞ」
俺はベッドの四隅をなんとなく時計回りに見てから、さてどうするかと考えた。
すると、はっはっはっとクワールさんは笑い、それからすぐに真剣な顔つきで何か異世界語を話した。ボルサがすぐにそれを通訳してくれる。
「ボルサは頑固だぞ。朝まで不毛な議論を重ねたくないのなら早めに折れることだな。もっとも、寝心地は保証できないがね。……と言っていますが、頑固というのは否定しておきます」
少し迷ってから、それならばと使わせてもらうことにした。腰を下ろすと、俺の重さの分だけベッドは沈み込んだ。
「ボルサは村にいるあいだ、ずっとここに泊まらせてもらってたのか?」
「はいそうです。そのお代は――これです」と言いながら、彼は酒瓶を手に取る。
そして、いつの間にかクワールさんがテーブルに用意していた三つのグラスに、中身を少しずつ注いでいった。
「これはファングネイ王国のお酒です。クワールさんはこれが好きで、僕が村に来るのを楽しみにしている理由でもあります」
「-○○▽□xx○○▽xx-」
「そんなことはないさ。もっとも、馬の干し肉つきなら頷くしかないがね。と言っています。もちろん干し肉もありますよ」
ボルサとクワールさんは椅子に座り、グラスを俺のほうに向けた。あまり酒は呑めないが、せっかくなので一杯だけつき合おうと俺も席に着いた。
グラスを打ち合わせる。
「▽□△x」
「乾杯」
「乾杯……何にだ?」
一口飲むと、あまり重くなくしっかりとした米の旨みを感じた。
「これは……ほぼ日本酒だな……」
俺は干し肉を口いっぱいに頬張りながら、残りを一気に胃に流し込んだ。たった一杯だけでも体が熱くなり、少し頭が痛くなってきた。
二人はちびちびと味わいながら呑んでいて、ボルサはクワールさんの軽快なトークを通訳してくれていた。
話に句点が打たれる。その空白を埋めるようにして俺は尋ねた。
「二人とも酒強いのか?」
「まあ……強いほうですかね。特にクワールさんは放っておけばずっと呑んでいますよ。もう歳なので途中で止めますが」
「▽□△x□△x」
「誰が歳だ。お前こそ早く嫁の一人や二人見つけろ。だそうです……」
なかなかに絡み酒らしいクワールさんをボルサに任せ、俺は少し涼しい風にあたろうと外に出た。
「アリスはどうしてるかな……。まあ、あいつなら楽しくやってるか……」
それはそれで、ほんの少しだけ寂しく感じた。どうやら役割的に、寂しがるのはあいつじゃなくて俺のほうらしい。
「木霊! 出て来いや!」
――来たで ――そうやで ――酒くさっ!
俺は少しふらつきながら適当に木霊の階段を配置し、一体めに跳び乗る。そしてすぐにバランスを崩して落下する。
「いてて……戦闘中に落ちたら洒落にならんな」
立ち上がる。既に消えている木霊をもう一度使役する。
「出て来いや木霊!」
――出たで ――そうやで ――肉くさっ!
今度は念の為、階段ではなく腰ほどの高さで平行に三体を配置した。助走して跳び乗り、空中を駆けて三体めから一気に飛び跳ねる。
「戻れ木霊! ……出でよ鎌鼬!」
ザシュザシュッ!
暗闇を裂くように二撃の斬風が舞った。
「木霊を戻せば、続けて鎌鼬も出てくれるんだな……二種同時使役は無理でも、これなら実戦で使えそうだ」
消えるまでに少しタイムラグがあり、タイミングはシビアかもしれない。そこは経験を積むしかないだろう。
少しでも強くなって円卓の夜に備えなくてはならない。今日ボルサから色々と話を聞いて、俺は強くそう思っていた。
「まあ……それより早いところ元の世界に帰れるのが一番か」
せめて――アリスだけでも。
俺はその場で寝転んで空を見上げた。
3つの月の話を聞いてからは意識的に見ることを避けていたが、あえて一番小さな四の月を睨みつけた。
「お前末っ子か? 反抗期って歳でもないだろ……できてから何億年経ってるんだよ」
数分待ったが、返事はなかった。
*
異世界三日目の朝。目を刺すような日差しと、がたがたという物音で、俺は夢の世界から引き戻される。
「あ……ボルサ、もう発つのか」
俺はベッドの上で起き上がり、テーブルに置いてある荷物を整理しているボルサの後姿に声をかけた。
「▽□△x▽□x」と彼は振り返って言った。▽□△x▽□x? 短音を発し、額に指があてられる。「すいません、チャネリングを忘れていました」
朝にぴったりの微笑みを浮かべ、彼は羊皮紙のようなものを俺に手渡した。
「この世界の基本的な言葉を書いておきました。喋れなくても、文字を指で差せば相手に伝えられるはずです。これから意味を教えますね」
そこには異世界の言葉がびっしりと書き込まれていた。ボルサはそれを順に解説し、俺はその翻訳された言葉を文字の下に小さく記入していった。
「こんなことまでサンキューな」
「いえ、また近いうちにここに来るので、その時にもっと習得しやすい辞書でも持ってきますよ」
羊皮紙を冒険手帳に挟み、俺はボルサの目を見た。そして、言おうかどうか迷っていたことを彼に告げた。
「ボルサが馬車で通る道かはわからないけど、ソフィエさんとクワールさんが城からこの村までを辿ったあいだに、大きい三角形の建物があるんだ……。俺とアリスはそれと一緒にこの世界に転移してきた」
口に手があてられ、沈黙がそっと降りる。
「大きい三角形の建物……。昨日アリスさんが言っていたショッピングモールとはそれのことですか?」
「ああそうだ。まあ、今度村に来るときは寄ってってくれ、歓迎するよ」
「ぜひ観てみたいですね、楽しみにしています」と言い、彼はまた指先で下唇をさすった。「しかし大きな建物ごと異世界に転移とは……神のみが成せる業ですね」
彼はまるで、この世界でのワープなら可能のように言った。まあそんな魔法があっても不思議ではない。
「神か……もし神の仕業だったとしたら、かなり説明不足で不親切な神様だ」と俺は一切説明なしのゲームコーナーを思い出しながら言った。
ボルサの顔にまた微笑みが現れる。
「では僕は失礼します。クワールさんは寝かせておいてください。起きるのは昼過ぎだと思います」
別れの握手をしてから、ボルサは静かに扉から出て行った。
この異世界で初めて言葉を交換しあった異世界人。俺は彼のことを、初めてできた友人のようにも感じていた。
「さて、少し早いけどアリスを起こしに行くか」
俺は桶の水を一杯グラスに注ぎ、一気に飲み干してから外に出た。
「ソフィエさんのパジャマ姿……ソフィエさんのパジャマ姿……」
危うく考えが口に出そうになってしまった。集会所までルンルン気分で歩いていく。
……口に出てたかな?




