194 落ちた先で
鬱蒼とした森に足を踏み入れる。線路のように、明確な意思に従って山を囲むように伸びている城壁が木々の枝の間から見える。それは、この場にいる俺を守っているようにも感じられるし、拒んでいるようにも感じられる。この暁の長城が建設された目的を俺は考え、そしてすぐに考えることをやめる。俺は後ろから迫る漆黒のマントに意識を集中する。
「出でよ玄武!」
カメェェェェェッ!
影のように襲い来るマントを、いくつもの六角形で構成されている光の甲羅が防ぐ。瞬間、出し抜けに上空から黒い塊が落ちてくる。それは巨大な剣を振り上げ、万有引力を振り下ろす力に変換する黒鎧のデュラハン。
「っ……!」
がむしゃらに、ただ全身のバネを使って俺は後ろに飛び跳ねる。眼前で剣戟が激しい雷のように落ち、俺たちはまた次の行動を思案する。
「出でよMAX鎌鼬!」
ザシュザシュッッ!!
二撃の残風が舞う。デュラハンの黒い鎧に大きなX字が刻まれる。
あるいは、これで動かなくなるのではないかという希望が脳裏を過る。希望はすぐに打ち砕かれる。
「くそっ……!」
黒鎧のデュラハンは巨大な剣を横に構える。青い攻撃軌道は当然視えない。視えないことはこんなにも恐ろしいのかと俺は思う。あるいは、デュラハンには一秒先の未来で真っ二つになる俺の姿が視えているのかもしれない。
「出でよ玄武!」
カメェェェェェッ!
俺は光の甲羅で、山を一刀両断しかねない一撃を防ぐ。そしてすぐに駆け出す。
おいクリス! そっちはもう撤退できてるのか!?
セリカと鉄壁軍曹にデュラハンの出現を伝えに向かったクリスに、俺は語り掛ける。死ビトを片付け終え、これから行動するのじゃ。という答えが返ってくる。
――ふともも娘はうぬを助けに向かう気じゃ。兵団の男もそれに同調しておる。
止めろアホ! そんなことされたらデュラハンを引き付けてる意味がなくなるだろ! 多くの気配がこっちに向かってるんだ、俺たちの陽動は成功だ! だからなんとしてでも逃げさせろ!
――うむ。では四肢のどれかを食い千切ってでもここから離れさせるてやる。安心するのじゃ。
走る先に小さな川が見えてくる。その傍らで天井の落ちた遺跡のような建物がひっそりと佇んでいる。暁の長城の内側に一つだけぽつんとあるこの施設は、古代バビチネス王朝時代に裏取引の為に造られた小屋かもしれないし、王族のあいだで流行したキャバクラだったのかもしれない。いずれにせよ、逃げ込む先としては悪くない。
って、食い千切るな! お前そんなこと出来ないだろ!
――幼体とはいえ大狼を舐めるでない愚か者。それより、本当にうぬ一人で大丈夫なのか?
大丈夫だから心配すんな! お前たちは暁の長城から離脱しろ!
崩れかけた入り口を越え、俺は赤土が目立つ遺跡の壁の元に身を隠す。しばらくしてから金属が擦れ合う音が聞こえてくる。カシャンカシャンとそれは近づき、何度目かで突然音がなくなる。
慎重に壁から頭を出して音の止んだ先を窺う。何者の姿もない。
「っ……!」
嫌な予感が小人となって、必死に俺の胸を叩く。それはすぐにでも振り返れと訴えている。
「出でよ鬼熊!」
振り向きざまに鬼熊を使役する。そこには俺を脳天から斬り裂こうと剣を構える黒鎧のデュラハンがいる。
ガルウウウウッ!
大木のような強靭な腕がボディブローを仕掛け、デュラハンは巨大な剣の腹でそれを止める。ハンマーで鉄の塊を打ち叩いたような衝撃が俺の腕に伝わり、反動でのけぞってしまう。おそらく、見逃されることのないこの隙。俺は追撃をさせない為に、鎌鼬でけん制しようと腕を構える。
「出でよ鎌――」
コンマ数秒遅かった。そのあまりにも小さい単位の遅れの代償は、あまりにも強烈な一撃。
「がっ……!」
俺は全身にタックルを食らい、後ろの壁まで吹き飛ばされる。派手に壁が崩れ落ち、降伏の合図のように土煙が辺りを覆う。
……クリス! もう撤退したか!?
語りを送り届けながら、俺はなんとか立ち上がる。ダンプカーにひかれたように体中が激しく痛む。クリスからの返事はない。
よし、語りがないってことは届かない距離まで移動したってことだ……。俺もこいつの相手から手を引かせてもらうぜ……。
数メートル先のデュラハンを注視する。ただ逃げ出しても、また影だけで移動して瞬く間に捕まってしまうだろう。まるで瞬間移動のような能力。月の迷宮ではあんなことはやってこなかった、転生で新たに得た力なのだろうか。
不意に、俺は燦然と輝く光を目にする。黒鎧のデュラハンの背中から漏れる後光。それは、この世の理を覆しかねないほどの強すぎる意志の光。
「黄金色の意志……。デュラハンにもそんなもんを放つ奴がいるのか……!?」
漆黒のマントが巨大なカラスの黒翼のように広がる。両翼の先端が槍のように鋭くなり、黄金色の意志がデュラハンのシルエットを薄暗い森のなんだか知れない遺跡の中に浮かべている。それは日食のように輪郭を際立たせ、まるで悪魔が羽ばたいているようにも見える。悪魔は両翼の先端をこちらに飛ばす。
玄武の使役は行えない。たぶん、それをしたら攻撃を防いだとしても、その使役を最後に俺は動けなくなってしまう。かと言って、俊敏に躱すなんてことが出来る状態でもない。
「出でよ木霊!」
――マジかやで ――最悪やで ――人でなしやで!
心の中で謝りながら、俺は三体の木霊を前方に浮かばせてシールドの代わりにする。これで黒翼を防ぎきれるとは思えないが、ソフトボールほどの大きさの木霊たちがいるだけで心強い。
槍のような両翼の先端が迫る。俺は小さなナイフを左手で構え、木霊たちとともに耐えようと構える。
いけませねえ。あなたの左手をわたしの許可なく使用するのは。
小虫のように、突然耳の中に入り込んだもの。それは訃報を告げるような不吉な響きを持つ屍教の刻印術師の声。
「っ……!」
近づくと、より鮮明にひし形の刻印の力を感じられる……。ああ、煩わしい。ああ、美しい。それは天高くから降り注ぐ四の月の灯りのように、わたしの心を魅了する……。
逆手に持つ左手のナイフが、遺跡の地面に落ちて乾いた音を立てる。その瞬間、三体目の木霊がデュラハンの黒翼の軌道を逸らし、俺の足元に宇宙から落とされた槍のように突き刺さる。
「ぐっ……!」
両翼のもう一つが、俺の横腹を掠ってどこかに飛んでいく。木霊は確かに俺を守ってくれた。しかし、掠っただけでも火鉢を当てられたような痛みが俺の全身を焼く。
俺は膝から崩れ落ちる。同時に足場が激しく軋む。
「っ……!」
刹那、地面が落とし穴のように崩壊する。足場を失い、なすすべもなく俺はその穴に飲み込まれる。
俺が屍教に察知されていたのは、首筋のひし形の刻印だったのか。闇の中に吸い込まれるようにして落下するなか、俺はただそんなことを考えながら、重力に身を任せた。任せる他なかった。
*
落ちた先では闇が広がっていた。落下による怪我は不思議とないように思えた。積み上げられた飼葉のようなものが俺を守ってくれたのかもしれない。しかしそれは意識を取り戻してから気付いたことなので、真相はわからなかった。
俺は目を凝らして辺りを見回した。壁に刻まれたいくつもの線が、幾何学的な模様を作り出していた。それは月の迷宮の大理石の壁とよく似ている。
視線の先に太い鉄格子のようなものが飛び込んできた。中か、外か。問題はそこだった。
「地下の……牢屋か?」
流れる風は、この地下が思っているよりも広いことを教えてくれているようだった。俺は立ち上がり、鉄格子の向こう側を丹念に眺めた。空間が広がっていた。どう考えても、俺のいる位置が牢屋の中だということは明白だった。
天井は見えなかった。上空には、ただ先の見えない暗闇が浮かんでいた。上を見ているはずなのに、井戸の底を覗いているような感覚だった。
俺の身体には包帯が巻かれていた。「あら、あなた起きたの?」とアリスが言った。
「ちょっ……え!? なんでお前こんなところにいるんだよ!?」
幻を見ているのだろうか。俺はアリスの輪郭のそこらじゅうに触れてみた。子供特有の柔らかさを感じた。お胸様の頼りない弾力も僅かにだが感じられた。ひらひらが二段になって付いている黒いスカートを捲ってみた。黒いタイツと暗闇というタッグはおパンツ様をきっちりガードしていたが、スカートの裾は俺に捲られるのを待っていたかのように素直に持ち上げられた。
「何をするのよ変態!」、俺は顔面にアリスのチョップを食らった。幻ではないようだ。
異世界の地下迷宮のような場所。そこは月の迷宮みたいな雰囲気が漂っており、そして牢の中には俺とアリスだけがいた。