192 城壁を西へ東へ
馬車が暁の長城に向けて再び走り出した。スマホのロック画面には4:24と表示されていた。
まだ外は暗く、客室の中で吐く息も一段と白かった。それは少しのあいだ宙を漂い、やがて居心地の悪い客室内の空気と混ざり合うようにして消えていった。
「名前はなんていうんですか?」と俺は尋ねた。客室には俺と目付きの悪い兵団の男だけがいた。アリスはいないし、チルフィーもアナもボルサもいない。セリカは前の運転席で翔馬の手綱を握っている。消去法から言っても、俺がこの空間で何かを尋ねるのだとしたら、それは正面に座るこの男だけということは誰の目にも明らかだった。
しかし目付きの悪い男はただ黙っていた。まるで自分が発言したら宇宙が跡形もなく滅んでしまうとでも思っているかのように。
俺は名前を聞くことを諦め、ソフィエさん救出に向けてチームの再編が行われた時の話をしようと切り出した。
「俺は何故か存在を察知されちゃうから救出チームと別なのはわかりますけど、あなたはそれで構わないんですか?」、話している途中から諦めてはいたが、やはり男は何も言わなかった。無理もない、自分のせいで宇宙が滅んでしまうのだ。俺だって何を言われても黙っているしかないだろう。
コミュニケーションを取ることを放棄し、俺は客室の扉を小さく開けた。そして細い板の上を伝って御者の席に移った。
「お前は俺と一緒の囮チームでいいのか?」と俺は前を向いて翔馬を駆っているセリカに訊いた。魅惑のふとももは毛布に隠れて見えなかった。
「構わないよ、別に。副団長の命令でもあるし。それにあの人、元屍教のわたしを近くに置いときたくないんじゃないかな。とくに、これから内部に侵入しようって時にはね」
セリカの毛布の中で何かが動き、欠伸のような吐息が漏れたのが聞こえた。「クリスちゃん優しいね。わたしが寒いからって膝の上に座ってくれてる」とセリカは言った。「屍教のトップ……最高司祭って、お前のお母さんだったよな?」と俺は訊いた。
視線も表情も変化がなかった。翔馬は前を行くチームアリスの馬車から一定の距離を保ち、白い空に変わりゆく冬の早朝をひたすらに走っていた。
「わたしに、送り人を解放しろと母さんを説得させたいわけ?」
「可能なら……な」
視線がチームアリスの馬車が迂回した大きな岩に移った。表情はやはり変わらなかったが、下唇を微かに噛んだのが見えた。
「たぶんそれは無理。あの人、わたしが生きてるのすら知らないと思う。父さんがわたしを連れて屍教から去った時だって、あの人わたしをチラッと見ただけだったし」
「そっか……。まあ、じゃあその線はなしって考えておくよ」
とすれば、やはり暁の長城に侵入して手早くソフィエさんを救出するしかない。兵団の調べによれば、屍教徒は百に満たないぐらいの数らしい。薔薇組本部の地下遺跡に約半数いたので、残りは五十ということになる。もっとも、それは兵団がおぼろげに把握している数値なので、それよりも多い可能性が高い。
「なにはともあれ、俺たちが囮になって引き寄せないとな」と俺は言う。「『察知される貴様は暁の長城の外で派手に暴れていろ。その隙に我々が送り人を見つけ出し、助け出す』。副団長は気に入らないけど、単純明快なこの作戦は気に入ったわ」
前を行く馬車が岩山の陰で停車した。チームノットアリスのこの馬車もその隣に停まり、俺は客室に戻ってボディバッグを背負った。
*
暁の空に吸い込まれるようにして伸びる城壁は、何から何を守るために建設が始められたのだろうか。馬車から降りて暁の長城の高い壁が見えるまで、俺はアナが呟いたこの疑問を考えるともなく考えながら歩いた。
暁の長城は古代バビチネス王朝時代に着工し、完成する前に王朝は滅びたという。しかし、城や都を思わせる遺跡はどこにもなく、まるで王を失うまで一歩も動かなかった将棋盤の上の歩のように、守るべき対象もなくただ城壁だけが何万キロにもわたって山の麓に広がっていた。
「地下に街があるんじゃない?」とアリスは言った。「あるいはそうかもしれんな」とアナは言った。いくつかの予想が並べられ、そして副団長の一言によって俺たちの意識は現実に広がる目の前の城壁に戻された。
「無駄口を叩いていないで進むぞ」
副団長は手の甲で灰色の城壁を叩いた。何かに納得し、視線を宇宙を担う目付きの悪い男に飛ばした。
「そっちの隊長は貴様だ」、目付きの悪い男は目付きが悪いまま頷いた。「幻獣使いと元屍教。貴様らは隊長の命令をしっかりと聞くんだな」
俺はとりあえず頷いておいた。兵団がソフィエさんの救出を遂行する以上、その下につくことに抵抗はなかった。
「ソフィエさんがいそうな場所に心当たりはあるのか? 何万キロもある城壁で、しかも内部はそこそこ広い空間なんだろ?」と俺は訊いた。
「当たり前だ。闇雲で探し当てられるわけがないだろう」と副団長は言った。追随するように、ボルサミノが麻袋の中に手を突っ込み何かを取り出した。
「これを使うんです」
「それは?」
符術で作られた人型だとボルサミノは言い、俺の手のひらに置いた。和紙のような感触をしていた。
「符術師ギルドマスターの最新作です。探し人を想いながらマナをこめると、ゆっくりではありますが飛んで導いてくれるそうです」
「べ、便利だな……。術式紙風船を作ったりダンジョンを造ろうとしたり、符術師のギルドマスター何気にすげえな」
「あの人は天才ですよ。ですが、これは誰にでも扱えるという物ではありません。マナの強弱によって効果が大幅に変わります」
アリスの目が北極星のように輝いた。「早くも私の出番ね!」とアリスは言った。そして俺の親指と人差し指を強引に動かし、クリップのようにしてヒトガタを挟まさせた。
「そのままぶら下げておいてちょうだい」とアリスは言い、少し後ろに下がった。とても嫌な予感が頭をよぎった。
「お、ちょっとま――」
「アイス・アロー!」
ズシャーー!!
発射された氷の矢は俺の指がつまむヒトガタを貫き、そのまま勢い良く木の幹に突き刺さった。俺の大事な親指と人差し指はまだちゃんと繋がっていた。動くだろうか? 動く、動く。そしてヒトガタもアスファルトの上でもがくセミのように、激しく振動してから浮遊した。
「お前な! マナをこめるってこういうことじゃないだろ!」と俺は言った。アリスは何も言わずに風の加護でふわりとジャンプし、俺の胸に飛び込んできた。
「じゃあ私たちチームアリスはソフィエを救出しに行ってくるわ! あなたたちチームノットアリスも重々気を付けるのよ!」、俺はぱっつん前髪を捲り、小さなおでこにそっと触れた。「ああ、囮役は任せろ!」
ヒトガタがふらふらと動き出し、ゆっくりと城壁の階段を浮遊して昇って行った。ファングネイ兵団副団長と三人の兵士がそれを追いかけて歩き出した。
「じゃあアナ、アリスをよろしくな」
「ああ、アリス殿はこのオウス・キーパーにかけて守る。お前は安心して敵を陽動してくれ」
鞘からオウス・キーパーを少しだけ抜き、アナはチルフィーを頭に乗せているアリスの後ろ姿を眺めてから階段に向かって行った。オウス・キーパーが鞘に収まる音はとても子気味よく、まるで領主が『任せろぃ!』と言っているようだった。
俺はボルサミノの顔を見た。ボルサミノは俺の顔を見た。視線が合うと、俺たちはごく当たり前のように頷いた。そこに言葉は必要なかった。
そうしてアリスとチルフィーとアナとボルサミノと副団長たちは城壁の階段を上り、ヒトガタが導く西に向かって歩いていった。
「わたしたちも行こう」とセリカが言った。俺はもう一枚のヒトガタをコートのポケットにしまい、クリスと目付きの悪い兵団の男を順番に見た。
「よし、俺たちは東だ!」