190 遠い場所
石段を上り地下遺跡から脱出すると、見覚えのある廊下が視界に広がった。この騎士団薔薇組本部に訪れ、最初に案内された待合室が奥にある廊下だった。
壁には老人を中央に据え、何名かの騎士たちが剣を立ててひざまずいている絵画があった。額縁の下にはその絵のタイトルがあり、『薔薇組の始まり』と書いてあった。この時から既に屍教を信仰していたのだろうか。絵の中の老人の厳しい表情からは、それを窺い知ることはできなかった。
「ボルサが兵団を動かしてくれたのよ!」とアリスは言った。どこからか唸り声が聞こえ、叫び声に変わっていった。
「ああ、だからボルサに薔薇組が屍教だって知らせに行かせたんだ。きっとあいつならなんとかしてくれると思ってな」
廊下を走り抜けて角を曲がると、その先でファングネイ兵団と屍教が熾烈な戦いを繰り広げていた。兵団の男が三名で屍教の薔薇組騎士の男を取り囲み、一斉に襲い掛かって腹やら背中やらを槍で貫いた。
鮮烈な返り血を浴びた兵団の男たちは何らかの合図を目で送り合い、またどこかに向かって走り去っていった。
「こっちよ!」とアリスは先導するように駆け出した。矢印のルーレットが止まった瞬間に導かれて走り出したような勢いの良さだった。その先に武器倉庫があり、その部屋の中にボルサミノがいた。
「ボルサ!」と俺はただ黒ぶちメガネの男の名を呼んだ。暖かい笑顔が返ってきた。それからメガネのブリッジに人差し指をあて、その顔が窓の方向を差した。
「急いで脱出します。ついてきてください」
俺は頷き、アリスに先に窓を乗り越えさせてから薔薇組本部の庭に出た。外は思ったよりも静かだった。陽は沈み、3つの月と無数の星々がこの異世界を見守るように――あるいは監視するように空に浮かんでいた。
等間隔で植えられた木々の間を抜けて庭を走ると、薔薇組本部の敷地の外に一台の馬車が停まっているのが見えた。確証はないが、引いているのは翔馬のようだった。
「あの馬車でどこかに向かうのでありますか?」と俺の頭の上で座っているチルフィーが尋ねた。「そうです、どこかです」とボルサは答えた。
馬車に乗り込むと、中にはセリカと嫌みな顔つきの男がいた。俺たちの無事を確認してからセリカは運転席に移り、手綱を引いて馬車を発車させた。嫌みな顔つきの男が、遠ざかる薔薇組本部を眺めながら口を開いた。「屍教に成り下がった薔薇組の騎士など、我々ファングネイ兵団の敵ではない」、嫌みな顔つきの男は、嫌みな顔つきのファングネイ兵団副団長だった。
「……なんであんたがここにいるんだ」と俺は言った。座席に深く座り、副団長は脚を組みなおした。
「これから貴様たちと手を組んで送り人の捜索任務にあたる。屍教は明日の夕刻に送り人を使って何かをするつもりだ」
「手を組んで――」、誰かの手が俺の首を強く掴んだ。俺の左手だった。のどぼどけがきりきりと締め付けられた。俺は右手で左手を首から離させようと手加減なく下に引っ張った。左手は抵抗することなく下におろされた。しかし、まるで電源プラグを抜いた冷蔵庫のように、通電さえすればいつでも動かすことが出来るのだという意志のようなものが俺の左手に残っていた。
ゆめゆめ忘れてはなりません。あなたの左手はワタシの物です。
雨垂れの音のように、屍教の刻印術師の言葉が俺の耳に忍び込んだ。俺はガルヴィンが巻いてくれた胸の包帯の裂かれた箇所を捲り、胸の中央にある星形の刻印に右手で触れた。アリスもチルフィーも嫌みな顔つきの男も俺の中で起こった一瞬の出来事に気付いておらず、窓から外を眺めていた。
たしか、有効範囲は数十メートルってガルヴィンが言ってたっけ……。
心のなかで呟くと、突然クリスが俺の頭に直接語りを届けた。
――悪いものを刻まれたな、うぬ。
馬車の端っこでクリスは丸まっていた。俺と目が合うとのそのそと近寄り、当然のように俺の左手をぱくっと飲み込んで咥えた。
*
貴族街の一角で馬車は停まり、俺たちはそろって客室から外に降りた。目の前には『ジャック・オ・ランタン』があった。カボチャの形の窓が夕闇の中で光り、俺たちをいざなうように浮かんでいた。
「なんでジャック・オ・ランタンなんだ?」と俺は誰に訊くともなく訊いた。セリカが俺の顔を見て口を開いた。
「強力な助っ人が待ってるわ。あんたの大好きな大地のツルギよ」とセリカは言った。
アリスを先頭にして店内に入ると、中央のテーブルにアナがいた。アナの前にはティーカップがあり、その隣に手付かずのイチゴのショートケーキがあった。
「アナ! 来てくれたのね!」とアリスが言った。アナは俺たちに気が付き、椅子から立ち上がって少し硬い微笑みを浮かべた。
どかどかと副団長が歩き、アナの正面の席に着いた。アナが厳しい表情に変わった。
「ミドルノームの騎士と組むのは不本意だ」と副団長は言った。「だが、ゴブリン討伐の地から送られた団長の指示だから仕方がない」
暖炉の火が店内を暖かく包み込んでいた。チルフィーを頭に乗せたアリスが席に着き、続いてセリカとボルサがその左右に座った。俺は隣のテーブルの椅子をアリスたちに近づけ、クリスを左手に咥え込ませたまま腰を下ろした。「すいませんウキキ、席代わりますか?」とボルサは言った。「いや、大丈夫だ」と、薔薇組本部の待合室に置きっぱなしにされていたというボディバッグの中身を確認しながら、俺は言った。
「さて――」とアナは切り込むように接続詞を口にした。「まずは、いま起こっていることを確認したい」と続けた。
「確認も何もない。愚かな薔薇組が屍教に属していて、送り人がどこかに捕らわれていて、明日の夕刻に奴らは何かをするつもり――というだけだ」
横柄な態度で副団長は老店員を呼びつけ、紅茶を注文した。アリスとセリカも好き好きに注文し、俺とボルサは水をお願いした。
「そのどこかだけど、ナルシードが教えてくれたよ。……あいつは屍教に下ったふりをして色々と調べてくれたんだ」と俺は言った。
「どこにいるの!?」とアリスが訊いた。俺はこの場にいる全員――アリスとチルフィーとアナとボルサとセリカと副団長の顔を順番に見ながら、少しだけ間を開けた。
「暁の長城だ」と俺は言った。
「暁の長城ね! じゃあすぐに乗り込むわよ!」
紅茶やケーキがテーブルに並べられるのと同時にアリスは立ち上がった。俺はバカの手を掴み、無理やり座らせた。
「待てアホ、お前それがどこにあるか知らないだろ」、眉をひそめ、アリスは紅茶に手を伸ばした。「美味しいわ!」とすぐに明るい表情に変わった。
「遠い場所だ」とアナは言い、セリカが頷いた。「ともかく、そこにソフィエ様はいるのだな?」とアナは続けて言った。俺は水をひと口飲んでから頷いた。
「では不本意だが、ここにいる6名と選りすぐりの兵士4名で送り人の救出に向かう」、副団長はしかめっ面で紅茶を口元まで運んだ。アリスの頭の上のチルフィーが飛び立ち、慌てた表情でテーブルの上に着地した。「あたしもいるであります!」
「ああ、ソフィエさんとスプナキン、二人とも探しだして、いるべき場所に連れ帰ろう」と俺は言った。「であります!」とチルフィーは言った。