188 やあ、ウキキ君
ファングネイ王国には古代バビチネス王朝時代の遺跡がそこら中にあるとガルヴィンは言った。
騎士団薔薇組本部の地下にあたるここもその一つで、教徒の半数は俺たちが捜索した塔から移動し、今はここを隠れ家として使用しているらしい。
「お兄ちゃんのせいで引っ越しが大変だったよ」
灯篭の中の炎が揺れて、煉瓦に囲まれた地下の道にガルヴィンのゆがんだ影を落とした。影は振り返って不満を言い、また前を向くまでのガルヴィンの動作を忠実に再現した。そして段々と薄くなり、ついには完全に闇と同化して消え去っていった。
「ここから暗いから気を付けて」とガルヴィンは言った。俺は頷いたが、たぶん見えていないと思い、「おうよ」と口にしてから地下の壁に触れてみた。案外しっかりとしていて頑丈そうだった。
「なあ、ソフィエさんもここに捕らわれてるのか?」
「誰それ」
「誰それって、お前ら屍教が拉致した送り人だよ……」
少し前を歩くガルヴィンが振り返ったのが見えた。すぐに前を向きなおして、「あ~」と気の抜けた返事を返した。
「ここにはいないはずだよ。そっか、お兄ちゃんはあの送り人を救出しようとしてるんだっけ」
「ならどこにいるんだ?」
「教えるわけないじゃん」
風が通路をまっすぐに通り抜けた。一瞬チルフィーが突撃したのかと思ったが、着せられたボロの襟を引っ張って中を覗くと、ちゃんと俺の腹部の辺りで吉良邸に討ち入る寸前の赤穂浪士のようにじっとしていた。
俺は立ち止まった。「悪いなガルヴィン」、暗闇の中のガルヴィンの輪郭に向けて腕を構えた。「ソフィエさんがいないならここには用はない。お前ひとりで俺を連れ歩いて、俺が逃げないとでも思ったのか?」
少年に向けて幻獣を放つのは抵抗があった。それは殺傷能力の低い雷獣においても。
出来れば大人しく俺の逃走を見逃してほしかった。しかし、ゆっくりと振り向いたガルヴィンの瞳は赤く輝いていた。純粋な――おそらく正しい意味での――殺意を俺に示していた。
「おやめなさい、二人とも」と背後の暗闇が言った。いや、暗闇はおいそれと言葉を話したりはしない。「誰だっ!」と俺は叫んだ。手のひらの照準をガルヴィンに向けたまま、俺は辺りを見回した。
暗闇の中から漆黒のローブが姿を現した。それを纏う男の口がゆっくりと動いた。
「ガルヴィンちゃん、だから言ったでしょう。一人では舐められると」
闇の中の殺意を告げる赤い光がすっと消え入った。ガルヴィンは両腕を頭の後ろで組み、またそのまま歩き出した。
俺は右腕を下した。そのつもりはなかった。何かによって強引に下ろされた。それは俺の左手だった。
「っ……!」
「刻印をあなたの身体に刻んでおいたのですよ。ワタシの操り人形になってもらう――と言っても、あなたの場合は操れるのは左腕だけみたいですねぇ。その首筋のひし形の刻印が邪魔をしているんでしょうか。はて、わからない」
男はもうそこにはいなかった。しかし声だけは遠ざかる雨の音のように俺の耳に入り込んできた。
ああわからない、なんなんでしょうその刻印は。一つは複製されたということだけはわかる。おそらく『重複の法』によるものでしょう、術者の暖かみを感じる、想いを感じる。ああ、わからない……。
声がなくなると、ガルヴィンはだいぶ前を歩いていた。俺はとりあえずその後ろを追いかけた。
「気持ち悪いよね、あの人」とガルヴィンは言った。「あの人は人を操る刻印術だけを専門に学んでるんだ、まあ見事な術だとは思うけど。だからお兄ちゃんも変なことを考えないほうがいいよ、数十メートルぐらいは有効らしいし。……まあ、ボクひとりでもお兄ちゃんぐらいなんとでもなるけどね」
俺はガルヴィンの言葉を頭の隅で聞きながら、領主のことを考えた。
もっと話を聞きたかった。もっと話を聞いてもらいたかった。厳しい表情のあとにやってくる優しい微笑みをもっと眺めていたかった。おそるおそる左手で首筋の刻印に触れると、なんだか暖かい気がした。想いが込められている気がした。
洞窟の通路の先に光が見えた。くすんだ色のカーテンの隙間から、中の光が漏れていた。
「さあ、お風呂に入ろう」とガルヴィンは言った。
*
地下遺跡の奥の風呂場は小規模な銭湯ぐらいの大きさだった。古代人もここで湯に浸かっていたのだと思うと、なかなかのロマンを感じずにはいられなかった。俺はすでに頭まで浸かっているガルヴィンを見てため息をついた。なんでこんな時に風呂に入らなければならないのだ、と心の中で口にした。
「ところでお前いくつなんだ? かなりの子供だろ?」と、暖かいお湯に脚を入れながら俺は言った。
「12歳だよ?」とガルヴィンは言った。そして立ち上がり、すたすたと俺に近寄った。ん? あれ? 湯気がおおかたを隠しているが、なんだか胸が少し膨らんでいる気がする。はて、この異世界では第二次成長期を迎えると少年でも胸がちょいとばかし大きくなるのであろうか。
「お前、少年だよな?」と、念のために訊いてみる。「なに言ってるのお兄ちゃん、ボクは少女だよ?」と俺の隣に座りながら少女は言う。少女?
「うわああああああああああああ!」、俺はその場で立ち上がる。
「お前おんなだったのかよ! じゃあ普通に風呂に入ってんじゃねーよ!」
「べつにボクは気にしないよ。それに二人べつべつに入ってたら時間の無駄じゃない?」
どこからか運ばれてくるお湯で、白い煉瓦造りの風呂が水かさを増した。そしてたじろぐ俺の身体で風呂からこぼれて、お湯は意志を持つ生き物のようにどこかに流れていった。
「お前おんなだったのかよ!」
「なんで二回も言うんだよ。いいから座りなよ」
俺の手を取り、そのままガルヴィンは下に引っ張って無理やり俺を着席させた。俺はせめてもの理性で背中を向けて座りなおした。そして後ろの少女の顔の記憶を頭の中で思い浮かべた。
たしかに可愛い顔をしていた。唇は薄く、時折アヒルのようになっていた。燃えるような赤い髪が肩にかかり、風に吹かれて長い前髪と一緒に横に揺られていた。
「で……。なんで俺を風呂に入れるんだ? ただの親切じゃないんだろ?」と俺は前を向きなおして訊いた。僅かに見える胸の上の辺りは、アリスのそれと似たり寄ったりの頼りなさだった。もっとも、未来アリスのお胸様になることが決まっているアリスと違って、ガルヴィンにはまだ可能性というものがあるのかもしれない。俺には女子の胸の膨らみのメカニズムはわからない。なればこそ、今ここでおっぱい体操を伝授してやるべきではなかろうか? と俺は思う。なんか凄く楽しくなってきた。
「司教に会うんだから身を清めないと」とガルヴィンは言った。俺ははっとして、再び後ろ向きに座った。
「司教?」と俺は訊いた。「司教。四人いるうちの一人」とガルヴィンは言った。「屍教では四司教の一人で、薔薇組では組長をやってるみたいだよ。どちらが表と裏か、ボクにはわからないけどね」
手のひらの黒薔薇の紋章を眺めながら、ガルヴィンはそう言った。
なんだか少し悲しそうな表情をしていた。俺は今度こそ意を決して背を向けて座り、そこに根を下ろした。
*
身体を隅々まで洗ってもらい、俺はだいぶ身を清められた。お礼にガルヴィンの身体も洗ってあげたかったが、それはあとでアリスに怒られそうなので止めておいた。
ガルヴィンは包帯を巻きなおしてくれてから、俺をまた遺跡の奥に導いた。だんだんと灯篭の数が増えていき、左右にいくつも並んだ先に大きな扉が現れた。月の彫刻もガーゴイルの彫刻もない、ただの大きな扉だった。
黒いローブの男が扉の左右にいた。俺とガルヴィンに気付くと、黙ってそれぞれが扉の両側を押し込んだ。扉はいかにも重そうな動きを見せながら少しずつ開いた。その先に、長身の老人とナルシードがいた。
「やあ、ウキキ君」とナルシードは言った。俺は何も言わなかった。
「きみがウキキか」と老人が言った。そして屍教の四司教だと名乗った。薔薇組組長とは言わなかったが、それは明らかだった。
「寝返ったのか?」と俺はナルシードに言った。四司教にはあまり興味が湧かなかった。どこにでもいる長身の老人といった感じだった。ナルシードはこの男のどの部分を尊敬しているのだろうと、少しだけ疑問に思っただけだった。
ナルシードよりも先に、どこにでもいる老人が口を開いた。「その質問だと元々ナルシードも屍教だったとは思っていないみたいだな」と言った。「思ってないよ」と俺は言った。
「アリスが『カフェ・猫屋敷』で見た二人組の屍教は、たぶんお前と調査を行ってたという薔薇組の調査隊だ。調査隊は各地を回ってるってお前も言ってたしな。でも、他の調査隊も屍教かはわからないけど、お前だけは違っただろ」
森爺が俺の頭の中で呪いのような言葉を放った。『敵は身内にあり』、俺はそれを鎌鼬で斬り裂いた。
「僕以外の薔薇組は全員屍教の教徒だよ」とナルシードは言った。「そして、今は僕もね。正直、納得できないこともあるけれど、これも薔薇組をファングネイ王国一の騎士団にするために必要なことなんだ。百合組にも紫陽花組にも、もちろん本騎士団にもその座は譲れない」
俺はボロの中のチルフィーに外に出るよう促した。「地に伏してじっと耐える刻は終わったのでありますね! さあスプナキンを出すのであります!」とチルフィーは言った。
「そうじゃねえよ……。お前はちょっと離れてろ、ほら、ガルヴィンの頭の上で座ってろ」、俺はガルヴィンの目を見ながら言った。「風の精霊だね!? ほら、ボクの元においでよ!」と、ガルヴィンは年齢相応の明るい笑顔を顔いっぱいに広げた。
「なあナルシード」と俺は言った。「薔薇組を王国一の騎士団にするのがお前の夢なんだよな?」と訊いた。ナルシードは黙って頷き、四司教の老人、あるいは薔薇組の組長に目をやった。
「お前がソフィエさんの救出の邪魔をするなら、俺がお前の夢を潰す」
親友と言っても過言ではない。それは元の世界にも数えるほどしかいない、どこまでも信頼できる相手。だからこそ、今ここで俺はナルシードと戦わなくてはならない。親友の間違いを正さなければならない。俺は左腕をぐるぐると回す。それは俺の意志によってしっかりと動いている。
「どこかで聞いたセリフだね。……また紙風船試合かい?」とナルシードは言う。俺は首を振る。
「じゃあ、三送りの費用は用意してあるのかい?」。俺は続けて首を振る。
「どこかで聞いたセリフだな」と俺は言う。
「すいません組長。僕もウキキ君もここでお互いの信じるものの為に戦わないとならないんです」
遺跡の大部屋の中央に俺とナルシードを残し、チルフィーを頭に乗せたガルヴィンや老人や黒いローブの男たちが後退る。ここには俺とナルシードだけがいる。黒いモヤモヤがサーベルを形成し、それを軽く握ってナルシードは剣先を踊らせる。
「ウキキ! 頑張るのであります!」、チルフィーの応援と同時に、俺は右腕を構える。