186 ムウチラポンテ
アリスの身体はとても軽かった。その軽さは俺をこの上なく不安にさせた。
体重のほとんどを連れて魂が天に昇って行ってしまったような。そんな気がして、ドクンドクンと胸が強く波打った。
「アリス!」
俺は叫びながらアリスを抱きかかえ、近くのソファに寝かせた。力なく垂れた腕が揺れ、黒い絨毯の毛足を細い指先が撫でた。
「ウキキ! アリスはどうしたのでありますか!?」とチルフィーが言い、アリスの胸の上に着地して顔を覗き込んだ。クリスはアリスを守るように、垂れた腕を丸ごと飲み込んで静止させた。
ソファの前で膝をつき、俺はアリスの小さな手を強く握った。「おいアリス!」、しかし目は開かれなかった。手を握り返される気配もなかった。ただ人形のように、アリスはソファの上でじっと横たわっていた。
「くそっ、符術で何かされたのか……!?」
アリスの記憶を蘇らせるといいながら、あの冷えピタクールはアリスに危害を加えたのではないかと俺は考えた。符術師ギルドまで急いで向かい、あの変なギルドマスターを吐かせれば何かわかるかもしれない。
――落ち着くのじゃ、うぬ。
気が付けば、クリスはアリスの手をペロペロと舐め回していた。
――気を失って眠っているだけじゃ。だから落ち着け。
「お……落ち着けって、本当に寝てるだけか……?」
――本当にそれだけじゃ。しかし、身体が酷く緊張しておる。そのまま手を握ってそばにいてやるのじゃ。
俺はクリスに舐められている手を見つめた。白く細い腕を見つめた。そのまま視線をアリスの顔に移し、形の良いおでこを眺めた。
「緊張……。そっか……でも、それだけで良かった……」
俺はおでこに浮かんでいる汗を手のひらで拭った。と同時に、騎士団薔薇組の待合室の扉が音もなく開いた。
「どうかなされたのですか?」と長身の男が言った。銀のトレーを持っていて、その上にはコーヒーカップが二つ並んでいた。
「いえ、ちょっと連れが……」
気を失って眠っているとは言いたくなかった。誰とも知れぬ者にアリスの現状を伝えたくはなかった。
「気分がすぐれないのかにゃ? 医術師を連れてこようかにゃ?」
長身の男の後ろからひょこっと猫耳の娘が顔を覗かせた。茶色い毛に覆われた尻尾がゆらゆらとこちらを窺うように揺れ動いた。
ビーストクォーターだったかな、と俺は思った。恋焦がれていた存在だったが、今はあまり興味を引かれなかった。
『必要ない』とクリスは言った。「大丈夫です、必要ありません」と俺は言った。
長身の男は首を傾げながら小さなテーブルにトレーを置き、「どうぞ、お飲みください」と言葉を添えた。俺たちをこの部屋に案内した男ではなかった。白い清潔なスーツに身を包み、薔薇の刺繍が施されたマントを肩から下げていた。
「ナルシードは出掛けてるにゃ」と猫耳娘は唐突に言った。俺はすぐに返事を返すことが出来なかった。出掛けている? しかし何らかの反応を俺が示す前に、長身の男が口を開いた。
「大狼の子供ですね? 人に懐いているとは珍しい」
「え、ああ、はい。ちょっと縁があって……」
「私の家の紋章も狼なんですよ。大狼とは違う種の『ボルケーノ・ウルフ』ですが」
男はクリスに近づき、優しい笑みを口元に浮かべながら手を伸ばした。しかし頭に触れる寸前で動きを止め、ゆっくりとその手を引いた。
「可愛いですね」と長身の男は言った。クリスは何も語らず、目をつむってアリスの垂れた手に寄り添っていた。
二人はナルシードの同僚の騎士だと名乗った。それから、「ナルシードと親しくしているようで。出身は聞きましたか?」と長身の男は言った。
俺は首を振った。大狼とは違う種の狼の名について今さら疑問が産まれた。ボルケーノ? 火山?
「自由都市『ガイサ・ラマンダ』の出身なんです。世界一自由な国と言われています。ご存知ですか?」
「いえ……。聞き覚えがある程度です」
アリスがスゥーと小さく息を吸った。吐く音は聞こえなかった。
「世界一自由な国にはどんな人が住んでいると思いますか?」、突然クイズ形式の会話に切り替わった。猫耳娘の騎士はにこやかな笑顔で俺を見ていた。「自由な人ですか?」と俺は答えた。
「そうです。自由な国では自由な人が自由に暮らしています。ですが、それは人口のおよそ3割程度です。残りの7割はどんな人だかわかりますか?」
俺は首を振った。
「不自由な人です。世界一自由な国には世界一不自由な人が数多くいます」
視線には何かしらの感情が見て取れた。怒りか、悲しみか、哀れみか。あるいは優越感か。しかし、俺にはどれだか判断がつかなかった。
「奴隷ってことですか?」と俺は言った。男は小さく頷いた。
「そのとおりです。ナルシードは奴隷出身の薔薇組騎士なんです」
「組長に拾われて、それが今ではファングネイ王国の騎士団薔薇組副組長だにゃ。人生、何が起こるかわからないにゃ」
二人の口調から悪意といった類のものは一切伝わってこなかった。ただ単にナルシードの話をしているだけで、その為には出身を言わないわけにはいかないようだった。
それから二人は、ナルシードがいかに薔薇組の中で信頼されているかを語った。年齢は薔薇組の中でも若い方だが、それでも立派に副組長として頑張っていると話した。猫耳娘からはナルシードに対する恋愛感情のようなものも見て取れた。コーヒーカップから昇る湯気が弱々しくなったころ、二人はアリスのことを心配するように気に掛けてから、ナルシードが戻るまでゆっくりしていてくださいと俺に告げて部屋を出ていった。
「奴隷か……」、俺は何気なく呟いた。チルフィーがアリスの胸に座ったまま口を開いた。
「族長から聞いたことがあるであります。自由の国は世界で唯一奴隷が認められていると」
そこから矛盾を俺は感じ取った。しかし、矛盾していないかもと考え直した。あまり深く考えずに、俺はコーヒーカップに手を伸ばした。
――止めておくのじゃ、うぬ。
アリスのお腹の上で丸まっているクリスが突然語りだした。俺はコーヒーカップを持ったまま動きを止めた。「何をだ?」
――それを口にすることをじゃ。嫌な匂いがする。
良い香りがした。良い豆を使った良いコーヒーのように見えた。俺はそれをトレーに戻した。
「……毒ってことか?」と俺は言った。何も語らず、クリスは微かに頷いて眠りに入るように目をつむった。
アリスが目を開いたのは、俺が毒について考えだしてから数十秒後のことだった。
その目には涙が溢れていた。頬を伝ってソファの布を濡らし、大きなシミを形成した。
「どうしたんだアリス!?」
アリスは横になったままゆっくりと顔を横に向けて、俺を見るともなく見た。涙が一斉に重力に従って流れ落ちた。それは天から降り注ぐ力か、惑星ALICEに引かれる力かはわからなかった。
「ムウチラポンテ」とアリスは言った。もの凄く真面目な顔をしている。ムウチラポンテ?
それからすぐに身体を起こし、涙を指で拭おうとした俺の手を強く握った。「大丈夫か? 急に気を失って眠ったから心配したぞ」と俺は言った。
「白い薔薇のマントよ」とアリスは言った。待合室の四隅を順番に眺めた。そして立ち上がり、気の強い眼差しで俺の目をまっすぐに見た。「カフェ・猫屋敷で私が見たのは、黒い薔薇の紋章と白い薔薇の刺繍よ」
少しふらついたアリスを抱いて支え、俺はアリスが言ったことについて考えた。アリスは符術師ギルドのマスターから貰った冷えピタクールのような物で記憶を取り戻した。それは黒薔薇の紋章を身体に刻んだ屍教の男の、ファングネイ王国騎士団薔薇組が身に纏う白い薔薇の刺繍が施されたマント。ということだろうか。
「……マジか。薔薇組の中に屍教が……」
「マジよ!」
俺は待合室をぐるっと見回した。小さなソファーがいくつもあり、暖炉があった。毒を盛られたというコーヒーの湯気は、まだ少しだけ立ち昇っていた。思わず天井の四隅に目が向いた。当たり前だが、監視カメラのような物はなかった。
「さっきの二人がそいつらなのか……? いや、お前が見たのは男が二人だよな……。じゃあ、長身の男がそのうちの一人……?」
アリスは何も言わなかった。目を伏せ、何かをじっと考えていた。涙はまだ途切れていなかった。
「どうして泣いてるんだ? ってか、お前は白い薔薇の刺繍を思い出して気を失ったのか?」と俺は言った。アリスは目を上げて俺の顔を見た。涙がよりいっそう溢れて、また滝のように激しくこぼれ落ちていった。
「違うわ。ユイリの家がある海沿いの村で見た夢を思い出したのよ」とアリスは言った。