185 いつか見た夢
窓のない部屋で迎えた朝。
狭いベッドの隣にはアリスがいて、その小さな足は俺の顔面を見事に捉えている。
かなり珍しいかもしれない。アリスに足蹴にされていることではなく、こいつよりも先に俺が起きたということが。
スマホを見ると、冷淡なデジタルは7:14と表示している。俺はアリスの足から逃れ、ベッドから起き上がって部屋の扉を開ける。宿の古びた廊下にラウドゥルがいる。腕を組み、脚を伸ばして座り込んでいる。
「起きたのか」とラウドゥルは言う。俺は朝の挨拶をしてから、夜通しここで見張ってくれていたことの礼を言う。
「でも、何もこんな寒い場所じゃなくて部屋の中で良かったんじゃないか?」
「護衛なら扉の前が最善だ、その部屋には窓もないしな。それに、ベッドを共にするお前たちと同じ部屋で夜を過ごすのは野暮というものだろう」
俺は手を差し伸べる。ラウドゥルは首を振り、膝に掛けていた毛布を麻袋に手早くしまう。
「お前でも冗談を言うんだな」。ラウドゥルは自ら立ち上がり、サー・マントを手の甲で払ってから俺の目を見る。「たまにはな」
部屋で温かいお茶でも、と言うとやはりラウドゥルは首を振る。「それよりも、お前の具合はどうなんだ?」。そう言って、剣が収まっている鞘をベルトの隙間に差し込む。
「具合? ……ああ、幻獣のことか」
俺は腕を伸ばし、手のひらを黒ずんだ廊下の床に向ける。「出て来いや木霊!」
――出たで ――やで ――だるいで
「おお、出た……」
「素っ気ないな。もっと何か感動のようなものはないのか?」
「感動……。いや、思ってたよりあっけなくイチムネの封印が解かれたなって」
俺は手のひらと甲をじっくりと眺めてみる。特になにも変わらずに、手相や爪がそこにある。
「ではオレはお役御免だな。予定にない宿泊だった、急いで集落まで戻る必要がある」
「あ、じゃあカボチャパイがまだあるから持ってってくれよ。昨日うまいって言ってただろ? 皇子にも食べさせてやってくれ」
「そうか、では遠慮なく頂いていこう」
部屋に戻り、テーブルの上に置いてある銀色の包みをまとめて掴んでラウドゥルに手渡す。ふっとラウドゥルは優しく笑う。皇子が食べる姿でも思い浮かべたのかもしれない。
「さすがパンプキンブレイブ家のお菓子だよな。子供はハマるだろこれ」と俺は何気なく言う。その瞬間、ラウドゥルの目の色が変わる。
「パンプキンブレイブ家。帝国の皇后と皇女が滞在しているという……」。優しい笑みはもうどこにもなく、冷たい光が眼の奥に影を作りだす。しばらく見ていると、それは元々ラウドゥルが持ち合わせていたものなのだと気が付く。
「ウキキ、お前は皇后や皇女と会ったのか?」とラウドゥルは言う。「あ、ああ……。皇女には会ったけど、なんでだ?」
「そうか。……いや、なんでもない。ではオレは行く、さらばだ」
俺に別れの挨拶を言う間も作らずに、ラウドゥルは俺の前から姿を消す。階段が軋んで嫌な音を立てる。それは不吉な予言を伝える占い師や魔術師の濁った言葉にも聞こえる。
*
ジャック・オ・ランタンの扉を開けると、既にボルサはテーブルに着いてティーカップを口元で傾けていた。しかめっ面のチルフィーを頭に乗せたアリスが元気よく挨拶をすると、心にすっと入り込んでくるような暖かい微笑みをボルサは浮かべた。
アリスは当然のように椅子に腰を掛け、まっすぐに手を上げて店員を呼び出した。すぐに落ち着いた老店員がやってきて、それからしばらくしてテーブルに紅茶やケーキが並べられた。
クリスがテーブルの上に飛び乗り、イチゴのショートケーキを奪ってテーブルの下に逃げ込んだ。『まことに美味なスイーツじゃ』と俺の頭に直接語り掛けるまでに、たいした時間は要さなかった。
「アリスさんは、『カフェ・猫屋敷』で見た何かというのを、少しも覚えていないんですか?」とボルサが言った。アリスは口元をナプキンで拭いてから口を開いた。
「思い出したわ! 二人の男が着替えていたのよ、それぞれ肩と腰に黒い薔薇の紋章があったわ!」
俺はアリスの頭にチョップを食らわし、「そりゃ黒薔薇の紋章はあるだろ、屍教なんだから。それ以外は覚えてないのか?」と言った。
アリスは腕を組んで「う~ん」と唸った。それからすぐに表情を明朗なものに変えた。「思い出したわ! 部室の扉を開けたその先で、野獣がサキちゃんとミヨちゃんのフルートを盗もうとしていたのよ!」
貴婦人が店の扉を開けて一番奥のテーブルに着き、カモミールティーを注文した。老店員は笑顔でそれを受け、姿勢よく歩いてカウンターの奥に消えていった。朝のジャック・オ・ランタンにはその貴婦人と俺たちだけがいた。暖炉が勢いよく薪を燃やして、時折パキっという心地良い音を鳴らしていた。
「……それは魔法少女サッキュン4話のBパートだろ」と俺は言った。アリスはすぐに目を細めて、俺の顔をジーっと眺めた。「詳しいわね」と低い声で言った。
俺は口をついて出たでまかせでその場を乗り切り、紅茶を一気に飲み干してからボルサに目を向けた。
「では、符術師ギルドに行ってアリスさんの記憶を呼び起こしますか」とボルサは言った。「楽しみだわ! 忘れていたことを思い出せるなんて!」とアリスは言った。
*
「吾輩が符術師のギルドマスターだ」と男は言った。いくつもベルトが着いている黒い革のコートを身に纏っていた。握手を求める手には沢山の指輪がはめられていた。無意識にそれを数えると、12個もあった。片手に着けるには多すぎるだろうと思い今度は意識的に数えてみたが、やはり12という数は変わらなかった。俺は名を名乗り、挨拶を返した。
男はギルドの一室に掛けられてある時計に目をやった。惑星ALICEの自転と時の流れを気にするような視線だった。「忙しいところすいません、昨日相談した件でやって来ました」とボルサが言った。
「これをおでこに貼りたまえ」とギルドマスターは言った。伸ばされた手の先には、冷えピタクールのような物があった。
「これを貼っておけば記憶が蘇るんですか?」と俺は尋ねた。ギルドマスターは省エネを心掛けているように、微かに頷いた。
「符術で作られた物ですよ。僕も何回かこれのお世話になりました」
俺の心配を制するようにボルサが言った。その頃には、既にそれはアリスのおでこにピタっとくっ付いていた。
「冷たくて気持ちがいいわ!」
「つ、冷たいのか……少しでも気分が悪くなったら言えよ?」
「大丈夫よ!」
元気よくフワリとジャンプをしながらアリスは言った。それからチョップが迫ってきた。『大丈夫』という証明のつもりなのだろう、俺はそれを素直に食らっておいた。
「代金は吾輩の偉大なる発明に付き合ってもらう」とギルドマスターは言った。偉大なる発明? 俺はボルサに視線を送った。ボルサも驚いた表情を浮かべていた。
*
俺たちは星占師ギルドで少し時間をつぶしてから、ナルシードと約束している騎士団薔薇組本部に向かった。ボルサは何度も俺とアリスに謝った。『妙な発明に付き合わせることになってすいません』と、別れ際にも言っていた。
「兵士を鍛える為のダンジョン的なものの発明か……」、俺は呟きながら歩き、それについて考えた。符術でダンジョンを創ろうと考えているらしい。符術師のギルドマスターは兵士の脆弱さを嘆いていて、それの底上げをと思っているみたいだ。しかし、未完成でどんな想定外の危険がはらんでいるか知れないので、俺とアリスにそれに挑ませて実験したいらしい。
俺は、『俺だけ』ということと、『すべての要件が終わってから』というのを条件にそれを了承した。冷えピタクールの礼もあるので、無下には出来ない。
「術式紙風船なんて作れるんだから、ダンジョン的なものぐらい軽く作っちゃいそうだな……」
俺はラウドゥルから聞いた騎士団薔薇組本部の扉を開けた。隙間から、アリスが我先にと入り込んだ。
最初に目に着いた騎士にナルシードと約束していることを伝えると、待合室に連れていかれた。彼は白い薔薇の刺繍が入ったマントをひるがえし、待合室の扉をそっと閉めた。
小さなソファーがいくつもある待合室だった。窓からは午後の日が射していた。太陽のような恒星はゆっくりと東から西の空に移り、雲はばらけてその陽を地上に通したり、あるいは隠したりしていた。
アリスは扉の前から動かなかった。いや、動けないようだった。俺はアリスの頭をチョップして、ソファーに座るように促した。反応はなかった。
「どうしたんだ?」と俺は訊いた。返事はやはりなかった。俺はアリスの顔を覗き込んだ。冷えピタクールのような物はいつの間にか消えていて、そのおでこには大量の汗が浮かんでいた。
「おい! アリス!」。俺はアリスのおでこに手をあてた。熱くもないし、冷たくもなかった。その下で、瞳孔がめいっぱいまで広がっていた。瞳が微かに上下左右に揺れ、唇が小刻みに震えていた。
俺は条件反射でアリスを抱き寄せた。「思い出したわ」とアリスは言った。それからすぐに気を失って、その場に崩れ落ちた。
チルフィーが何かを言い、クリスが何かを俺の頭に直接届けた。だが、俺はその何かを聞き取ることは出来なかった。