169 過ぎ去りし流れ星
ハンマーヒルの南西にある、重罪犯を収容する牢獄。
ここは国に仕える騎士が任されており、雑務は主に騎士見習いが担っている。
「セリカを知らないんですか!? さっき鍵を借りに来ましたよね!?」
その顔あざの目立つ任務中の騎士見習いの男に訊くと、首をやや大袈裟に振りながら知らないと言う。
「セリカ……嘘をついたのか……!?」
彼女への疑惑の黒い砂が積もっていく。新しく砂浜が出来ていくように、細かいレゴリスの粒子が溢れていく。
「……ケガは大丈夫ですか!?」と言いながら、俺はボディバックから取り出した包帯を渡す。
すると騎士見習いは頷き、不敵な笑みを浮かべて包帯を受け取る。
「オレを気絶させてカギを奪って行った侵入者への裁きに比べれば、たいしたことはない」
開いたままの鉄柵を抜けて、俺は牢獄のなかに再び足を踏み入れる。暗闇のなかの囚人たちはそのほとんどが寝ているようで、最初の時に比べて随分とおとなしい。
俺は突き当りを曲がり、レリアの従者が囚われている牢屋へと急ぐ。隣で飛んでいるチルフィーが俺の耳元に近づく。
「強いマナの気配が近いであります!」
レリアの従者のことではなく、かと言って侵入者のことでもない。チルフィーの言った強いマナの気配の持ち主は――
「あれか! くそっ……思ってたよりデカいな!」
水のエレメント。
それは精霊士が警備のために遣わした、宙に浮く大きな水玉のような下級精霊。
騎士見習いに危害が及んだ場合、その加害者に対して裁きを執行するようにプログラムされている。らしい。
「牢獄の割には見張りも警備もいないと思ったら……こういうことかよ!」
俺は水玉に飲み込まれ、その中で無残に浮いている男に目を向ける。やはり屍教の侵入者らしく、手の甲には黒薔薇の紋章が刻まれている。
レリアの従者の始末に来たのだろうか。しかしその任を終えることなく、そして自らの首を刎ねる隙すら与えられずに、男は窒息死という水のエレメントによる裁きを受けた。
これがセリカじゃなくて良かったと、俺は一瞬思った。
ハンマーヒルに戻って文烏をファングネイ兵団長に飛ばすと言っていたが、それは嘘で、踵を返してここに先回りし、俺に情報を漏らすレリアの従者を始末しようと考えたのではないか。と、思ってしまっていた。
カギを借りたと嘘を言ったとしても、それが絶対の裏切りとは限らない。それなのに、俺は彼女を疑ってしまっている。森爺が言っていた『敵は身内にあり』という言葉が、俺の脳裏に焼き付いている。
俺は頭を振る。今はまず、レリアの従者から話を聞こう。そしてハンマーヒルに戻り、セリカと話をしよう。
「ウキキ! 来るであります!」とチルフィーが言う。俺は小さな指の先が差す方向へ視線を飛ばす。
「っ……!」
水のエレメントが体内の屍教の男をドロドロに溶かし、放出する。そのとろみのある液体は俺たちに向けられている。
「出でよ玄武!」
カメエエエエッ!
光の甲羅が液体を防ぐ。溶解液のようなそれはほら穴の地面一帯に飛び散り、ジューっと音を立てて岩や土を一方的に溶かす。
「おい! なんで俺たちを攻撃するんだよ!」
返事はない。ただの無機物に見える大きな水玉は静かに近づき迫り、体内の水の一部を手のように変化させる。
「くそっ……!」
水の手が伸びる。スピードはそれほど速くはなく、避けるのは容易い。しかし、青い軌道は視えない。目が無いので、当然と言えば当然かもしれない。
俺は右腕に左手を添え、水のエレメントに向ける。同時に、頭の上のチルフィーがすっ飛んでいく。
「おいバカ!」と俺は叫ぶ。チルフィーは水玉の前で止まり、浮かびながら両手を広げる。
「還るであります! ウキキは敵ではないのであります!」
永遠にも感じる時が刻まれる。神が勝負の一手を盤面に指して訪れたような刹那的静寂が過ぎていく。
「き、消えた……」
水のエレメントは文字通り霧のように姿を消し、あとには地面に落ちた水滴の染みだけが残る。
「さ、さすが上級精霊だな、チルフィー。お前の言うことに水の下級精霊は従うのか……」
「なるほどであります! そういうことでありますか!」
「こ、根拠があってやったんじゃなかったのかよ……。にしても、精霊士か。精霊術師が四大元素を具現化させて、それに因んで精霊術と呼ばれるだけに対して、精霊士は実際に四大精霊の力を扱うんだっけか。前に族長がそんなこと言ってたよな」
チルフィーは放物線を描いて俺の頭の上に着地し、「そうなのでありますか!」と言う。
「知らなかったのかよ……。まあいいや、レリアの従者のところに急ぐぞ!」
「了解であります!」
*
頑丈な鉄柵の前にペンダントを垂らすと、レリアの従者は礼の言葉を言ってからそれを静かに掴んだ。
それから騒ぎの原因を訊き、俺がそれに答えると、牢のなかの定位置に移動してから岩壁に沿って腰を下ろした。そこが唯一、平たい岩壁のようだった。
「この牢獄にそんな厳重な警備態勢が敷かれていたとは、知りませんでしたよ」
「ああ。俺も襲われたよ、チルフィーが止めてくれたけどな」
俺も前と同じ場所に座り、闇のなかのレリアの従者に顔を向けた。
「じゃあレリアの従者、ソフィエさんがどこに囚われてるか教えてくれ」と言うと、レリアの従者は乾いた小さな笑い声を漏らした。
「べつにそう呼ばれることに不快感はありませんが、僕はもうレリア様の従者ではありませんよ」
「ああ……。そうだな、ごめん」
「ウキキさんは知らないでしょうけど、僕の名は――」
俺は言葉を重ねる。
「知ってるよ。……ってか、思い出した。ジューシャルティオン・オバハ・ゲイボルグマッホだろ? 嫁さんは男と南の国に駆け落ちして、今は王都の魔法学校に通う6歳の娘さんを、男手ひとつで育ててるんだよな。俺とそう歳も変わらないのに、偉いよ」
闇のなかのシルエットが微動だにせずに、小さく笑った。すべてに諦めたような、すべてを閉ざしたような笑い声だった。
「偉かったら、こんなことにはなっていませんよ」とジューシャが言った。「確かに」と俺はスマホの充電を確認してから、ポケットに入れて言った。
「娘さんの面倒はレリアの家がやってくれてるんだろ?」
「はい。……パンプキンブレイブ家の方々には感謝の気持ちしかありません。僕が従者として働くようになってから、ずっとです。ですがウキキさん、もっと他に訊きたいことがあるのでは?」
俺は頷く。ジューシャが立ち上がり、こちらに近づく。俺たちを隔てる鉄柵はあまりに太く、あまりにも頑丈で、希望やその他もろもろの前向きな感情を、すべて殺すためだけに打ち付けられているように見える。
「ソフィエ様はファングネイ王都の西にある塔で幽閉されています。本当なら僕がソフィエ様をさらって、そこに連れて行くはずでした。トロール騒動やアラクネ騒動……あれもすべてはソフィエ様が狙いでした。混乱に乗じてさらう手筈でした」
*
「すべては、最初からソフィエさんを狙って屍教が仕組んだことだった……か」
俺はハンマーヒルに戻る道すがら、指先に垂らしたジューシャのペンダントを眺めながら呟いた。
言われてみれば納得できた。しかし、その理由は分からなかった。ジューシャも聞かされていないみたいだった。『貧しい者にも等しく三送りを行うソフィエさんが、屍教の理想の妨げとなる』ナルシードも俺もそう朧げに考えているが、本当にそれだけなのだろうか。
「まあ、いいか」と追加で呟く。コートのポケットのなかのチルフィーが、眠たげな声をあげながら外に出て来る。
「そのペンダント貰ったのでありますか?」
「いや、レリアの家にいる娘に渡してくれってよ。あいつ、最初からそのつもりだったんだな。俺たちが次に目指すべき場所を知ってて取りに行かせたっぽいぞ」
「なかなかの策士でありますね」
俺はボディバックの前ポケットにペンダントを入れ、代わりに主収納部から折れたダガーの柄を取り出す。
「これも渡せってよ。なんかジューシャの家に伝わる、ちょっとした逸品だったらしい」
「その逸品をなんでウキキが持ってるのでありますか?」
「あいつが捕まった時に持ってて、領主代理の婆さんが使えって言ったんだよ。んで、酒場の地下でウヅキと闘ってる時に折れたんだったかな……」
俺はそれをもう一度しまう。今まで扱ったどのナイフ類よりも手に馴染み、握りやすい。
「なあチルフィー」と俺は言う。チルフィーは返事をせずに、俺の頭の上に座る。
「北の大地って行ったことあるか?」
「ないでありますが、急にどうしたのでありますか?」
「いや、近いうちにジューシャはファングネイ王都で取り調べを受けて、それから北の大地に連行されるんだよ」
「そうでありますか。まだ未開の地が多い、凍てつく厳しい土地だと聞いてるであります」
チルフィーはそう言って、「やっぱり寒いであります!」と、再び藍色のコートのポケットに入る。
「厳しい土地か……。でも、領主はそこでエルフの女性と出会って恋をしたんだよな……。エルフの里や、大魔導士の館があるんだっけ」
チルフィーはなにも言わない。ただ、スヤスヤという寝息を俺の耳に届ける。
俺はポケットをつまんで広げ、その寝顔を見つめる。小さな頬っぺたを小指の先で突っつきたくなったが、我慢をする。
「急がないとな……。ソフィエさんを俺に救出させるために捕まった甥も、俺が出頭しないと北の大地送りになるしな……」
みたび呟き、俺は歩を運ぶ。
何はともあれ、とりあえずハンマーヒルの領主の屋敷に戻って、アリスの部屋で眠ろう。
その前になにか食べよう。もう領主の葬式は終わっているだろうが、出された料理の残りがどこかにあるだろう。
「そういや、俺はアリスの2号だっけか……。1号が誰か聞かなきゃな……」
更に呟き、果樹園を抜けてハンマーヒルに足を踏み入れる。
オレンジの香りはまだどこからか漂っていて、なによりも先に暖かいハニーオレンジを飲もうと、俺の心を支配する。
俺はふと、上を見上げる。
3つの月の独壇場が続く空で、少し控えめな流れ星が俺の視界を横切っていった。