番外編 海沿いの村で sideアリス
お母さまが幼い私を見つめていた。その隣でお父さまが肩を寄せ、微笑んでいる。
幼い私はその優しい眼差しに気付かずに、噴水の元でジェームズに夢中になっている。ジェームズが身をブルブルと振り、水飛沫が上がる。
私はその光景を遠くから眺めている。夢だということにすぐに気が付く。
お屋敷の庭。よく手入れされた芝生は青々としていて、定刻どおり作動したスプリンターの水を全身に浴びている。見慣れた風景がそこには広がっている。お父さまとお母さまを除いて。
お屋敷から出て来たお爺さまが中腰になり、プリティーリトルアリスの頭を撫でる。プリティーリトルアリスは振り返り、あまりにも可愛すぎる笑顔をお爺さまに届ける。幸せな時間が夢のなかで流れている。
私はお父さまとお母さまの元まで駆け寄る。だけれど、夢のスキップボタンを押してもいないのに、場面が早々に切り替わる。
森のなかの別荘の一室で、プリティーリトルアリスが絵本を読んでいる。周りには誰もいない。
その可憐な後ろ姿に影が迫る。影は段々と濃くなり、炎へと変わる。幼い私はそれに気付かずに絵本のページを捲り、竹刀を振り回すブタちゃんのイラストに心を奪われている。
炎がプリティーリトルアリスをゆっくりと囲む。カーテンが燃え、本棚が燃え、あっという間に部屋全体に火の手が上がる。
私は左手を突き出し、アイス・キューブを放つ。氷の塊が落下し、氷片が飛び散る。しかし、まるで干渉し合わない別次元の世界かのように、燃え盛る炎も墨に変わっていく床も、ほんのささいな影響すら見せない。
私はそれでも魔法を撃ち続ける。呆然としているプリティーリトルアリスに風の加護で飛び跳ねて近づき、手を伸ばす。
だけれど触れられない。私が幻なのか、それとも幼い私が幻なのか。あるいは夢の世界で触れようとすること自体が間違っているのか。私はどうすればいいのか考える。それと同時に、炎のなかにお父さまが飛び込んで来る。
お父さまはプリティーリトルアリスを抱きかかえ、炎の円から飛び出て行く。綿の焼き焦げた臭いが私の鼻先をかすめる。
私もその円のなかから大きくジャンプをして出る。そこにはお母さまがいる。
お母さまは炎に向かってなにかを言っている。しかし聞こえない。私の声も届いていない。私は早く逃げるように必死で促す。触れられない手を握ろうと、何度も何度も試みる。
お父さまが一人で戻って来る。聞こえない何かを言っている。お母さまの隣に立ち、その肩を抱く。お母さまは自分のお腹を守るように、手のひらをそっと当てる。私は声にならない声をあげる。
私は声にならない声をあげる。
その光景に愕然とし、夢の一時停止ボタンを探す。空中にあるかもしれないので、何ヶ所も手のひらで押してみる。手のひらは空中を突き抜け、夢のシーンが外からのものに変わる。
プリティリトルアリスが轟々と燃える別荘を見ている。その場面は私もよく覚えている。お父さまとお母さまが戻らぬ人となった火事の記憶だ。私を身をていして助け、二人とも死んでしまった悲しい記憶だ。
私一人を救出する為に、二人が亡くなってしまった計算の合わない出来事だ。私が一生、忘れてはいけないお父さまとお母さまの最期の刻だ。
「お父さま! お母さま!」
私は燃え盛る別荘へと駆け出す。足がもつれて転びそうになったけれど、それに耐えて走る。それが3回続き、4回目にはついには転んでしまう。だけれどすぐに立ち上がり、お父さまとお母さまを助けようと、上手く動かない足を前に出し続ける。
私は転倒する。起き上がり、走りながら泣き叫ぶ。
目の前で屋根が大きな音を立てて崩れ落ちる。炎がそのすべてを飲み込む。
*
目を覚ますと、私は泣いていた。
なにかとても悲しい夢を見ていた気がする。思い出そうとしても、それは霧の綿菓子のように、触れようとするたびに溶けてなくなっていく。
涙だけが夢の内容を覚えている。拭っても拭っても溢れて、頬を伝って零れ落ちていく。
ふとした切っ掛けで思い出すこともあるかもしれない。魔法少女サッキュンのサキちゃんが、過去のトラウマを消し去り、希望を抱く道しるべとなった、おばあちゃんとの幸せな夢のように。
私はベッドから起き上がる。隣にあの人の姿はない。昨日の夜、ゴブリン会議に参加する為にこの海沿いの村から旅立って行った。
私は彼の後ろ姿を思い浮かべる。意外と頼りになりそうな背中。お爺さまに勝るとも劣らない、暖かみのある後ろ姿。
ベッドの脇に置いてある赤いリュックに手を伸ばし、なかに入っている白いシャツを取り出す。あの人の臭いが充満している。私は優雅で高貴なシャム猫が日向ぼっこで太陽のエネルギーを充填するように、彼の臭いを存分に嗅いでから、扉を開けて部屋を出る。
居間ではアナとユイリが既に起きて、ソファーに座り会話をしていた。ユイリのお母さまがキッチンで朝ご飯を作っている。三人が私の方を向いて、一斉に朝の挨拶をする。私も返してから、洗面所に向かって顔を洗う。
食事が済むと、アナとユイリのお母さまは礼拝堂に向かい、そこで眠っている領主のお爺ちゃんに会いに行く。天国への旅路で困らないように、身支度を整えてあげると言っていた。私とユイリは後で来るよう告げられる。
そのあいだユイリが村を案内してくれると言い、私たちも続いて外に出る。
村の子供がチャンバラごっこをしている。私と同い年くらいだろうか。参加させてもらおうと、私はその元まで駆ける。すぐにユイリに止められる。
私たちは村の景色が一望できる高台に昇る。ユイリが礼拝堂を、左手で包んだ右手の人差し指で差す。海から風に乗せられて潮の香りが運ばれてくる。ユイリがニコッと笑い、私の髪の毛に着いた落ち葉を指でつまむ。落ち葉はまた風に乗り、自由に空を飛ぶ旅人となる。ユイリは悲しそうな顔で黄色い葉に視線を送る。
観光を終え、私たちは礼拝堂に向かう。なかに入ると、中央に置かれている棺が視界に飛び込む。
そのなかで、領主のお爺ちゃんが胸の上で手を組んで眠っている。真新しい背広を着ている。傍らに、青い宝石のネックレスが置かれている。ユイリのおばあちゃんの形見らしい。その優しい輝きは、もともとそこにあるのが当たり前であるかのように、お爺ちゃんを暖かく見守っている。
アナとユイリのお母さまが棺の蓋を閉じようとする。私はそれを少しだけ待ってもらい、天国のような美しい風景が描かれている天井に向けて両手を掲げる。
「カーバンクルちゃん! いらっしゃい!」
両手の先に光の輪っかが現れる。そのゲートを通って、フェレットのような姿のカーバンクルちゃんが顕現する。
ゲートが二つに別れて私とカーバンクルちゃんの頭の上に移動し、天井画の天使の頭上に浮かぶ輪のように燦然と輝く。
領主のお爺ちゃんから貰った色々なもの。私はそれの一つであるカーバンクルちゃんに、お爺ちゃんを紹介する。カーバンクルちゃんは首を傾げる。額のルビーは、そんな表情と違い、まるで全てを見通しているかのように赤い光を放っている。
私は領主のお爺ちゃんが組んでいる手に触れる。
「あなたの弟子であるプリティー大魔導士精霊術師大召喚士アリスは、お爺ちゃんが教えてくれた沢山の想いを胸に、それとお爺ちゃんがくれたカーバンクルちゃんとともに、これからも楽しく異世界冒険するわ! 天国でおばあちゃんと手を繋いで見ていてちょうだい!」
棺の蓋が閉まる。私の目から零れる涙を、カーバンクルちゃんが不思議そうに見つめている。
次に領主のお爺ちゃんと会えるのは、葬儀で別れ花を棺のなかに入れる時。
押し花も添えてあげよう。お爺ちゃんは水葵を気に入っていた。
きっと天国で喜んでくれるだろう。きっと私がお婆ちゃんになって会いに行った時、その青い押し花を片手に持ちながら、優しい笑顔で私の頭を撫でてくれるだろう。
私は馬車に乗り込む。翔馬がヒヒーンと鳴いてから、海沿いの村を飛び立つように駆け出す。
客室のなかにはアナがいる。ユイリがいる。ユイリのお母さまがいる。領主のお爺ちゃんがいる。
そして、私の膝の上で丸くなっているカーバンクルちゃんがいる。「アリス殿、ずっと召喚していて疲れないのか?」とアナが言う。
「確かに、なんだか疲れてきたわ。このゲートから私のマナがカーバンクルちゃんに供給されているのよね」
私は自分の天使の輪に触れようと手を伸ばす。手のひらが空中を突き抜ける。
なにかを思い出しそうになる。霧のような綿菓子が一瞬私の目の前に現れ、そしてすぐに儚く消えていく。
「カーバンクル、とても可愛いですね」
モフモフの尻尾を触りながらユイリが言う。私は両手を腰に当てる。
「あらためて紹介するわ! アリス親衛隊1号のカーバンクルちゃんよ! 額のルビーが敵の攻撃を跳ね返してくれるのよ!」
ユイリが薄紫色のサイドテールを揺らしながら、「賢い子なんですね!」と言って、感心するように何度か頷く。「あれ、でもアリスちゃん。ウキキさんもアリスちゃんが無意識で召喚した人なんですよね? じゃあ、ウキキさんは何号なんですか?」
私は腕を組んで考え込む。確かに、あの人もアリス親衛隊に任命してあげないと可哀そうだ。3等兵が相応しいかしら。だけれど、それだとステファニーと被ってしまう。ここは素直にアリススペシャルズの番号を与えてあげよう。うふふ、喜びすぎて私の計算ドリルを代わりにやってしまうわね。
私は言う。
「あの人は2号よ!」
早く会いたい。領主のお爺ちゃんの葬儀が終わっても戻って来なかったら、私がゴブリン討伐の地に会いに行こう。8時ちょうどのアリス2号に乗って。