165 二人だけのショッピングモール
噴水の水面に幼女が立っていた。緋色の瞳が俺を捉え、クルリと身体ごと振り向く。
銀色の長い髪が舞うように追従し、少し遅れて幼女のかかとを被う。足は初めて陽の下に出て来たんじゃないかと思うほどに白い。
「あれ……。俺いつの間にか寝ちゃったのか?」
いたはずのチルフィーはいない。縁に置いてあった包帯や容器も見当たらない。ショッピングモールの噴水の元には、俺と幼女――ルナだけがいる。
「リアを助けてあげて。四の月がこの惑星に最も近づく、円卓の夜までに」
ルナは俺の質問には答えない。俺は白昼夢のようなものかと納得しておく。
「ああ、助けるよ。月の神殿で泣いてるんだろ?」
ルナは頷く。「で、お前たちはやっぱり双子の月の女神なのか?」と俺は訊く。
「あら、最初にそう言わなかった?」
「言ってねーよ……。まあ、それはいいとして、俺とアリスをこの異世界に転移させたのもお前なのか?」
口元に笑みを浮かべてから、ルナは飛び跳ねて石畳の上に着地する。水面は一つの波紋すら広がらずに、ただ静かに佇んでいる。
微笑みの跡を残したままルナは言う。「あなたを送った覚えはないわ。あなたを召喚したのは園城寺アリスでしょ」
俺は一歩近づいてから頷く。ルナは一歩下がる。
「じゃあ、アリスを呼び寄せた理由はなんなんだ?」
「だから言っているじゃない。リアを助けてあげて」
俺は一歩半近づく。「その為にか?」
ルナは一歩半下がる。「その為によ」
俺は月の迷宮の扉へと続く階段に目を向ける。石畳を粉砕して発見したその階段には、まだ撤去していない小さな石塊が転がっている。
「ショッピングモールごと転移させたのはなんでだ? 月の迷宮が噴水の下にあるからか?」
「噴水の下に月の迷宮があるのではないわ。月の迷宮の上に噴水があるのよ」
俺はその言葉遊びのようなものについて考える。答えはすぐにでる。
「月の迷宮は元々この地にあったってことか……」
「そういうこと。その上にこの巨大建造物があるだけ」
「そうなのか……。でも、月の迷宮とショッピングモールは色々とリンクしてる気がするけど、それはなんでだ?」
「さあ」と言いながらルナは首を振る。「それは知らないわ」
「知らないって……。お前が転移させたんだろ?」
「そうだけど、私はあるがままに転移させたに過ぎない。最初に転移させたのはリアだから」
ルナは続けて口を開く。ショッピングモールの天井から射す陽が、噴水の水の中のルナリアの葉を照らしている。葉が銀のコインのように輝く。
俺は太陽のような恒星の位置がまったく変わっていないことに気が付く。まるで俺とルナ以外の時が止まっているかのように、すべてが動きを停止して、俺たちの会話に聞き耳を立てている。
「リアは、この巨大建造物ごとあなたと同じ世界の人間をこの世界に転移させた。なんでこの地に。そして、なんでこの巨大建造物なのかは私にはわからない。だけど、なにかがあってリアは月の神殿に閉じ籠ってしまい、なにかがあってこの巨大建造物は一度この世界から姿を消した」
ルナはそこで切り、銀色の髪を揺らしてジャオンの方向に視線を向ける。そして小さな音とともに息を吸い込む。女神なのに呼吸が必要なのかと思うと、なんだかおかしくなってくる。
「だから、私はもう一度この巨大建造物ごと園城寺アリスを転移させた。リアを助けて欲しいから。それは私にはできないことだから」
俺は二歩ルナに近づいて、「なんでアリスなんだ?」と訊く。
ルナは二歩下がって、「あの日あの時あの場所にいた人間のなかで、リアを助けられる確率がもっとも高かったから」と言う。
「マナがエグいからか……」
「そうね。召喚士の才覚があったのは想定外よ。私には一人を転移させるのが限界だったけど、あなたを召喚して付き従わせたのは儲けものだったってところね」
俺はその場でクラウチングスタートの構えをとり、思いっきりダッシュしながら「付き従ってはいない」と言う。
ルナはそんな俺から後ろ走りで距離を取り、「あら、そうなの」と言う。
「おいコラ! なんでさっきから俺と一定の距離を保とうとするんだ! 俺そういうのかなりショックなんだけど?」
「それが神にとってあるべき姿だから。付かず離れずが正しい神の在り方だから」
俺は立ち止まる。ルナも立ち止まる。
「だけど、リアは近付きすぎてしまう。だから傷ついて泣いてしまう」
ルナが泣いている姿を想像する。そうしてから、リアという双子の妹に置き換える。双子というぐらいなので、外見はあまり変わらないだろう。オウティスが言っていた『チビ』とは、リアのことなのだろうか。
「さっき前の転移者と会ったけど、そいつとリアになにかあったのか?」
「それも私にはわからない。だけど、複数人と一緒にこの巨大建造物で過ごしていたことはわかる」
「複数人……具体的な数はわからないのか?」
ルナは首を振る。
「ここからだと私の力は限られてしまうし、細かいことまではわからない」
「ここからって……どこにいるんだお前? それに、そもそもリアが最初にショッピングモールごとオウティス達を転移させたのはなんでなんだ?」
ルナは視線を上に向ける。ショッピングモールの天井ではなく、そこから覗く空の様子でもない、なにかを見つめている。その空間にヒビが入る。
俺の質問には答えずに、リアは言う。「もうすぐあなたの白昼夢が醒める。多分、あなたとこうして話ができるのはこれが最後。お願い、リアを助けてあげて」
「助けるよ。助けたいけど、今いろいろと立て込んでるんだ。……それが終わったら絶対に助けるから、安心してくれ」
「あなたと園城寺アリスは深くこの世界の人と関わってしまったのね。それは構わないわ、円卓の夜までに助け出してくれれば。だけど、もしそれが出来なかったら――」
ルナの瞳から光が消える。ただのガラス玉のように変わり、ただ物理的にその硝子が俺に向けられる。その緋色は、殺意の赤い眼よりも暗くて冷たい。俺は息を飲む。
「それが出来なかったら、あなたを殺さなくてはならない。あなたが大事に想っている人を。そして、あなたが大事に想っていない人々を」
俺は思わず後退りをする。ルナはすぐに前進し、俺との距離を一定に保つ。
自分が呼吸していないことに気が付く。肺が酸素を求めて脳に緊急信号を送る。しかし、俺の身体はそれを受け付けることができない。
「全員殺す。人も亜人も、精霊も化物も。死ビトは……そうね、定義からは外れるかもしれないけれど、それでも殺す。なにもかも殺す。花も鳥も風も月も殺す」
*
俺は和室で身支度を整える。スーツを脱ぎ捨て、ジーンズと白いシャツを着る。その上に、藍色の薄手のコートを羽織る。腰のベルトに装着したケースに、ビイングホームでゲットした小さなナイフを3本入れる。その隣にはゴンザレスさんから貰ったミドルノーム兵団のダガーが鞘に収まっている。
ボディバッグのなかには、新しく作った噴水の水の包帯がいくつも入っている。その他にも色々と。俺のクラフター魂を揺さぶるバルーンアート用の風船も、その他に属している。
「準備できたでありますか?」とチルフィーが言う。俺は返事をしてからブーツを履き、和室を後にする。
「それにしても、急にウキキが噴水の元で固まったので驚いたであります!」
「ああ、心配かけて悪かったな。もう大丈夫だから、早いとこハンマーヒルに向かおう」
「なにかあったでありますか?」
俺は白昼夢のなかでルナと交わした言葉を思い出す。ルナの緋色の瞳を思い出す。「いや、なにもないよ、早く行こう」
北メインゲート前のエントランスホールに着く。忘れ物はないか少し考え、ないことを確認し、ジーンズのポッケからゲートの鍵を取り出す。取り敢えずで付けたドクロのキーホルダーに視線を移す。なんだか縁起が悪い気がするので、外してからベンチの上に放り投げる。
「さあさあ出発であります!」
俺はチルフィーのあとに続き、ゲートから外に出る。ゲートを閉じて鍵穴に鍵を挿す。鍵を回そうとすると、不意になにかに手を掴まれたように、その動作が止まる。
「っ……!」
ゲートのガラス越しにショッピングモールのなかを見る。作動していない自動販売機を見る。『マジック・スクウェア』と大きく書かれた、地図の看板を見る。観葉植物を見る。ベンチを見る。その上にあるドクロのキーホルダーを見る。
「どうしたでありますか?」
「……いや」
俺は言いようのない不安に襲われる。もう二度とここに戻ることはないような感覚が、何匹もの蛇となって、俺の身体を這いずり回る。緋色の舌が伸び、緋色の目がギラリと光る。
「ウキキ!」
チルフィーが俺の頭の上に着地する。優しい風が俺の全身を包む。
「いや……。大丈夫だ、なんでもない」
俺は右手に力を込める。鍵が回り、ガチャッという音がする。
気のせい……だよな。
俺はチルフィーを頭に乗せたままゲートに背を向ける。重い一歩を踏み出し、歩を運ぶ。
ハンマーヒルに戻ったら、すぐにレリアの従者と会って屍教の情報を訊きだそう。
そして屍教に連れ去られたソフィエさんを救出しよう。チルフィーの為にも、なにがなんでもスプナキンをシルフの隠れ家に連れて帰ろう。オウティスに会ったらしばこう。
それら全てが終わったら、月の迷宮を攻略して泣いているリアを救おう。そしてルナを安心させてやろう。そのあとにチョップを一発食らわそう。
でも、その前に、アリスを力いっぱい抱きしめよう。嫌がっても力とテクニックでねじ伏せて、満足するまでこねくり回そう。ぱっつん前髪をめくって、オデコにチョップを食らわそう。そしてチョップを食らってやろう。
「よしっ!」と俺は声を張り上げる。
「チルフィー! 覚悟はいいか!?」
「もちろんであります!」
チルフィーはフラフラと飛び立ち、俺の前で静止してから拳を突き出す。俺はその拳に自分の拳でチョコンと触れる。
「俺もだ! さあ行こう!」
この先に、なにが待ち受けていようとも――
『三部 おしまい』