159 終わりゆくデュオ
「じゃあ、わたしはこの翔馬を厩舎に預けてから酒場に向かうわ。ナルシードが待ってるのよね」
「ああ、そのはずだ。酒場の場所はわかるか?」
セリカは首を横に振る。しかし、「この時間でも開いている店なんて他にはないから、だいたいわかる」と口にして、翔馬を引いて厩舎へと向かって行った。
俺はその姿を見送ってから、領主の屋敷へと急いだ。幸いこの異世界には信号はない。行く手を遮る三人組の大男も見当たらない。俺は煩わしい赤い光に邪魔されることなく、全力で夜明け前のハンマーヒルを走った。
領主の屋敷の門衛さんに会釈をすると、俺の顔を覚えてくれていたらしく、何事もなく門を通して大きな扉を開けてくれた。年配の男性だった。アリスやアナは数時間前に海沿いの村から戻ったと教えてくれた。特に変わったことはなく、全員ケガもしていないと、玄関先の呼び鈴を鳴らしながら俺の問いに答えてくれた。
門衛さんが外に出て扉を閉めた直後に、アナの従者がやってきた。灰色のレザーコートは皺が目立ったが、俺はそれよりも優先すべきことを告げた。
「アリス様が狙われている?」
「はい、屍教の男のメモにきっちりそう書いてありました。アリスは上で寝てますか?」
「ええ、たしか、突き当りの部屋で――」
アナの従者が言い切る前に、俺は階段まで駆けてそのまま上った。寝室は三階なので、二段飛ばしで駆け上がった。どんなに急いでも急ぎ足りなかった。今すぐアリスの顔が見たかった。
俺は滑り込むようにして突き当りの部屋のドアノブを掴み、勢いよく開けた。ノックはしなかった。
「アリス!」
「ヒッ……!」
視界の真ん中で、薄紫色の髪をした女性が着替えの手を止め、顔を紅潮させた。真っ白のネグリジェに美しい身体のラインが浮き出ている。
「あっ……すいませんでした!」
俺は謝りながらドアを閉め、踵を返す。
くそっ……逆側の突き当りの部屋かよ!
走りながら、今のは誰だったのかという疑問が芽生える。と同時に、強い既視感に襲われる。
しかしアリスの無事をこの目で確かめるまでは、余計な考えを巡らせるのは止めておいた。
*
前髪ぱっつんバカはベッドでブリッジをして眠っていた。可愛らしいヘソが飛び出ている。俺はお腹が冷えないように、ピンク色のパジャマの裾を少しだけ引っ張った。しかし、それでもすぐにずれ落ちたので、諦めて跳ね飛ばされている毛布を首元から掛けてやった。
「ウキキ殿、ブリッジはスルーか」
うしろから小さな声が聞こえた。振り返らずとも、その落ち着く綺麗な声はアナのものだとわかった。
俺はただいまとおかえりを続けて言った。アナはおかえりとただいまを続けて返した。
「で、ブリッジな……。たまにコイツ、寝てるうちに自然とこうなるんだよ。園城寺家の帝王学の一つで、身体が覚えてるんだとさ。強くたくましい子に育つらしいぞ」
「ほう。領主様も昔、似たようなことを仰っていたな。オンジョージとは、アリス殿の姓か?」
「ああ。因みに俺は三井……どこに行くんだ。俺の名字に興味ゼロか」
アナはそっとドアを抜け、絵画やへんてこなツボが並んでいる廊下で立ち止まった。俺の背中のボディバッグが揺れた。クリスが自ら飛び出し、アリスのベッドの脇で小さく丸まった。
俺はふたりの寝顔を目に焼き付けてから、アナが待つ廊下へと歩いた。ドアは開けたままにしておく。
「アリス殿も長旅で疲れている。起こしてしまったら可哀そうだ」
「そうだな……。領主の葬儀は明日か?」
「ああ、明日にはミドルノーム城から領主代理も戻る。領主様の最期も見届けずに、あの人は城でなにをやっていたんだかな」
アナは語気を強めた。目は充血していて、さっきまで泣いていたことが一目でわかった。俺は気が付かない振りをして、窓のわきを一直線に落ち進む水滴を指先で止める。
「アナ、疲れてるところ悪いんだけどさ」
俺はネクタイの先で濡れた指先を拭いてから、これまでに起こった事、そしてこれから起こるかもしれない事をアナに話した。
*
アナは二回ほど驚きの表情を浮かべた。一度目はアリスを殺せという屍教のメモの話に。そして二度目は、ミドルノーム兵団長が屍教で、ソフィエさんをさらったという事実に。
そのどちらも驚きの声は絞っていた。夜明け前なので、無意識で気を使ったのかもしれない。
「それが本当なら……いや、事実なのだな。これからミドルノームはますます立場が悪くなるぞ」
「兵団のトップがあんなことを仕出かしたら……まあ、そりゃそうか」
アナはアゴに添えていた手を降ろし、ヴァングレイト鋼の剣――オウス・キーパーの柄へと伸ばして軽く握る。
「それより、今はアリス殿の方が心配だ。屍教がアリス殿を狙う心当たりはあるのか?」
俺は、「いや、全くない」と言う。
「そうか……。ソフィエ様を連れ去り、アリス殿を殺そうとする……。その行動になにか繋がりはあるのだろうか?」
「見当もつかないな。まあ、ナルから話を聞けばなにかわかるかもしれない」
「そうだな。アリス殿の警護は任せろ、ウキキ殿は安心して酒場へと急いでくれ」
俺は頷いてから、アリスの部屋へと足を運んでその顔をもう一度だけ見つめる。目に焼き付けておいたはずだが、そのネガとはまた違う寝顔をしている。
筋の通った鼻の先がピクッと動く。俺はもしやと思い、その小鼻に喉仏の辺りを近づけてみる。すると案の定、アリスは寝ながらも鼻の穴を大きくし、クンクンと激しく動かす。
「な、なにをやっているんだウキキ殿……」
「いや、コイツ面白いぞ。寝てるくせに俺の臭いを嗅いでやがる。ああ、幸せそうな寝顔だ……」
「確かに面白いが、それ以上にウキキ殿の行動が気持ち悪いぞ……」
心ないアナの一言に傷つきながらも、俺はアリスのほのかに赤い頬を軽く突く。耳たぶを指先でつまむ。小さなおでこの湾曲を人差し指でなぞる。そして、今度は革靴を脱いでその臭いを嗅がせてみる。「うーん」と唸りながら、アリスが顔をしかめる。
「ウキキ殿、心配なのはわかるが、事の究明を急ぐためにも早く酒場に向かえ。アリス殿はなにがあっても私が守り抜く。こんな状況で難しいかもしれないが、わたしを信頼してくれ」
「いや……お前を信頼せずに誰を信頼しろって言うんだよ」
俺は革靴をなるべく音をたてないように床に置き、そして履く。
「じゃあ任せたぞ。屍教には姿を消す奴もいる、そのまま行動できるかはわからないけど十分注意してくれ」
アナは頷く代わりにオウス・キーパーを少しだけ抜く。僅かな月あかりが白銀の刀身に反射する。
俺は“まだ”傷痕のないアリスのおでこに触れる。
未来アリスの金色の前髪の下にあった一文字の裂傷の痕。あれはいつか必ず、この箇所に寸分の狂いもなく付くことになる。
そして、俺とアリスは離ればなれになる運命にある。交錯するメロディーはやがて遠ざかるサイレンの音のように、一枚の楽譜からこぼれて別の楽曲を奏でる旋律となる。
そのどちらも断じて容認することは出来ない。しかし、それでも否応なしにその未来はやってくる。俺は領主の屋敷を出て門衛さんが立つ門へと歩く。会釈をすると、優しい微笑みが返ってくる。
「今がその未来の始点じゃないよな……」
開けてくれた門を抜けながら俺は小さな声で呟く。「どうかしましたか?」と、門衛さんが眉をひそめる。
「あ、いえ、なんでもないです。夜通しの警備お疲れ様です」と言ってから、襲撃者が来るかもしれないことを告げる。その途中で、アナの従者が詳しい話をしにやってくる。
俺は二人を激励し、二人から激励され、その言葉を追い風にしてナルシードやセリカが待つ酒場へと走り出した。