158 おやすみララバイ
セリカの表情にそれ程の変化は見られなかった。
その反面、俺とゴンザレスさんは若干の戸惑いや溢れる疑問を存分に顔に浮かべた。
「お、お前が元屍教……?」
首の無い死体へと手を伸ばしているセリカを視界の中央に捉えたまま、俺は言った。
死体を黒いモヤモヤが覆っていた。それは今すぐにでも四の月に送って四併せにしてやろうという、何者かの意思のようにも見えた。
「元……なんじゃな? 今は違うということじゃけな?」
その事実に早急に対応し、顔色を戻したゴンザレスさんが言った。
「わたしが屍教にいたのは10年も前のことよ。刻まれた黒薔薇の刻印や脳の奥に根付く概念は消えないけど、今はファングネイ王国の兵士で、ともに戦うみんなの仲間であるつもり」
「そうじゃな……ワイだって元グスターブ皇国の人間じゃが、今はミドルノームの兵士じゃけえ。セリカもウキキも、みんな仲間じゃ」
ゴンザレスさんが自らのスキンヘッドを叩いた。とてもいい音が辺りに響いた。俺はその音色を肴に、真っ暗な空で燦然と輝く二の月を見上げる。
「ああ……。俺だってそうさ、みんなとは違う世界で生まれ――」
「ちょっと血、借りるよ」
「おい! 俺にもいい感じのことを言わせろよ!」
セリカは俺の肩から流れ落ちる血液に小さな紙片をあてた。治癒の類ではなさそうだ。
「いってぇ……」
俺はそう言えば突き刺さっていた矢をせーので抜き、治癒気功を施してから噴水の水の包帯を自ら巻き付ける。
「ごめん、先にあんたの怪我を心配するべきだね、わたしを守ってくれたのに。わたし、そういう当たり前の感情が希薄なの。悪気はないから謝らないけど」
「いや、最初に思いっきり謝ってたぞ……。それより、なんなんだその紙は」
紙の切れ端をセリカはこちらに向ける。俺の血がべったりと満遍なく塗られている。
「屍教が使う情報伝達の一つ。これは外部に知られたくない内容を記す場合に用いられるわ」
「なるほど、血液に反応する文字……ってことか」
セリカは指先に付いた俺の血をショートパンツの裾で拭う。思っていた以上にガサツな奴みたいだ。
やがて、青い文字が発光して短い文章を形成する。
「ルミノール反応……みたいなもんか?」
俺は元の世界の警察捜査などで用いられる液体を思い浮かべながら言った。その直後、書かれている内容を脳が認識する。
「アリスを殺せ……?」
発光文字は暫くすると血とともに色褪せ、完全に消えて一枚のくたびれた紙へと戻った。
*
「じゃあゴンザレスさん、行ってきます。翔馬の調達ありがとうございました。それと今更ですが、俺を襲った屍教の傭兵を断定してくれてた事も感謝してます」
「ウキキが襲われる前に捕まえたかったんじゃがのう……。翔馬はミドルノーム兵団のものじゃ、ハンマーヒルについたら厩舎の者に預けてくれればええけのう」
了解しました。と言ってから、俺はゴンザレスさんとガッチリ握手をする。そして手綱を緩やかに握り、中継地を後にして真夜中の平原を翔馬で駆る。
「強くしがみ付きすぎ。ここぞとばかりに胸を触ろうとしないで」
少し間違えたかもしれない。真夜中の平原を翔馬で駆るセリカの後ろで必死に落とされないようにしがみ付く。
「で、アリスって誰なの?」
「俺と一緒に……厳密には違うけど、まあ一緒にこの異世界に転移した11歳の客観的にみて可愛い女の子だよ」
「そう。あんなに血相を変えて今すぐハンマーヒルに戻るって喚いてたし、よほど大事な子なんだね」
「わ、喚いてたかな……」
翔馬がスピードを落とさずに坂を駆け下りる。俺は慣性の法則に逆らわずに、身体をセリカにより密着させる。
「だから、くっつきすぎだってば」
「仕方ないだろ! いいからちゃんと前を見ろ!」
「乗っけてもらって図々しいね。あんた、やっぱりモテないでしょ」
「モテる! キッスしたことだってある!」
俺は「それより」という接続詞を口にしてから続ける。セリカはふむふむと言いながら頷いている。
「ソフィエさんをさらった屍教を追う最中に、お前は馬車に乗り込んで来た。……友達の為って言ってたけど、違うんだろ?」
「違わないよ。わたしは本当にあの子の為のリサーチであんたと行動をともにしてるの。まあ、わたしの過去を知ってる兵団長があんたのサポートをしてやれって送り出したのは事実だけど」
「ファングネイ兵団長が……」
「信頼されてるよ、あんた。それに答えなきゃね」
俺は頷く。翔馬が飛び跳ねて低い岩を越える。
「もう一つ聞くぞ。お前はさっき、『脳の奥に根付く概念は消えない』って言ってたけど、概念ってなんだ?」
「概念は概念。『四併せこそが人の幸せ』という思想のようなもの。……わたしは、とても大事な人が死んだら、死ビトとしてでも戻って来てもらいたいと思ってる」
「ああ……。まあ、分からないでもないな」
セリカは小さく振り向き、俺の目を一瞬だけ見てから視線を戻す。
「分からないでしょ? 話を合わせようとしないで」
「いや、少しだけ分かるよ。俺もゾンビ映画とか見て、あとで人に戻れるかもしれないんだから、収容所にでも纏めて入れておけばいいのにって思った事があるしな。……まあ、でも実際に目にしちゃうと本能的に畏れて、存在ごと否定したくなるけどな」
「なによそれ。やっぱり分からないんじゃない」
「こだわるな……。じゃあ、少しも分からないって事にしといてやるよ」
セリカは急に黙り込む。彼女との付き合いはとても短いが、こういう時は考え事をしているはずだ。俺も倣って思考を巡らせることにする。アリスの太陽のような笑顔が目の前に躍り出る。
頼む、無事でいてくれよ……。
体温が少しあがる。俺の身体に住まう幻獣が熱を帯びる。『アリスを殺せ』という紙片にあった青く光る文字が媒体から離れ、俺にまとわりついてグルグルと周る。ゆっくりと、しかし着実に、その文字は段々と大きくなっていく。
俺は頭を強く振って、狡猾な蛇のようなそれを消し去る。だが、すぐにそれは再び現れる。今度は10匹に増えている。
くそっ……なんで屍教がアリスを……!
あり得ない。あってはならない。誰かがあいつを殺そうと考えているというだけで、俺の脳と身体がV型8気筒エンジンを掛けたように大きく鼓動し、そしてそのエネルギーは電気信号となって体内を駆け回る。
俺は震える右手を震える左手で押さえ込む。『アリスを殺せ』なんていう思惑はあってはならない。そんなことを考えるだけで、宇宙はそいつを許さないし、俺もそいつを決して許さない。
――うぬ、落ち着くのじゃ。
クリス……起きたのか。……身体に異常はないか?
俺の股の間で丸まっているクリスが欠伸をしてから、肉球の色を確認するように小さな顔の前に浮かばせた。ちゃんとピンク色で安心したのか、そのままゆっくり丹念にペロペロと舐めまわしてから、再び幼体にしては大人びた声を俺の脳内に響かせる。
――うぬが思い描いているこれからの道筋を話せ。出来るだけゆっくりとじゃ。
お、俺が思い描いている……って、お前は大丈夫なのか? 俺から離れてる間になにがあったんだ!?
――今はそんなことはどうでもよい。それよりも気を落ち着かせろ。雑念を振り払え。その娘のくびれを撫でまわす手を止めよ。うぬがこれからすべきことだけを思い浮かべ、そして話すのじゃ。
いや、撫でまわしてねーよ……。でも、そうだな。今のうちにこれからの立ち回りを考えとかないとな……。
俺は目を瞑って集中し、クリスとふたりだけの空間を形成する。
風の音がやみ、ときおり地に着く翔馬の足音がなくなり、千まで増えていた青く発光する蛇がいなくなる。
まずはハンマーヒルの領主の屋敷に急行して、アリスの無事を確かめる。と、脳内のホワイトボードに書きだす。それを赤ペンを使って四角く囲み、フローチャートのように矢印を引っ張ってそのあとのことを記入する。『アリスが無事ではなかったら』という側の矢印は書かないでおくことにする。
それから、アナたちに厳重なアリスの警護を頼んで、ナルシードが待つ酒場に行って情報を共有する。
俺は矢印をひく。
ショッピングモールにいちど戻って、ショッピングモールHPを回復したり包帯の補充をしたりする。
クリスが咥えたペンで矢印をひく。
レリアの従者が収監されている場所に行き、なにがなんでも知っていることを吐かせる。
俺は米印を書いてから、その後ろに、『レリアの従者は死霊使い、屍教と繋がっている可能性大。黙秘を貫いているが、近いうちにファングネイ王都へと移送される。そうなる前に接触しなければならない』と書き記す。
成り行きで順番が入れ替わったりするかもだけど、とりあえずここまでだな。とクリスに語り掛ける。
順序どころか、何が起こるかわからないので全く別のホワイトボードになるかもしれない。だが、屍教に連れ去られたソフィエさんを救出する為に、今はこの道筋を辿ることに集中しよう。
――落ち着いたようじゃな。では、わらわは寝るとする。
ま、また寝るのかよ……。どこか悪いのか? 外傷のある部分は包帯巻いたけど、まだ痛いところあるか? ってか、マジでなにがあったんだよ?
――何もない。ボブゴブリンの強襲に乗じて白髪の男と兵装の男が送り人の娘を拉致し、その愚か者どもを食い殺そうと襲い掛かったら、ただ返り討ちにあっただけじゃ。
か、かなり色々あったな……。大丈夫か?
――わらわは弱い。うぬはわらわを相棒と呼ぶが、わらわは脆弱じゃ。
クリスはそっと目を瞑る。俺は閉じられた瞼を見つめながら語る。
仕方ないだろ、まだ幼体なんだから。それより、ソフィエさんを守ろうとしてくれたお前を、俺は誇りに――
――わらわは弱い。それは幼体だからではない。うぬはわらわが成長したらフェンリルになり前髪ぱっつん娘の召喚獣としてともに歩むと思っているみたいじゃが、それは絶対にない。何故なら、わらわはフェンリルではない、フェンリルは祖母ただひとりじゃ。わらわは大狼の父上と大狼の母上のあいだに産まれた、ただの大狼じゃ。
独白が終わり、俺とクリスを囲む空間が音を立てて崩れる。
向かい風が俺達を刺すように吹く。クリスが瞳を開く。
――ガッカリしたか?
いや……別にガッカリなんかしてねーよ。お前はお前だろ。それに、ただの大狼って言っても、それだって十分強いだろ。
――嘘じゃな。うぬはフェンリルとともに飛来種アラクネを打ち倒した時のことを思い浮かべておる。フェンリルの戦闘能力をわらわに期待しておる。阿吽の呼吸でともに戦ったことを楽しかったとさえ思っておる。
う、嘘じゃねーよ……。まあ、ガッカリしたというよりは、当てが外れたというか……。でも、例えお前が弱いとしても、俺はお前が大好きなんだ。戦闘能力にガッカリすることがあったとしても、お前自身にガッカリすることなんてこれから先もないよ。……どうだ、嘘か?
――知らぬ。どうでもよい。わらわはうぬも前髪ぱっつん娘も大嫌いじゃ。
嘘だな。俺の思考がお前に筒抜けなように、お前の考えだって少しは俺に伝わってるんだぞ。なかなかのツンデレだよ、お前。
俺は尻尾を振らないように耐えているクリスのお尻をポンポンと叩きながら、そう語った。
――黙るのじゃ愚か者。わらわは疲弊しておる、眠りの邪魔をするでない。
じゃあ子守唄でも歌ってやろうか? 相棒。
語りは返されなかった。俺は小さなクリスの頭を撫でた。
とても暖かかった。なので、暫く手のひらをそこに置いておくことにした。
やがてセリカの駆る翔馬がトールマン大橋を越え、俺達はハンマーヒルへと足を踏み入れた。