148 ファングネイ兵団長は角刈りを好むみたいだ
秋晴れの空にひつじ雲が浮かんでいた。
空気は少し冷たく、せっかちな冬の匂いが鼻先を掠める。
これからどんどん寒くなりそうだ。ショッピングモールも冬仕様という事で、厚手のコートやダウンジャケットの入荷を願いたい。
「ショッピングモールの魔法スキルでなんとかならないかな……」
俺は他力本願を一つ呟き、停車中の馬車からボディバッグを背負って降りた。
前にも訪れたゴブリン討伐の本陣だが、中継地と同じくこちらも人の姿があまりなかった。
しかし、その数少ない人影のなかで、唯一に近いであろうこの地での馴染みある姿を瞳が捉えた。
「ソフィエさん!」
赤いショートボブがふんわりと舞い、柔らかい微笑みがこちらを差す。
巫女装束の袖から伸びる手が振られ、赤いシュシュが静かに揺れた。
「早かったねウキキ!」
行燈袴と草履という走るには適していない恰好だが、それでも時代劇の町娘のように短い歩幅で懸命にソフィエさんは駆けて来た。いや、町娘というより、その美しさや溢れる気品はどこかの国のお姫様のようにも見える。
しかし、その美貌と丁度いい大きさのお胸様に目を奪われながらも、俺は一つ疑問を口にする。
「あれ、早かったって、俺が来るって知ってたのか? そういえば馬車を待ってたみたいだけど」
「うん、アナさんから文鳥が届いたんだよ!」
「ふ、文烏……伝書鳩のようなものか」
俺は手をアゴにあて、この異世界の伝達手段に関心を寄せる。と、逆の手が急に引っ張られ、ソフィエさんの麗しい唇が上下した。
「考えてる暇はないよ! 早くファングネイ兵団長さんの所に行かないと!」
ソフィエさんは走り出す。手を取られている俺も当然、無理やり駆け出す事を余儀なくされる。
女子と……それも飛びっきり綺麗で可愛いソフィエさんと手を繋ぎながら、ゴブリン討伐の本陣を疾走する俺。やはりモテ期到来だ、間違いない。
幸せな100メートル走が終わり、握られていたソフィエさんの手が小屋の扉に伸びた。
俺は開けられた先を覗き込む。中には古びたソファーや縦長のテーブルが置かれており、その上に大きな地図が広げられていた。
「おや、ソフィエ様……その男が例の?」
白髪の中年男性が言った。ソフィエさんは頷き、「そうです!」と答えてから奥に佇む扉に目を向ける。
「ファングネイ兵団長さんは中ですか?」
「ええ、兵団全体の黙祷が終わってからも、一人で引き続き行っているようです」
「そうですか、仲良しでしたもんね……」
瞳に悲しみの色を浮かべ、ソフィエさんは言った。聞けば、文烏で既に領主の訃報は届いているらしい。
「偉大な人だった。伯父はボクが目指すべき男だった……」
いつの間にか後ろに立っていた小太りの男が言った。と思ったら、領主代理の甥だった。
「お、甥!? なんでこんな所にいるんだ!?」
「物資の補給依頼があってな。伯母は留守だから、ボクが全てを取り仕切ってるんだ」
帳簿を片手に甥は言い、同時に俺の腕を掴んだ。
「それより……近い! 貴様、汚らわしい身体でソフィエさんに近寄るな!」
「しょ、しょうがねーだろ! モテ期なんだから!」
「ぬぅわんだとぉ!? それはあれか、ボクの身には42年間訪れた事のないアレか!」
「そうだ、俺は小2以来のアレだ! ……って、お前42歳だったのかよ、とっつぁん坊やすぎだろ!」
せいぜい28歳ぐらいだろうと思っていた。まさか21コ上だったとは。
「ああそうだウキキ、これ、会ったら返そうと思ってたんだ。返すから、また新しいのを借りに行くぞ」
そう言って大袈裟なカバンから取り出されたのはエロ本。まごう事なきエロ本。それも二冊。
駄目だコイツ。時と場所をまるで考えていない。ファングネイ兵団長の作戦本部のような小屋で……しかもソフィエさんの前でって。
「ねえウキキ、それなあに?」
ソフィエさんが甥の持つエロ本の表紙を目にし、興味を持つ。
「女の人が縛られてるけど、なんかの試練?」
いや違う! これはあなたが流浪の送り人になる為に挑んだ決別の試練のような、決意の元に行われるものではない!
「興味があるなら……今度、ボクがソフィエさんにやってあげるけど?」
結婚式場のウエディングプランナーのように、表紙を捲って中身を見せようとする甥。俺は音速でその手を叩き、光速でエロ本二冊を奪って、ボディバッグのなかに無理やり詰め込んだ。
*
「話は分かった。今すぐ全小隊に引き上げるよう、伝令を送ろう」
窓もない薄暗い部屋の片隅で、ファングネイ兵団長は領主の書状とゴブリン銀貨を片手に言った。
ゴブリンを一向に発見出来ない事に業を煮やした、ミドルノームとファングネイ合同兵団のローラー作戦。発動間もないこの作戦は、この時刻をもって終了する事となった。
「ミドルノームの隊も1つあります。それには私が従者を送りましょう」
白髪の中年男性が言った。それに対してファングネイ兵団長は力強く頷き、そのまま俺の肩にそっと手を置いた。
「ハンマーヒルの領主ダスディー・トールマンは友人であり、兄のような存在でもある。全てが終わったら、彼の最期を詳しく聞かせてはくれまいか」
「じゃ、じゃあゴブリンとの会談を承諾してくれるんですね……?」
「友人の最後の手紙に、君の話をちゃんと聞くよう書いてあった。そして、その通りにした結果、君の言う『争いは回避出来る』という話にも納得がいった。加えて、このゴブリン銀貨……。会談は、私が全ての責任を持って応じよう」
その言葉に、俺は重く伸し掛かっていた肩の荷を降ろす。いや、降ろすのはまだ早いかもしれない。せめて手に持っておこう。
それからは、全てにおいて話が早かった。初老を越えて尚、筋骨隆々で角刈りのファングネイ兵団長は的確に指示を飛ばし、伝令兵を乗せた幾体もの翔馬が本陣を発った。
大多数の兵士が戻ったのはそれから1時間後。誰もが困惑した表情を浮かべ、不満を口にする者も少なくはなかった。
「急に帰還させて悪かった。これからその経緯を説明させてもらう」
集められた二百を超える兵士達の前で、ファングネイ兵団長が声を張った。次に口を開いたのは、隣に立つ白髪の中年男性。話を聞いているうちに、この男性がミドルノームの兵団長だという事に、俺はやっと気が付いた。
その物腰穏やかな兵団の長がゴブリンとの会談に臨む旨を話すと、兵士達からどよめきが起こった。
ファングネイ兵団長が一歩前へ出る。すると水を打ったように、辺りがシーンと静まり返った。
「話は以上だ。一番隊から十番隊以外は速やかに解散、待機を命じる」
その声で多くの兵士達がその場を後にし、残された者達へと新たな指令が下る。
「貴様らは再び出立の準備をしろ! 出発は夕暮れ前、目的地は願納の滝だ、以上!」
眼光鋭い長身の男が、腕を組んだまま大声をあげた。ファングネイの副兵団長らしいが、その人物像よりも、その内容に俺は眉をひそめた。
「こ、こんな大勢で向かうつもりか!? 100人はいるぞ……!?」
――うぬ、騙されたのではないか?
クリスが語る。何が言いたいのかはすぐに理解が出来た。
会談に応じるって言っときながら、ノコノコやってきたゴブリンを討伐するつもり……って事か!?
――隠れ家にいたゴブリンは20余名、100もいれば一網打尽じゃろう。
他人事のように語ったクリスはそのままソフィエさんの胸に飛びついて抱かれ、まるで人と亜人の争いごときに大狼は関与せぬ、と言わんばかりに静かに目を閉じた。
「クリスちゃん、なんて言ったの?」
その頭を撫でながら、ソフィエさんが俺の瞳を覗き込む。
「いや、兵団がゴブリンを討伐するつもりじゃないかって……」
俺の言葉に即座に反応したソフィエさんは、眉間にシワを寄せて「むむっ……」と唸り、ファングネイ兵団長の元へと歩いた。
しかし、その道筋に、ファングネイ副兵団長が立ち塞がる。
「おや、送り人様、どちらへ? ここから先は女子供が足を踏み入れるような場所ではありませんよ?」
空のひつじ雲はいつの間にか散っており、3つの月が輝きを増していた。