136 ヘタレ小僧の矜持
「ユイリ、耳になにかゴミ的なのが付いていますよ?」
「えっ……どこですか?」
少し慌てたユイリが巫女装束の袖口を押さえながら、その長い耳に触れた。
「取れましたか?」
「いえ、取れてません。……もし良かったら、俺が取りましょうか?」
許可を待たずに、俺は向いの席に座るユイリの耳にそっと手を伸ばす。
「ヒッ……! いえ、結構です。自分でなんとかします」
「そ、そうですか……」
俺は宙に浮いた可哀そうな手をそのまま戻し、なんとなく膝小僧を掻く事でなんとか体裁を保つ。
「ユイリ、そんなにウキキ殿を警戒するな。親切心で言ってくれているんだぞ」
揺れの少ない翔馬の馬車。その窓から外に目を向けているアナが言うと、ユイリが「すいません……」と口にしてから俯いた。
「い、いや、謝らないでいいですよユイリ。……あっ! ゴミ的なのだと思ったら、可愛らしい耳たぶでした!」
シーンとする馬車内。後部のベッドで領主と座っているアリスが、短いセンテンスで俺をディスる。が、聞いていない振りをして、何事も無かったかのように、俺は再びユイリの長い耳を視界に捉えた。
……くそ、せめて、『アリスの身体でやりたい4つの事』の『ユイリの長い耳に触れる』は叶えようと思ったのに。俺の身体でそれが出来たら100点満点なんだが……。
領主が死ぬまでにやりたい4つの事。
それの『娘に赦される』という願いを叶える為の道中、俺はそんな事を考えながら視線を領主に移動させる。
余命三日という宣告を受けた身で、一日半は掛かるこの旅は少し無謀と言えるかもしれない。
しかし、妻である領主代理も好きにさせてやっておくれと言っていたように、領主自身もこの旅の目的地が人生の航路の終着点だと分かっているのだろう。
もしかしたら、『娘に赦される』というのは口実で、ただ単に我が子を一目見たいだけなのかもしれない。
自分が死ぬ前に、イリーユという女性との恋物語が確かに存在していたという証を、ただ強く抱きしめたいだけなのかもしれない。
「どしたい、ウキキ? そんなに真剣な顔をして」
俺の眼差しに気付いた領主が、お爺ちゃん特有の柔らかい笑顔を浮かべる。
「ああ……いえ」
と答えあぐねていると、「すまんな、付き合わせちまってよう」と言ってから、通り過ぎる外の景色に目を向けた。
「本当なら、従者や使用人に頼むべきだった。だが、トールマン家の家督の死に際の旅になんて付き合せたら、弟達が従者を責めかねねえからなぁ……」
俺も同じように、窓から見える平原の風景に視線を投げた。
細い木々の葉一つない枝は風に揺らされており、これからこの異世界に到来する冬を予感させた。
「まっ……アナは俺と運命共同体だからな、あとでこっぴどく叱られるのも覚悟の上だろう?」
俺の予感など気にしていない領主が、アナに言った。
「そうはっきり言われると照れますが……はい、どこまでも領主様についていきます」
「照れるのかよ……」と俺は心の中で呟いた。
「悪いかウキキ殿」
口に出ていたようだ。
「ハハハッ! この歳で麗しき乙女の頬を赤く染めるたぁ、男冥利に尽きるぜぃ! おうウキキよく聞けい、男子たる者、瞳に映った女は全員俺に惚れさせる……そう考えて行動するよう肝に銘じろい! なんなら男も惚れさせちまえ、獣もだ! そうすれば、ちょっと腕っぷしが弱くっても最強ってぇもんでい! これが北の大魔導士、ダスディー・トールマンの生き様よう!」
領主はやせ細った体で精一杯の力こぶを作り、俺達に見せた。
北の大魔導士と呼ばれる領主。だが、その実力を見た者は、トールマン家の莫大な財産に目がくらんだ者以外には存在しない。という話を、俺はふと思い出した。
しかし、実力は無いかもしれないが、確かに人としての魅力に領主は溢れている。
男が惚れる男、そう評するのが一番しっくり来るように思える。
「どうでいウキキ! 全てを惚れさせる者こそ、最強の男ってもんだろうよ!」
更に逆の腕でも力こぶを作っている領主。それをもう一度、俺に見るよう促す。
「はい。……それは、領主の膝の上で居心地よさそうにしてるクリスが、一番分かってると思いますよ」
俺は、気持ちよさそうに欠伸をかいているクリスを見ながら言った。
獣にさえ惚れられる男。それがこの領主、『北の大魔導士ダスディー・トールマン』なのだろう。
――誰がじゃ、たわけ。これはわらわの床暖房じゃ。
と聞こえたが、やはり俺は聞こえなかった事にしておいた。
*
風雲は急を告げる。
「お、雷まで鳴って来やがったな」
いや、この場合だと『雷雲』と言った方が正しいかもしれない。
領主が遠くに落ちた雷を目にしてから、前の小さな窓ガラスを叩き、馬車を運転している御者に声を掛ける。
「この大雨と雷だ、そこは屋根があるとはいえ、キツイだろい。もう少ししたら小さな町があるから、ちょっと辛抱してくれい」
「領主様。翔馬とはいえ、少しは揺れるんです。言付けなら私に言ってください」
少しふら付いた領主を支え、ゆっくりとベッドに座らせながらアナが言った。
丁寧に返事をしている御者の遠い声が聞こえたと同時に、領主は「すまねぇ。次からはそうすらあ」と口にした。
また遠くで雷が落ちた音がした。次の瞬間、黒い空に稲光が舞う。
「もう随分と遠くまで来たな……」
俺はそれを見てから、小さな声で独り言を漏らした。
既にハンマーヒルの北にあるトールマン大橋を越えてから、10時間近くが経っている。
途中で進路を妨害している死ビトを何度か倒したり、翔馬を休ませる事を兼ねた昼食休憩を長めに取ったりで、当初の予定よりはだいぶ遅れている。が、順調な旅と言える許容差を超えてはいないだろう。
しかし、流石の領主も急に降り出した大雨は想定していなかっただろう。
町で一泊する事は予定内だったが、この『急』が今後の旅にどう影響するかは、神のみぞ知る……と言った所だろうか。
そんな事を考えていると、馬車が平坦な道を曲がり、頑丈そうな木の塀に囲まれた町の門を通り抜ける。
「おう、とりあえず今日はここまででい。みんなお疲れだったな」
余命三日の領主が元気に立ち上がり、全員の労をねぎらう。
「送り人のお嬢ちゃんも、いきなり結盟から同行を言い渡されてここまで疲れただろう。宿でゆっくり休んでくれい」
続けてユイリを名指しにし、揺れる客室で安全に立ち上がれるよう、優しくその手を取ってサポートをする。
「ありがとうございます……」
ユイリは短く返事をした。そしてそさくさと客室を出て、雨よけの屋根の下まで走った。
「ユイリ……なんかまだブルーっぽいな。どうしたんだろ?」
「そうね、私が元気になるよう、あとで絵本を読んであげるとするわ!」
アリスはそう背中の赤いリュックを揺らせて言うと、一目散にユイリの元まで駆けて行った。
*
赤いリュックの中には、絵本の他にこじんまりとした水筒も入っていた。
アリスは食後にそれを取り出して陶器のグラスに注ぐと、唐突に領主に差し出した。
「はい、領主のおじいちゃん。噴水の水を飲んでちょうだい!」
「おう、これがアリスの言っていたケガを治す水かい」
そう言ってゴクゴクと飲み干す領主。
おかげでこの通り、元気になったぜぃ! と、おちゃらけて見せる。
噴水の水は、その場ですくって飲まないと全く意味を成さない。
しかも以前、アリスがその存在を領主に告げたさい、『大魔導士の館にも似たような水があるが、残念ながら病を治す効果は微塵もねえなぁ』と言っていた。
どんな大ケガでも治す噴水の水だが、決して病まで治す万能の水という訳ではないみたいだ。
当然、それはアリスも分かっている。
バカで人の話を聞かない自信過剰のお嬢様のバカだが、意外と大事な話は聞き洩らさないで、しっかりと頭の中に刻んでいる。
しかし、それでも噴水の水を領主に飲んで欲しかったのだろう。一縷の望みとすら言えない細く短すぎる一本の糸のようではあるが、それでも大好きなお爺ちゃんに元気になって欲しいのだろう。
アリスは、アリスにとってやるべき事をきちんと熟している。
それならば、今、俺に出来る事はなんだろうか。
「ちょっと、外を散歩して来ます」
と立ち上がって俺は言う。
夜だからという理由でアナが止めたが、「だいじょうぶだって」と言って、俺はそのまま宿と併設されている食堂の扉を開ける。
――雨、少し小降りになったかのう
何故か一緒に出て来て、俺の頭に飛び乗ったクリスが語り掛けた。
なんでお前まで来るんだよ……。
――食後の運動じゃ。雨で湧いている外の死ビトを片付けておくのじゃろう?
見抜かれている。散歩と言って出て行き、颯爽と敵を倒すのが男の矜持だというのに。
まあいいか。じゃあ行こうぜ、相棒。
少しだけ歩を早めながら俺は脳内で語った。
それと同時に、後ろから聞き覚えのある声が俺の背中を貫く。
「よう、また会ったなヘタレ小僧!」
俺は素早く振り返る。刹那、折れたモップの先が頬を掠める。
「あ、あんたは……!」
目を赤く染める折れたモップ装備型大男に視線を投げながら、俺は血の滲む頬に触れ、指の先で拭った。