133 元に戻って先へと進んで
泣いていたアナは、しかし猫屋敷を出る頃には気丈な振る舞いに戻っていた。
目元の赤みはどうにもならなかったようだが、領主の屋敷に戻るまでにはどうにかすることだろう。
領主の命があと三日……か。
俺が最後に領主を見たのは、部屋を出る際に拳を突き出してニコっとする姿だった。
あの柔らかい笑顔からは、死の影のようなものは一切感じなかった。が、それでも人は死ぬのだろう。
俺が感じた事なんて、ただ単に俺の獣の眼は人の死を感知する能力まではない。という事実を突きつけられただけに過ぎない。
本当なら、明日の朝に訪ねてゴブリンの件を相談したかった。
この異世界に転移して間もない俺が、ゴブリン討伐のお偉いさんとの面談を叶えようとするなら、やはり領主や領主代理を頼るのが一番だ。
だが、余命を宣告された者や、その身内にそんな話をするのは少々気が引けてしまう。
「こいつならどうするのかな……」
テーブルに突っ伏して眠っているアリスに目を向けながら、俺は呟いた。と同時か、少し後か、判定に迷うタイミングで閉じられた瞳がスッと開いた。
「あれ、珍しいな、自分で起きたのか。……カフェインの影響か?」
しかし会話をする程は覚醒していないようで、「トイレ!」とだけ言ってからすぐに店の奥へと消えて行った。
「黙って行けって……。なんか俺の身体でトイレ行かれるのスゲー嫌だな……」
まあ、アリスも俺がトイレに行くのは嫌だろうから、その点ではお互い様だろう。
そう思いながら色々と想像を膨らませていると、階段を下りて来る人の姿を自然と視界に捉えた。
宿泊客だろうか。おもむろにテーブルに座り、男性客が大きな声でエールを、女性客がコーヒーをそれぞれ注文した。
「なに見ているの?」
「うわああああ!」
ハンカチで手を拭きながら、アリスが俺の驚きに対して冷たいツッコミを行う……と思ったら、驚いた表情も世界一可愛いと溜め息をつく。
「ウゼえ……俺の顔で気持ちの悪い溜め息はやめろ」
と脇腹に水平チョップをかまし、そのまま椅子から立ち上がって階段へと歩いた。
「もう部屋に行くの?」
「ああ、もう遅いし寝るぞ。……お前の身体だからかな、眠くて仕方がない」
背中でアリスにそう言うと、カウンターの女性店員の会釈が目に入った。
アリスは大きな声で「おやすみなさい!」と言い、俺は会釈を返し、美人の笑顔を角膜に残したまま階段を上がった。
「大男三人を撃退したのはアナなのに、俺達にも丁寧に礼を言ってくれたな。アナの知り合いらしいけど、いくつぐらいだろ? なあアリス、後で聞いといてくれ。出来ればおパンツ様の色――」
あれ? いない?
とアリスの姿を見失ったと同時に、「ギャアアアアアア!」という絶叫が一つ。
進行方向の逆側に目を向けると、突き当りの部屋の扉を開けたバカの姿があった。
「アリス! 俺達の部屋はそっちじゃなくて、こっちの突き当りだアホ!」
俺は急いで開いたままの扉を閉めてから言い、続けて閉じた向こう側に「すいませんでした」と謝罪をした。
「バカアリス! なんでお前はいつも違うドアを開けるんだ!」
「あなたが突き当りの部屋って言ったんじゃない!」
反抗を示すアリスに、突き当りは二つあるんだよ? と懇切丁寧に説明し、俺は重要案件を再び口にした。
「で、あの女性店員のおパンツ様をだな……って、痛い。なんでチョップをした?」
「私の悲鳴の理由は無視なの!?」
「またか……。どうせ、オッサンが三人着替えてたとかだろ」
「二人よ!」
ピースサインを俺の目の前にかざしたアリスは、そのまま今度はちゃんと俺達の部屋の扉を開け、クリスに腕を飲み込まれたままベッドに横になった。
*
カフェ・猫屋敷で迎えた朝。
猫に目覚めを催促される事はなく、猫耳娘が『おやようだニャン』とポーズを決めて言ってくれるサービスもないようで、例によって俺の覚醒を促したのは「ギャアアアアアア!」という悲鳴だった。
「う、うるせーな……」
俺は寝ぼけ眼を擦る間もなく、天井を見上げたままオッパイ体操を自然と始めた。
起きてからすぐにやるのがバストアップのコツだと聞いている、アリスの為だ仕方がない。
何故か裸になっている事は気にせず、両胸に惜しげもなく両手を当て、寄せて寄せて寄せる。そして上げて上げて上げる。
よし、血行がよくなっただろう。続けてオッパイ体操第二である。
俺は可愛らしいお乳首様をそれぞれ丁寧につまみ、「おいっちにー、おいっちにー」とリズミカルに歌いながら伸びるだけ伸ばして回す。ちゃんと恥ずかしがらずに歌おう、君のために。
不意に、「んっ……」と吐息が漏れる。ふむ、小学五年生の身体ながら、敏感なところは敏感なようだ。
時計回りが終わったら、今度は逆時計回りも忘れてはならない。このひと手間を惜しむと、成長する物も成長しなくなってしまう。将来、アリスが俺に『ムネナシ』とディスられない為にもキチンと行おう。
心なしか、お乳首様もお硬くなってきた。それでは仕上げに入ろう。
Bボタンなのである。お乳首様とはつまる所、Bボタンなのだ。
それ故、今このアリスのちっちゃなお乳首様はBダッシュをするべきなのだ。なんか毛が一本生えている気がするが、それでもBダッシュのように強く押し込んで、女性ホルモンを奪取するかの如く巡らせる事が必要なのだ。
「あ、あなた何をやっているの……?」
明らかに引いているアリスの声が耳から入って脳に伝わり、お乳首様に吸収合併された。
なんか本気で引いている。お前の為だと言うのに、お前が『ムネナシ』と俺にディスられない為なのに。
「って……あれ?」
ベッドの俺を見下ろしている少女をよく見てみる。
前髪ぱっつん黒髪で、その透き通るような毛先は俺の鼻を掠るほど長い。
アリスだ。こいつは紛れもなくアリスだ。
「……身体が元に戻ったのか!?」
しまった、俺は俺の身体でオッパイ体操をしていたのか。
なんという事だ……ってか、異様にこの乳首毛なげーな……。
*
「どうして私、あなたのシャツを握りしめながら眠っていたのかしら。変態の裸が目の前にあって、おかげで驚いたわ」
カフェ・猫屋敷の1Fで朝食のパンを頬張り、飲み込んでから、アリスが疑問を投げかけた。
「どうしてって、俺が夜中に目覚めて眠れなかったから脱がしたんだよ。そんで取れ掛けてたボタンを縫い直したんだ」
俺は、着ている真っ白なワイシャツのボタンをつまんで言った。
つまり、その後に急激な眠気に襲われて、椅子に座ったまま眠るまでは俺の魂はアリスの身体の中だった事になる。
「あら、そうなの」
「あら、そうなの。じゃねーよ……お前が10枚ガチャガチャから取得した『裁縫の極意』の検証でもあったんだぞ」
検証と言っても、得た情報は『ほつれかけているボタンを付け直すぐらい、余裕』という事だけだった。
まあ、あの黒いガチャガチャから極意を取得しても、本人にやる気がなければあまり意味はないのかもしれない。
この異世界で洋服のブランドを立ち上げようとアリスが思わない限り、この極意の話題はこれで終いになるだろう。
「どうせなら、『プリティービューティフルアリス』というブランドでも作ろうかしら」
思ったようだ。
そんなこんなんで朝食を終え、俺達は領主の屋敷へと向かった。
クリスは珍しく路面を歩いており、水たまりを小さく飛び跳ねて避けた。気が付かなかったが、夜中にまた雨が降っていたらしい。
「森爺に貰った銀貨、結局使わなかったな」
俺は一度親指で弾いてからすぐに掴み、ボディバッグの中の財布にしまいながら言った。
「大男から守ってくれたお礼でタダと言っていたわね」
「ああ、綺麗な店員さんだった。パンは彼女の手作りだってよ」
アリスは「凄いわね!」と言いながら路地を曲がり、スキップっぽい動きをして先へ先へと進んで行った。
……アリス、領主と会えるのが嬉しいんだな。
領主の命の残り火があと三日という事は、まだ伝えないでいた。
屋敷に着けば嫌でも知る事となるが、それでも俺には伝えられなかった。
――うぬは臆病じゃな。前髪ぱっつん娘が泣き出すのを見たくないのか。
いつの間にかアリスの腕を咥え込んでいるクリスが、俺の脳内へと語った。
出来れば……見たくないな。お前の言う通り、俺は臆病だよ。
――そうか。まあ、それはどうでもよいが、尾行されておるぞ。
クリスは目を剥き出しにし、尻尾をバタバタと振りながら淡々と語った。