131 この異世界での生き方、その表と裏
召喚士であるアリスが死ねば、その軽く召喚獣である俺は元の世界に戻される。
森爺は淡々とその事実を、俺とアリスの目の前でリキュール入りのハニーオレンジを片手に告げる。
目一杯まで広がった瞳孔が狭まっていき、グラスが口元で傾けられる。その姿を黙って見ていると、隣のアリスが木製の椅子にチョコンと座り直してから口を開いた。
「なんの話?」
「なんのって……お前、聞いてなかったのか」
聞いていなかったのなら、それでいい。
こんな事、アリスは一生、知らなくていい。
そう思い、俺は説明するのを止めた。
が――
「召喚士のお嬢ちゃんが死ねば、三井君は無事に元の世界に還れるじゃろう」
改めて言い直す森爺。再び瞳孔が広がり、心なしか姿勢まで前のめりになって俺達の瞳を交互に覗き込む。
まるで、それを望んでいるかのような目付きをしている森爺。
その姿を見て、俺はついテーブルを叩きながら声を荒げる。
「そんな事……こいつの前で何度も言わないでくれ!」
テーブルを叩く音も、荒げた声も、魂が入れ替わってアリスの身体になっている俺では迫力もなにもない。
森爺もそう感じたのか、低く短い笑い声を上げてから、顔いっぱいに溢れんばかりの笑みを浮かべる。
「ふむ、気に障ったのならすまんかったな。しかし、これは何もワシの想像で言っている訳ではない。召喚士に聞けば、誰もがそう答えるじゃろう。まあ、例外もいるとは聞いているがのう」
例外……。アメリアが死んで大狼になったフェンリルみたいな奴の事か……?
と考えながら、隣で俯いているアリスに体ごと視線を向ける。
「私が死ねば……」
太ももの上で寝だしたクリスを撫でながら、アリスが一つ呟いた。
なんて言えばいいのか迷った。いや、迷う以前に言葉がまったく出て来なかった。
すると下を向いていた顔を俺に向け、眉をハの字に曲げているアリスが静かに声をあげた。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」
俺はただ黙って頷いた。顎が上から下に、下から上に往復する刹那、俺の脳内に質問の予想が何通りも浮かんだ。
「三井君って、誰?」
まったく予想していなかった質問が、俺の顔目がけて飛んで来た。
「ウォ……俺だよ!」
「ウォ?」
そんな俺達のやり取りを見ていた森爺が、自分のグラスを流し台に置いてある木の桶に運んだ。
それから上着のポッケに手を突っ込み、中から取り出したコインを俺達にハッキリと見えるように手のひらに置いた。
「ワシは聞かれたから答えただけで、お嬢ちゃんが死んで三井君が元の世界に戻る事がいい事とは、これっぽっちも思っておらん」
コインがひっくり返り、鈍い輝きを放つ。
鋳造で作られたような銀のコイン。森爺はそれの表裏をやや丁寧に説明してから、続けて口を開く。
「この世界もそう悪くはないじゃろう。この世界での生き方を、コインに問うのも一つの手じゃ」
コインが親指で弾かれ、宙を舞った。
70歳を少し過ぎた老人にしては素早い動きで、宙のコインを片手で掴む。
「表が出たらどう生きるか、裏が出たらどう生きるか。それを考えながらワシの手の中を覗くと良いじゃろう」
表と裏か……。
じゃあ、表が出たらソフィエさんにおパンツ様の色を聞いて、裏が出たらユイリのおパンツ様を強奪しよう。
そう考えながら、俺は開かれた森爺の手のひらに目を向けた。
「裏……ね」
俺よりも先に、さっきよりも小さな声で、アリスが一つ呟いた。
*
夜のハンマーヒルを街灯が照らしていた。
橋の丁度真ん中から下を流れる水路を眺めていると、青年の漕ぐ小舟がゆっくりと街の西方向へと進んでいった。
「これ、なんの絵かしら」
片目を瞑って、穴が開くほど銀のコインを見つめているアリスが声をあげる。
「さあな……。なんかとんがり帽子の老人っぽい刻印だったな」
俺はだんだんと遠くなって、今は燈火しか見えない小舟から視線を変えずに、声だけをアリスに送った。
「裏は文字だけね。ミドルノームと書いてあるわ」
「ああ、書いてあったな。この異世界の文字だろうけど、ショッピングモールスキルで日本語にしか見えん」
そう言うと同時に俺は燈火から視線を切り、「さーて……」と口からこぼれた少し舌っ足らずな自らの声を聞きながら、振り向いてアリスごと夜の街に目を向けた。
「飯と泊る所、どうするか。森爺を頼ってた訳じゃないけど、別の狩場に向かっちゃったからな……」
「領主のおじいちゃんの家は駄目なの?」
駄目……ではないが、招かれたのは明日なのに、前日の夜から訪ねるのは少々不躾ではないだろうか。という懸念が未だ拭えないでいる。
「まあ、とは言え野宿って訳にもいかねーし、ゴブリンの話も早い方がいいし、行くかアリ――」
あれ、いない?
いつの間にか駆け出していたアリス。
その行き先は橋を渡って向こう側の、外からでも落ち着いた店内の雰囲気が伝わる木組みの喫茶店だった。
「か、カフェ猫屋敷……どんな店名だよ。って、入るのか? 金銭的な物ないぞ?」
俺も走り、ドアノブを掴んだアリスに聞くと、持っていた銀貨を俺の目の前でかざし表を向けた。
「あるじゃない!」
「……ああ、確かにこれ使えそうだな。でも――」
幸運の銀貨じゃ。と言って森爺がくれた銀貨を、速攻使うのか? と言おうとしたが、俺の脳裏のなにかがそれを止めた。
……この異世界での生き方。それを問う場面で裏が出るようなコインなんて、さっさと使っちまった方がいいな。
それに、問い詰める事はしなかったが、死ビトに向かってひとりで喋っていた森爺。
アリスの死を瞳孔を広げて語っていた姿も相まって、今は少し不気味にも感じていた。
「なあアリス」
木製の扉を開けたスーツ姿のアリスの名を、俺はただ、なんとなく呼んだ。
聞きたい事が一つあった。しかし、なんで知らない店に足を踏み入れようとしている、このタイミングで聞こうとしたのかは、自分でもよく分からなかった。
お前、コインの裏が出たらどう生きようと考えてたんだ?
聞きたい事はこれだった。
自分が死ねば、俺は元の世界に還される。その事実を知ったあとに生き方を問われたアリスは、どう考えたのだろう。
裏が出たら――俺の為に自らの命を絶つ。あるいは、自分の命を軽視する。
まさかとは思うが、こんなバカな事を考えてはいないだろうか。
たかだか銀のコイン一枚の表裏だけの事で、こんなどうしようもなくバカな考えを植え付けられてはいないだろうか。
その問いが口から出掛けた瞬間、開かれた扉の奥から怒号のようなものが聞こえた。
「部屋がねーって、どういう事だオラァァ!」
カウンターの向こうの女性を怒鳴りつける大男。
見兼ねた他の店員の男性が、なだめるように後ろから近づく。
「お、お客様、どうか落ち着いてください!」
「あーっ!? なんだオメエは、国士様に向かって落ち着けだとぉ!? 誰のおかげで商売出来てると思ってやがんだ!」
と、オロオロしている男性に凄んで見せたのは別の大男。
革製の鎧を身に纏っているところを見ると、兵士だろうか?
店の入り口から呆然とそのやり取りを眺めていると、また別の大男が隅に立て掛けてあるモップを手に取り、無言で男性に向かって振り上げ、そして振り下ろす。
「玄武ちゃん、いらっしゃい!」
カメエエエエッ!
刹那、アリスが間に飛び込み、玄武を使役して光の甲羅で迫り来るモップを弾いた。